第一話・その一
九月になっても猛暑は終わろうとしない。
いや、もうこの時期の暑さは残暑だから、猛残暑が続いている、と言うべきか。
成美からの借金は、約束通りの日に銀行口座に振り込まれた。
ちゃっかりと両親にも連絡して引越し費用を送金してもらった桃子は、にわかに金銭に余裕が生まれたため、引越しの時期を数ヶ月間延期することにした。
ただし、バイトだけは早めに始めておきたい。今住んでいる高円寺から遠く離れるつもりはないので、近くの不動産屋で物件情報を眺めて、大雑把に引越し先の候補地をイメージしながらバイトを探した。
ちょうど地下鉄丸の内線の南阿佐ヶ谷駅近く、成田東というエリアに、十二月から入居可の1DKのアパートと、バイトを募集中のコンビニを見つけたので、思い切って両方とも決めた。
アパートの家賃は八万。高いといえば高いが、それでも今住んでいるマンションの半額以下だった。コンビニはそのアパートからだと徒歩で五分とかからないので引っ越してからは便利だ。当面は高円寺から通うことになるが、高円寺と南阿佐ヶ谷は直線距離で二キロとない。幸い桃子は外を歩くことが好きだった。暑くさえなければ、何十分だろうと歩くことに一切の抵抗を感じないので特に問題はなかった。
「それでは、今日からよろしくお願いします」
コンビニのオーナーが威勢よく声を出した。
バイトは即決で、履歴書を持ち込んだ翌日の午後から始めることになった。短大もあるので基本的には夕方、夜間の勤務になるが、人手不足だということで、時間のある時は極力昼間も働いて欲しいと頼まれた。
コンビニのオーナーは杉内という名で、外見は小柄で穏やかな四十代後半のオジサンだが、声は不釣合いに大きく、動作も機敏だった。近くで見ると手足は太く、胸板も厚い。聞けば元警官だそうだ。桃子にとってはそういう人物の方が安心できる。
「こちらこそ、よろしくお願いしまあす」
桃子も杉内につられて普段よりも大きな声で返事した。自分でもびっくりするくらいの声が出てしまい、思わず顔が赤らんでしまったが、杉内は満足そうに破顔した。
「ウチでは、元気さとレジの速さを大事にしてますからね。その調子で頑張ってよね」
オーナーが仕事の内容を説明する。桃子は上京してからしばらくはコンビニでバイトをしていたので、すんなりと理解できた。でもそのことをオーナーに告げて、過剰に期待されたりいきなり面倒な発注とかをやらされるのも嫌だったので、何も知らない振りをして、一から説明を聞いた。
その後はモップで床を掃除して、それから商品のフェイスアップ。それらが終わると、レジの体験。桃子は全てそつなくこなす。ブランクはあったが、結構体が覚えているもんだと、自分でも感心してしまった。オーナーも使える奴が来て嬉しい、という顔つきだった。
「おはようございまーす」
「ちはーす」
仕事を始めて一時間ほど経過したところで、店内に大きな声が二つ響いた。
朝でもないのにおはようございます、と言うのは、商品の入荷か、店員が出勤してきたときの挨拶だ。桃子が入り口に目を移すと、男が二人並んで歩いてきた。
「おう、ごくろうさん。悪いね、急にお願いしてしまって」とオーナーが返事する。
「全然。まだ夏休みだし、平気ですよ」
おはようございます、と言った男が微笑みながら応えた。
「俺も今日大丈夫ですけど、よければ入りますよ。オーナーここ数日休みなしでしょ。少し休んでくださいよ」
ちはーす、と言った方が、やはり微笑みながら続く。
「そうかい。じゃあ、お願いしようかなあ。なんせ立て続けに三人辞めちゃったからね、さすがに大変だよ」オーナーは少し伸びをしながら笑った。
「で、オーナー早速ですが」
「説明をお願いします」
二人は桃子を見ながら言った。
「おう、そうだった。今日からアルバイトに入った木村さん。なかなか覚えが早くてね、もう一人でお店任せてもいいくらいだよ」
「あ、よろしくお願いしまあす」
桃子はレジ越しに小さくお辞儀した。
「こいつらは同じくバイトの、永澤君と嶋田君。二人とももうベテランだよ。普段は深夜中心なんだけど、人手不足で急遽入ってもらいました」
「よろしく」
「どうもー」
なんだか、お調子者って感じ、軽そ、というのが桃子の抱いた第一印象だった。
オーナーからは信頼されているようだから、仕事はちゃんとこなすのだろう。でも仕事以外の付き合いはないな、と即断した。軽そうな男は好みではないし。
わからないことは二人に訊いて、と言い残してオーナーはさっさと店の二階の自宅に消えてしまった。
「改めてよろしく。僕、永澤蓮です。みんなからはレン、って呼ばれてます。大学二年です」
蓮と名乗った男は奥で制服を着用してから桃子と並んでレジに入った。おはようございます、と言って入ってきた方の男だ。
色白で体も細く、身長も男としては小柄で一七〇センチか、ちょっとそれに足りない位だろうか。よく見ると面長で整った顔が、たいそう美しい。本物のイケメンを間近で見たのは初めて、と思わせる程だった。
そんな蓮ににこっと笑いかけられて、桃子はにわかに心臓が脈打ち、顔面が熱くなった。それを悟られてはと、慌てて視線を逸らして咳払いしながらどうも、と短く返事をした。
しかし、そんなドキドキ感は、次の瞬間あっという間に醒めてしまった。
ふと目に入った蓮の左手は、黒い革の手袋をはめていた。
半指とかオープンフィンガーとか言う、指が外に出るタイプだ。右手は素手のままで、その不自然さが気になった。
バイクに乗ったりするのかも知れないが、そういう場合、普段は外すだろう。だとすれば格闘技かなにかのマニアかもしれない。しかも左手だけ。何かのこだわりかと思うと、僅かに気色悪くて、急速に体内の熱が引いていった。本人はカッコいいと思っているのだろうか。
「俺は嶋田幸秀。ユキヒデでいいよ。蓮と同じ大学の二年ね。歳は一こ上だけど」
もう一人の男は弁当の棚を整理しながら桃子に話しかけてきた。
こちらは蓮よりも一回り大きく、マッチョと言っていい体格だった。茶色で長めの髪の蓮と違って、黒くて短い髪と焼けた肌からこぼれる白い歯が、爽やかな印象を振りまいている。どちらかと言えば、幸秀の方がとっつきやすいかな、と桃子は思った。
「さっきさ、奥に履歴書置きっぱなしだったからちらっと見ちゃったけど、木村さん、同じ学年だね。蓮とはタメだ」
履歴書を出しっぱなしで消えるうっかりオーナーもオーナーだが、それを平然と見る幸秀もデリカシーがない。桃子は形成しかけた好感を即座に破壊した。
「S短大の二年なんだね。俺らはY大ね」
「ああ、そうなんですかあ」
桃子は上の空で返事をする。最早この二人には興味も期待も何もない。
「えっと、木村さん、モモコさんって言うんですか? かわいい名前ですよね」
しっかり蓮も履歴書を見ていたらしい。しかも読み方間違えてるし。ちゃんとふりがな書いてあっただろう。
「モモコじゃありません、トウコです。かわいくなくて申し訳ないけどお」
「あ、そうなんだ。ごめん間違えちゃって。でもトウコでも全然かわいいですよ。な、幸秀」
「おう、その通り」
「あのお、新人なのに生意気で申し訳ないですけど、人の履歴書を勝手に見るのってどうなんでしょう、どう思います?」
たちまち重い空気が店内を支配する。客がいないのがせめてもの救いだった。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
数秒後、二人がほぼ同時に謝罪した。
その後はやや気まずい雰囲気のまま、三人で黙々と仕事をする。仕事の内容をほとんど把握できている桃子は、二人と話さなくても困らない。
たまに蓮と幸秀は二人でこそこそと何か話していたが、別に陰口を言われても桃子は気にならない。
(その二につづく)
人物紹介コーナー【永澤蓮】
ながさわれん。「蓮編」の中心人物。
東京都杉並区生まれ&在住。大学2年、20歳。身長は167センチ。
アルバイト先で桃子と知り合う。
いつも左手にオープンフィンガーの革手袋をしている。
穏やかで、優しい。女性にはやや奥手だが、イケメンくんなので、もてる。




