第五話
蓮の左腕を枕に、桃子は静かな呼吸音とともに規則的に上下する彼の胸板の動きを眺めていた。
窓からの僅かな月明かりしかなく、蓮の姿はぼんやりとしていてよく見えない。でもその分、蓮の寝息ははっきりと聞こえ、蓮の匂いを強く感じる。そして密着している全身から、連の鼓動と心地よい体温が伝わってくる。
それは視覚で捉えるよりも遥かに確実に、蓮という存在が今ここにいる、ということを確信させてくれる。
その確信は、一割の後悔と、二割の不安と、七割の幸福を桃子にもたらした。
これまでずっと男を寄せつけず、独りで頑張ってきた。それは夢の妨げになるからという理由で。スキャンダルはご法度だという自分ルールで。誰から言われたわけでもなく、自分で決めて、自らを戒めてきたのだ。
それなのに、今こうして男に抱かれ、裸になって寄り添っているだけで、世の中の全ての苦痛から開放されたような安堵感に包まれてしまう自分って一体何なのだろう。
とても現金な性格なのだろうか、実は本性が男好きなのだろうか。
自分は、昔から何も変わっていないのだろうか。
桃子の記憶に、初めて付き合った男の記憶が微かに蘇る。正確には、その頃の自分の姿の記憶が。
相手が強引に迫ってくると、何も言えずに、相手の言いなりになってしまう。相手が求めたから抱かれた。それでも「好きだったから」の一言で、簡単に自分自身を納得させることができた。遊ばれた、騙された、と気づくまでは心の底から幸せだと思っていた。そんな、ただ相手にとって都合がいいだけの、何の意志も取り柄もない馬鹿女。
簡単に流されてしまう自分が嫌いだった。変わりたいと思った。
しかし、結局のところ何も変わっていない。
桃子は無意識のうちに自分でもわかっていた。誰かを好きになると頼ってしまう自分を。一度頼ってしまうと、もう支えなしには何もできなくなってしまうことを。そんな自分を見たくないから、男を避けてきたのだと。
蓮に抱かれるのではなかった。そうすればこんなことは考えなかったはずなのに。
後悔と不安の思いが幸福感を凌駕しそうになる。
桃子は頭の下で枕になってくれている蓮の左腕の、肘から先を探り当てて目の前に引っ張り出した。今は皮手袋を外してくれている。その甲に刻まれた傷跡をゆっくりと指でなぞってみた。
指先が不規則な凹凸に触れるたびに、少しずつ不安が緩和されていく。蓮の心の傷がそのまま具現化したような傷跡が、皮肉にも桃子の心を一番癒してくれるような気がした。
何を考えてももう遅い。自分は蓮に抱かれてしまった。自分が望んだことだった。だから、この幸せをずっと信じていたい。蓮と、いつまでもこうしていたい。
強く念じてみると、鼻の奥がつんとしてくる。
桃子は思う。やっぱり私は、名前の通り、桃の子だ。
「桃子さん、くすぐったい……」
耳元で声が聞こえて、桃子は蓮の左手を離した。恥ずかしくなったので、くっつけていた体も少しだけ離してから、声をかけた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや、どうやら寝てたのは一瞬だけで、あとは起きてたよ」
「じゃあ、寝たふりしてたのお?」
「そういうわけじゃないけど、桃子さんずっと何か考え事してたみたいだから」
そう言いながら、蓮は仰向けだった体を桃子に向けた。桃子がその胸の中にもぐり込むように密着すると、蓮は優しく抱き締め、髪や背中をゆっくりと撫でた。
「……あまり性急に決めない方がいいよ。今日のことはショックだっただろうけど、だからこそ落ち着いて、冷静になるのを待って、それからゆっくりと今後のことは考えればいい」
「うん、わかってる」桃子は口ではそう言ったが、今は頭の中が蓮のことで一杯で、夢を諦めようか、などと思い詰めていたこと自体、すっかり忘れてしまっていた。
「考えていたのは、別のこと」
「別のことって?」
「名前」
「名前って、桃子さんの? それとも僕の名前かな」
「桃の花の花言葉って知ってる?」
「いや、全然」
「絢爛たる愛、気立てのよさ」
「へえ、なんか桃子さんにイメージ合ってるかも」
「でしょ。私って名前通りの性格だなって、自分でも思う」
どうやらウケたらしく、笑いを堪えようとしている蓮の体の振動が伝わってくる。
自分で自分のことを気立てがいい、などと言えば傲慢だろう。でもそのくらいの自惚れがなければ、モデルなんて目指さない。
桃子は蓮の反応を無視して続けた。
「でもね、桃には他にもこんな意味があるの」
「なに、どんな意味?」
「あなたに心を奪われる、愛の奴隷」
「へー」
「私、名前通りの性格だからね」
「うんうん」蓮はそっと桃子の頬に手をあてて頷いた。
「だからね、不安なの。蓮もそうなのかなって」
「僕が?」
「蓮て、ハスの花のことでしょ。ハスの花言葉知ってる?」
「いや、全く」
「雄弁、純真」
「なんか、僕とはイメージ違わないか?」
「そうでもないよ。それから、こんな意味もあるの」
「なに?」
「遠ざかっていく愛」
「……」
「だから、不安なのお」
「なるほどね。愛の奴隷と、遠ざかる愛、か」
「ね、私いつの間にか置いてけぼりにされそうでしょ」
「そんなことないって。気にしすぎだよ。それより、桃子さんが花言葉に詳しいってちょっと意外。一昔前の夢見がちな文芸少女みたいだな」
「なによお、それえ」
「ごめんごめん。ではお詫びにお話を一つ。ハスの花を英語でなんて言うか知ってる?」
「知らない」
「ロータス。ギリシャ語ではロートス、またはロトスって言うらしい」
「ふーん。それがどうしたの?」
「ギリシャ神話ではね、そのロートスの実を食べると、現世の苦悩を忘れることができる、という話があるんだって」
「ふーん」
「あまりフォローになってないかな」
「そんなことないよ。じゃあ、こうして蓮の匂いを嗅いでいる間は、辛いことも悲しいことも忘れていられるんだね」
桃子は自分自身が不思議に思えた。猫なで声を出し、甘えまくっている姿は、自分でも初めてだった。でも、なんとなくわかる。きっとこれが本当の自分なのだ。
既に二人の間に隙間がないくらいくっついているのに、さらに体を蓮に押し付けた。
甘いような、酸っぱいような蓮の匂いが桃子を包みこみ、やがて穏やかな眠気がじわじわと舞い降りてくる。意識が不明瞭になるプロセスは忘却のそれに似て、ややこしい思考は意味を失い、曖昧な感覚だけが残る。自分が無垢に還ったような錯覚に恍惚としながら、微かな意識の中で、桃子は同じ言葉を繰り返していた。
――私は、やっぱり桃の子だ。
(「六 ハスとモモ」終了。次回から「七 引越し」です)
お読みいただきありがとうございます。
今回で桃子編第六章は終了となります。
次回から第七章「引越し」の予定です。桃子編の最終章とりなります。




