1-5 蔦の名は
雨が降っている。
森の中、枝葉の間を流れた雨水が地面をぬらし、森の木々や下生えの草花に水の恵みを与えていた。
そんな中を透は、葉のついた蔦を雨具代わりに体に巻きつけ歩いて行く。
葉っぱの包みを幾つも連ねた草紐を肩から掛け、細い棍棒を担いで、ただただ歩いて行く。
時折包みを開けて中身の木の実を齧り、木の葉で受けた雨水で渇きを癒し、ひたすら真っ直ぐ歩く。
日の光は薄暗く時間を感じさせる変化は殆んど無い。
早朝に目を覚まし、果物と蛇の皮を朝食にして、それからは歩き続けていた。
人間はただ真っ直ぐ歩く事も難しい。何も考えずに歩けば利き脚とは反対方向に徐々に曲がっていく。更に荷物を持っていればその荷物に引かれる様に曲がる。森の中には障害物になる物も多い。木に岩に、ちょっとした高低差も角度が急なら遠回りしなくてはならない。
それでも極力方向を変えないように気をつけて、透はさらさらと雨の降る森の中を歩く。
雨がやみ、雲が晴れ、日の光が射す、その日の光が傾いた頃、透の耳に川の流れる音が聞こえてきた。
それから少し歩いた所で川に到着する。川幅は百メートルほど、雨による増水によって流れは増し水は濁り、川の水面が高くなっている。
「やっと着いた!」
途中、雨が降った時には雨宿りをするべきかと迷う場面もあったが、音も臭いも雨に消されて獣に見つかり難い、と言う判断で強行軍で歩く事となった。結果、その日の内に川に着く事ができたので、その判断は正解と言って良いだろう。
川に向かうにあたって決められた到着予定地点は、湖から少し離れた地点だった。川自体にも用はあったが、巨大な湖とは言え、数十キロを歩いて上手く予定した場所に着ける保証も無いので、多少ずれたとしても川の何処かに着ける計算で、到着予定地点を湖から離れた地点に設定していた。
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さて、到着できたのは良いんだが、雨で増水していて川原が水没している、川原の石で石斧かストーンナイフでも作ろうかと思ったんだが、増水している川に入るのは危険だよなー。諦めて湖に直行するのも手だが、湖で大きな石が見つかるかどうかが問題だ。刃物の有無が生死に直結するほど危機的状況でも無いが、あると色々便利なのは間違いない。
んー。一晩様子を見て、明日の朝になってもまだ川原が水没していたら諦めるか。
日が暮れるまであと3,4時間って所だが……。濡れた服を乾かしたいが雨の降った後に乾いた木がある訳も無いから焚き火は無理、と言う事で食料の調達と寝床の確保をしよう。
二日間を過ごした場所では幸いにも獣の襲撃は無かったが、川縁では水を飲みに来る動物も居るかも知れないから用心はした方が良い。まぁ、やれる事はそんなに無いから精々木の枝の上に寝床を作る位だ。あ、雨も降ったので川の近くに寝床を作るのはまずいか、川の上流でまだ雨が降ってたら川が氾濫するかもしれないから、寝床にするのは少し川から離れた木が良いな。
2時間ほどかけて辺りを探索すると、丈夫なつる草と食べられそうな果物を見つけられた。果物はスモモに似た物だったが、野生種にしては甘味が強くて美味い。
次は寝床だ。川が見えない程度まで離れ、確りと枝の張った大きな木を探す。
「蔦さん頼む!」
と、頼みつつ、条件に会った木の枝に蔦を投げる。蔦は5メートル程の高さにある、子供の一人位なら十分に乗れそうな太さの枝に巻きついく。強く引っ張り微動だにしない事を確認して登る。
枝にうつ伏せになって下を見ると結構高い。このまま寝るには少々肝の冷える光景だが、狼なら木には登れないから多少は安心できる。
「そういえば、何時までも蔦さんじゃ味気ないな。名前をつけても良いかい?」
蔦に声を掛けて見るが、返答は当然無い。でもまぁ、他にやる事も無いし、まだ眠気の来ない手持ち無沙汰を蔦の名前でも考えて潰すとしよう。
「蔦か……アケビ、アサガオ、ブドウ、ウリ科の色々……後はナスにトマトにキウィフルーツも蔦植物だったかな?」
結構色々あるが、それらしい名前となると難しいな。実は瓜っぽかったけど、瓜だと他にスイカとメロン位しか思い浮かばない。蔦で有名所と言うとアイビーなんてのもあるが、某ゲームの蛇腹剣使いを思い出すからやめておこう。
寄生する蔦……パラサイトバインって所か?パラサ、サイト、バイン、パラバイン……今一だなぁ。
ふむ、そういえば源氏物語に何人か蔦系の名前の登場人物が居たな。
「夕顔」
蔦に向けて呼んでみる。蔦は応える様にうねった。気に入ってくれたかな?
「気に入ってくれたかな?夕顔さん、これからもよろしく!」
蔦は、もとい、夕顔は踊るようにうねっている。襲ってこないから、喜んでいると判断しよう。
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眠りから覚めると、目に入ったのは地上5メートルを俯瞰する光景。
「うお!」
寝起きには少々きつい光景に慌て、危うく枝から落ちそうになったが何とかしがみついて事無きを得た。
鼓動の早くなった心臓を落ち着ける。
「ここは木の枝の上、昨日は川まで到着して木の上で一晩明かした!」
声に出して状況穂確認してみる。よし、落ち着いた!
では、今後のことを考えようか。体を起こして枝に腰掛、状況を整理する。
川には着いた、これで水は確保できる。川原から水が引いていたら手ごろな石が手に入る、打製石器くらいなら作れるはずだ。魚を獲るなら道具が要るが、今の所魚を獲る必要は無い。必要ができたら何とかしよう……。。
昨日歩けた距離と到着予定地点から湖までの距離をざっと計算すると、ここから湖まで予定通りの順路を歩いているとしたら2時間もかからず行けるはず。もっとも現在地が予定地点から、上流に離れていれば離れているほど時間がかかる訳だが。
先ずは川の様子を見て、森を探索しつつ湖まで行ってみるとしよう。
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川は昨日程では無いがまだ流れが強く、水位も高い。ただ、幾分水は引いてるので気をつければ川原で石を拾う事ぐらいは可能だった。
「ふんっす!」
落ちている大きな石を持ち上げて、尖った岩に投げつける。割れる石、欠ける石、傷一つつかない石、技術も無く時間をかける気もないので大雑把なやり方だが、上手い具合に一つ成功した。
一抱えもある石を岩に叩き付けると、石の一部が剥がれる様に、歪な円形で割れる。そのままでは扱い辛いので、慎重に割って整形すれば石斧の頭の完成だ。
石斧の頭で細い棍棒の先を少し割り、そこに石斧の頭を挟んで昨日見つけたつる草で固定する。不恰好ではあるが急造品にしては中々の物ができた。
完成した石斧を担ぎ、森を探索しつつ、川沿いに移動する。
森に入り、川から離れ過ぎない様に気をつけて、歩きながら周りに目を配る。
やはり森の中を歩くのは気持ち良いなぁ。とりあえず水の心配は無くなったし、川から離れなければ確実に湖に着ける。
森の木々は昨日の雨で精気が濃くなっている、木々の放つ芳香が胸を満たす。少しばかり緊張感が緩んだのか、森のそんな変化にも気がついた。
果物を齧りつつ歩いていると、太陽が真上に達する頃には湖に到着する事が出来た。
眼前には地平線の彼方までの青、木々に囲まれた森の中も安らぐがこう言った景色も開放感があって心地良い。
「さて、湖まで着けたが……」
地図を見て現在地と隠れ里の位置を確認する。現在地は湖の東にある川の河口部、妖精の隠れ里は湖の西部北岸から北西へ、昨日歩いた七割程度の距離になる。現在地から湖の北岸までは、湖を回り込む必要があるが迷う心配も無いので走れば1日もかからない。順調に行けば丸二日あれば妖精の隠れ里につける計算だ。しかし、大きな目印の有った今までとは違い、森の中の集落に一日歩いて正確にたどり着くのは難しいだろう。なので湖を出発して隠れ里を目指すには、早朝に出発して夕方頃に着いた地点で周辺を探索する必要がある。
今日明日で湖の西部北岸まで移動、一晩明かして明後日の朝に妖精の隠れ里へ出発、同日夕方隠れ里を探す。って感じでいけるかな?
太陽は中天を過ぎ、日が暮れるまであと4時間ほど、湖沿いに走れば西部北岸まで半分くらいは距離を縮められる。明日も午前中に走れば午後から時間が取れる、半日降った雨だが二日もたてば多少は木も乾くだろう、明日の午後は焚き火をしよう。
左手に湖を見ながら森の間を走る。下生えや泥濘に気をつけながら走っているうちに、日が傾き、湖が夕日に染まりだす、そろそろ夜の準備に取り掛からないとまずいな。とは言ってもやる事は昨日と同じで、寝床に丁度良さそうな大振りの枝の張った木を探すだけだ。
日が沈み森の中を夜の帳が下りる。木の実を齧りつつ、木々の間から見える月の光に照らされゆらゆらと輝く湖面を眺めていた。
「そういえば俺って何語で喋ってるんだ?」
ふと、気になった。もうすぐ妖精の隠れ里に着ける筈だが、里の妖精と接触して言葉が通じないのは困る。
「私の名前は貴城透です」
日本語だよ。
大地母神様からの手紙が読めている以上、この世界の言語が理解できる筈だが、手紙の時はすぐには読めなかった。手紙の時のように意識すれば切り替える事が出来るかな?読むのと喋るのでは喋る方が難しい上にお手本も無いが、とりあえずやってみよう。
「|私の名前は貴城透です《Est nomen meum Torru Takashiro》」
日本語に別の言葉が被った様な、妙な違和感があるなー。
「|Est nomen meum Torru Takashiro《私の名前は貴城透です》」
同じ言葉を繰り返す。
「Est nomen meum トール タカシロ」
繰り返す。
「私の名前はトール・タカシロです」
お、この感じか!一度認識すると思考もこの世界の言葉に置き換わっていく、まだ多少違和感があるが一晩眠れば馴染むだろう。
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