第四話
やがて、蓮がやって来た。
でもベッドの上から動きたくない。玄関まで出迎えにいくのも億劫だった。そこで、一階の郵便ボックスの中に隠してある予備の合鍵を使って勝手に入ってくるように頼んだ。
「あれ、どうしたの、真っ暗で」玄関のドアが開く音とともに、蓮の驚いた様子の声が聞こえた。
「あのー、蓮ですけど。桃子さん、どこにいるの?」
「ここ、奥にいるよ」桃子はベッドから動かないまま返事した。
「じゃ、おじゃまします……」
桃子はじっと、開けっ放しになっている寝室の扉からリビングを見つめた。
窓から差し込む、僅かばかりの月光だけで作られる視界は青黒く、ぼんやりとしている。その視界に、恐る恐る忍び足で人影が入ってきた。
蓮はリビングの中央辺りで立ち止まり、周囲をきょろきょろ見回している。
「ここ」
桃子が呼ぶと、蓮はようやくリビングの隣に寝室があることに気づいたらしく、扉に近づいてきた。暗くて、表情がよくわからない。
「あの、停電……じゃないよね?」
蓮からも桃子の姿がはっきりとは見えないのだろう。なんとなく、壁越しの相手に話しているような、焦点の定まらない声の出し方だった。
「うん」
「電気、つけてもいいかな」
「蓮って、暗所恐怖症?」
「いや、違うけど」
「なら、このままにしておいて。この方が落ち着くから」
うん、と言って、蓮は寝室の扉の所で立ち尽くした。
桃子が右手を蓮に向けて伸ばし、指を数回折り曲げると、蓮は一歩だけ部屋に入ってきた。
それ以上蓮が動かないので、今度はベッドのシーツ、自分の座っている右隣のスペースを右手で二回軽く叩いた。
促されるままに、蓮は桃子の右隣に、桃子と同じように膝を抱えて座った。
そのまま動かず、なにも喋らないまま、時間だけが過ぎていく。
枕元に置いてある目覚まし時計が、突如としてけたたましい音をかき鳴らした。桃子は慌ててベルを止める。時計は八時を指していた。思ったよりも時刻が早い。このまま二人でずっと朝まで体育座りしているのだろうか。
桃子はゆっくり、ずるずると体を引きずり、座る位置を蓮に近づけた。先ほどまでは三十センチほどあった距離が、ゼロになる。桃子の膝を抱えている右腕は、同じように膝を抱えている蓮の左腕とピッタリくっついた。
少しだけ、ほんの少しだけ、蓮の方に重心をずらしてみた。
蓮の方からも、桃子に向って力が働くのを感じる。押し戻すというより、支えられている感じだった。
そのまま桃子は顔を膝に埋め、大きくため息をついてから、口を開いた。
「蓮」
「うん」
「今日、駄目だった」
「うん、らしいね」
「やっぱり、私、向いてないのかな」
「ここで、ずっとその事を考えてたの?」
蓮の声は、この闇と沈黙を壊さないようにしているのか、小さく、そしてやや無機的に聞こえた。
「うん、ショックだったから」
「たまにはそういうときもあるよ。あまり深刻にならない方が」
「そうじゃなくて、最近いろいろあって、自分が馬鹿みたいに思えて――」
桃子の脳裏に亜衣、成美、美沙の顔が交互に現れては消えた。
「――もう自信失くしちゃったみたい」
「桃子さん……」
「なんだか、疲れちゃった。もう諦めた方がいいのかも」
その一言が、引き金になった。
心でただ思うことと、口に出して言うことでは、精神的ダメージがまるで違った。
漠然と思い浮かべていたことが、言葉になった途端、現実のものとなる。現実は冷徹に、答えを要求してくる。諦めるか諦めないか。
言葉にしてしまった以上、答えが見つかるまでその問いが消えることはない。
このまま続けられるだろうか、この不安と焦りを独りで耐え抜くことはできるだろうか。
やめてしまったら、諦めたら、きっと楽になれる。
桃子は「諦めた自分」をイメージしてみた。
そこに見えたのは、ただの無。無というより、空っぽ。
不安も苦痛もないが、意味もない。今までの自分の全否定。そこにいるのは、桃子と同じ形をした、でも桃子とは全く別の生き物。
「いやだ……」
「え、何? 桃子さん」
「もう、こんな不安が永遠に続くのはイヤ。でも諦めて、何にもない空っぽになるのもイヤ。じゃあ、じゃあ、私どうしたらいいの?」
「ど、どうしたの?」
「わからないよお、蓮」
頭は混乱し、噴き出すように涙が流れ始めた。声にならない絞るような泣き声が、喉から漏れ出した。
「桃子さん、落ち着いて」
蓮は咽ぶ桃子をなだめるように背中をさすった。
「わたし、わらし、いままらで、こんらにりぶんららめらなんれ……ひっく!」
「ごめん、なんて言ってるかわからない」蓮はハンカチを取り出して桃子に差し出した。桃子は受け取ると、思いっきり鼻をかんだ。
「蓮」
「はい、今のはちゃんと聞こえたよ、桃子さん」
「私、怖い。もう怖いよお……げほっ」
「だ、大丈夫?」
「う、うまぐ息が、でぎだい――ごほっ」
蓮が懸命に背中をさすってくれる。桃子は咳き込みながら両手で蓮にしがみつき、全体重を預けた。蓮は桃子をしっかりと受け止め、強く抱きしめた。そのまましばらく蓮の胸に顔を埋めていると、ようやく呼吸のリズムが戻ってきた。それと同時に、パニックのような感情も引いていくのがわかった。そして残ったのは、蓮の暖かい胸板の感触。
「だいぶ落ち着いてきたみたいだね」
蓮が桃子の頭をかるく撫でながら優しく言った。
「うん、もう大丈夫だから」と応えた途端、桃子は後悔した。
まだしばらくこうしていたかったのに。しかし、蓮はほっとした様子で、桃子から体を離してしまった。
少しだけ不満になった桃子は蓮の顔を上目に睨んだ。だが、暗くて表情がよくわからない。顔を近づけると、蓮は驚いたように目をぱちくりさせながら、桃子を見た。
小さく、蓮、と呼んでみると、はい、と返事してきた。
そのまま蓮はじっとしている。どうやら桃子の次の言葉を待っているようだ。
こういうときは男がリードすべきなのに、本当にこいつ気が利かない。
「あのね、キ――」
言いかけたところで突然恥ずかしくなって、声が詰まってしまった。よく考えてみると、桃子は自分から相手にねだったことがない。
「き?」蓮は首を傾げている。まじ鈍感!
桃子は訴えるように蓮の目を見つめた。すると蓮もまっすぐ桃子の目を見つめ返してきたので、たちまち動揺してしまう。
暗くてよかった。たぶん今、自分の顔は真っ赤になっているだろう。
「いや、キ、じゃなくて」などと言い繕ってしまい、どんどん自分の望む状況から自ら遠ざかっていく。完全にタイミングを失してしまった。でも口はそのまま勝手に動いてしまう。
「キ、じゃなくて……イキ、そう、息がね――」
「息が、まだ苦しいの?」
「え?、あ、うん、なんというか」
「人工呼吸、しよっか」
「ええっ?」
「そんな必要はないかな?」
「も、もしかしたら、ひ、必要、かもお」
うろたえる桃子の体を、蓮がしっかりと支える。桃子は本当に呼吸困難になりそうだった。
固まっている桃子の唇に、ゆっくりと、やさしく蓮の唇が重なった。
暖かく、柔らかな感触が全身の隅々まで浸透して、痺れて動けなくなる。そのまま溶けてしまいそうだった。
(第五話につづく)




