「妹の恋愛なんて大嫌い」と言っていたお兄ちゃん、実はドヤンデレな黒蛇の独占欲モンスターでした!?
導入
柳司兄さんは、人間ではないのかもしれない。
私が初めてそう思ったのは、彼の日記をこっそり見つけてしまった日のことだった。指先が表紙に触れた瞬間、視界の端に、読者コメントみたいな文字が一行ずつ流れ始めた。
【かな、そろそろ気づいて。柳司は恋愛を邪魔してるんじゃなくて、嫉妬でおかしくなってるだけだから】
【でも、柳司があの日道端で出会った小さな黒蛇だって、かなはいつ気づくんだろう】
【気づかないほうがいいかも。あのとき、かなは棒で殴って、柳司を蛇神様のところへ送りかけたし】
【人の姿に戻った柳司、おでこに大きなたんこぶ作ってたのに、かなに鏡餅みたいって言われてたよね】
私はその文字を凝視したまま、日記帳に触れた指を動かせなくなった。
次の瞬間、扉が開いた。
本来なら地方へ出張しているはずの神代柳司が、戸口に立っていた。彼の視線は私を越え、机の上の日記帳へ落ちている。
「もう大学生なのに、まだ部屋を間違えるの?」
私は顔を上げ、乾いた笑みを浮かべた。
「すごい偶然だね、柳司兄さん。こんなところで会うなんて」
1.日記帳に流れたコメント
柳司兄さんは笑わなかった。
黒いコートも脱いでいない。まるで、遠くからそのまま急いで帰ってきたみたいだった。相変わらず冷たいほど整った顔立ちで、少し伏せた目元には、こちらの内側まで見透かすような圧がある。
私は日記帳から手を引っ込めた。心臓が、胸の内側を叩きつけるみたいに速く鳴っていた。
「どうして僕の部屋にいるのか、説明して」
言い訳を考えるより早く、視界のコメントが一気に流れ始めた。
【よくそんな落ち着いた顔できるね】
【かなが部屋に入ったのに気づいて、隣の県から急いで戻ってきたくせに】
【黒蛇の嗅覚、反則すぎる。柳司はかなの匂いしか追わないから、ほぼ位置情報アプリ】
私は唾を飲み込み、彼の視線から逃げた。
「出張中じゃなかったの? どうしてこんなに早く帰ってきたの?」
柳司兄さんは短く返事をしただけで、詳しく話すつもりはないようだった。
私たちは本当の兄妹ではない。母の夏川美緒が再婚したとき、私は母に連れられて神代家へ入った。柳司は義父である神代宗一郎さんの息子で、私より二歳年上だった。
血はつながっていない。養子縁組もしていない。ただ、小さいころから同じ屋根の下で育っただけだった。
母は若いころ、地方局のドラマや広告にいくつか出ていた女優だった。大きく売れたわけではないけれど、一度見たら忘れられない顔をしている。宗一郎さんは神代グループの経営者で、若くして家業を継いだ人だった。
周囲は、二人の再婚をドラマみたいだと噂した。
そして柳司兄さんは、昔から本当に顔がよかった。
子どものころの私は、こんなに綺麗な兄がいるなんて少し得をした気分だ、くらいに思っていた。けれど大人になるにつれ、その「満足」は少しずつ別のものに変わっていった。
私は何食わぬ顔で、そろそろと扉のほうへ移動した。
「午後、大学の講義があるから。もう戻るね」
柳司兄さんは、すぐには止めなかった。
だから私は彼の横をすり抜けようとした。けれど二歩も進まないうちに、手首をつかまれる。
「待って」
彼は懐から小さな箱を取り出し、私の前へ差し出した。
「お土産。出張先で、ついでに買った」
箱の中には、細いブレスレットが入っていた。銀白色のチェーンには、小さな黒い鱗のような飾りが埋め込まれている。陽の光を受けると、それは夜空の欠片みたいに冷たく光った。
「綺麗……」
【かなが笑った瞬間、柳司の口元が半ミリだけ緩んだの、見逃さなかった】
【大事なのは、そのブレスレットに柳司の鱗が混ぜてあることだよ。蛇神の一族で鱗を渡すのは、ほぼ求婚みたいなもの】
【かなが知らないのをいいことにしてる。ずるい】
ブレスレットをつけようとした手が止まった。
鱗。
求婚。
柳司兄さんが私を見下ろす。
「嫌だった?」
私は慌てて首を横に振り、いちばん安全そうな理由を探した。
「違うよ。ただ、すごく高そうだから」
彼はブレスレットを引っ込めなかった。
私の手首を取ると、留め具を静かに留めてくれる。その動きは、いつもの冷淡さからは想像できないほど優しかった。指先が肌をかすめたとき、少しひんやりした温度が残る。
「かなのほうが、何より大事だよ」
私は固まった。
彼との距離は近すぎるわけではない。けれど、柳司兄さんの纏う澄んだ竹の香りが、私のほうへゆっくり流れてきた。雨上がりの竹林みたいに静かで、冷たくて、それなのにどうしようもなく近づきたくなる匂いだった。
私は反射的に手を引いた。
「ありがとう、柳司兄さん」
【助けて。柳司、普通に口説いてる】
【妖術使わなくても、柳司がそこに立ってかなを見てるだけで、そのうち落ちると思う】
【かな、顔真っ赤。柳司、目元の笑いを隠しきれてない】
私はもう、その場にいられなかった。
逃げるように、柳司兄さんの部屋を出た。
2.十人のイケメンと熱くなるブレスレット
東都学院大学の教室に座っても、私はまだ落ち着かなかった。
教壇では教授が講義をしていたけれど、内容は一つも頭に入ってこない。静かになるたび、柳司兄さんがブレスレットを留めてくれたときの横顔ばかり浮かんでしまう。
正直に言えば、彼は私の理想そのものだった。
それどころか、この数年、私が曖昧な関係になった男の子たちは、どこかしら彼に似ていた。目元が涼しい人、背が高い人、あまり笑わない人、清潔な匂いのする人。
気づいたとき、教科書の端には「神代柳司」という文字がいくつも並んでいた。
藤堂杏奈が振り返った瞬間、私はぱたんと教科書を閉じた。
「本の中に男でも隠してた?」
私は瞬きをした。
ある意味では、かなり正解だった。
杏奈は自分の額を軽く叩いた。
「そうだ、聞きたいこと忘れてた。今夜、夜坂町に行かない? 会員制のメンズバーが新しくできたんだって。店員、全員イケメンらしいよ」
いつもの私なら、すぐに頷いていたはずだ。
そういう新しい店を見つけると、私と杏奈はだいたい行っていた。けれど今日は、柳司兄さんの顔が浮かぶだけで、新しい店への興味が少し薄れてしまう。
それでも私は頷いた。
「行く」
杏奈は眩しいくらい楽しそうに笑った。
「お姉さんが、八人くらいイケメン呼んであげる」
私は頬杖をついた。
「十人」
その瞬間、手首のブレスレットが熱くなった。
熱はすぐに消えて、錯覚みたいだった。私はブレスレットに触れる。視界に、ゆっくりコメントが流れた。
【十人……かな、言うね】
【かなは絶対知らない。鱗って、声も拾えるんだよ】
【今夜のメンズバー回、正座して待ってる】
私はブレスレットを見下ろし、思わず口元を緩めた。
「けち」
杏奈が私の手首に気づいた。
「それ、誰にもらったの? すごく可愛い」
私は少し考えた。
「大事な人」
杏奈は、すぐに大げさな顔をした。
「明日は雪? かながそんなこと言うなんて。まさか本当に好きな人できた?」
私は固まった。
会いたいと思う。
彼のことばかり考えて、ほかのことに興味が持てなくなる。
この感情を、好きと呼ぶのだろうか。
私は答えなかった。
答えられなかった。
それに、今夜その店で何が起きるのかも、少しだけ知りたかった。
夜坂町の街灯が灯るころ、私と杏奈は新しくできた会員制メンズバーに入った。
私は大学二年生で、二十歳になったばかりだ。だから杏奈と並んでカウンターに座り、アルコールの薄いカクテルを頼んでも、後ろめたさはない。
店内は落ち着いた雰囲気だった。暗い木目、低い照明、かすかに流れるジャズ、空気には淡い柑橘の香りがある。普通のバーのように騒がしくはなく、むしろ人の距離を曖昧にするために作られた場所みたいだった。
杏奈が店内を見渡し、声をひそめる。
「本当にイケメン店員に接客してもらえるの?」
私は通りかかった店員を指さした。
「聞いてみたら?」
私は冗談のつもりだった。
けれど杏奈は本当に聞きに行った。数分後、彼女は自信満々に戻ってきて、私の前で指を鳴らした。
「待ってて」
すぐに、清潔感のある服装をした男の店員が九人並んだ。
私は杏奈を見た。
「九人?」
杏奈は首を傾げる。
「十人って言ったんだけど。あと一人は後から来るのかな」
杏奈はすぐに彼らと盛り上がった。
私はどこか上の空だった。グラスの中のカクテルは甘く、照明も綺麗で、目の前の店員たちも確かに整っていた。けれど頭の中にあるのは、柳司兄さんの顔ばかりだった。
そのとき、ふくらはぎにひやりとした感触が走った。
私は下を向いた。
小さな黒蛇が、私の脚にぴたりと張りついていた。細かな鱗は灯りを受けて黒曜石のように光り、冷たくて滑らかだった。
喉元まで悲鳴が込み上げる。
けれど私は、どうにか飲み込んだ。
視界のコメントと合わせて考えれば、あまりにも馬鹿げた答えにたどり着く。
これ、柳司兄さん?
【無理、笑う。人型で来ればいいのに、わざわざ蛇のふりしてる】
【この店、もともと神代家の持ち物だよね。かなを誘い出すためでしょ】
【だから店員が誰もかなに近づけないんだよ。誰が神代家の跡取りの相手に手を出すの】
私は手を伸ばし、小さな黒蛇を手のひらに乗せようとした。
けれど黒蛇はまったく聞かなかった。勝手に脚を伝って上へ進み、やがて私の首筋のあたりで止まる。ひんやりした体が肌に触れて、私は全身を固くした。
自分でも不思議なくらい、恐怖はなかった。
妙な信頼だけがあった。
小さな牙が、私の首筋をそっとかすめる。
【嫉妬してるのに、これだけしかできないの尊い】
【柳司は強引に奪うんじゃなくて、誘惑するタイプだから】
蛇の舌が、耳の輪郭に軽く触れた。
全身が震える。
私は小さな声で試した。
「柳司兄さん?」
黒蛇の動きが、ぴたりと止まった。
その瞬間だけ、石になったみたいだった。
私はすかさず、それを手のひらに受け止める。
「柳司兄さん?」
【はい、正体バレ】
【大丈夫。柳司は絶対認めない】
3.宝物みたいな小さな黒蛇
私は小さな黒蛇の黒い目を覗き込んだ。
黒蛇も私を見上げている。視界のコメントがなければ、危うくこの無垢な顔に騙されるところだった。私は指先で、その頭をそっと撫でた。
触れた鱗は、ひんやりしていて気持ちよかった。
そのまま、私は黒蛇を胸元に抱えた。杏奈が目をこすり、酔いが回ったのかと疑うような顔をする。
「かな、それ何?」
私もそれなりに飲んでいた。
腕の中の黒蛇を見下ろし、少し考える。
「宝物」
黒蛇の舌が、また小さく動いた。
【絶対喜んだ】
【表情ないけど、内心めちゃくちゃにやけてる】
【本当はもっと大きいのに、わざわざ小さくなってるのずるい】
【かなを怖がらせたくないんだよ。しかも、かなは小さい黒蛇を明らかに気に入ってる】
【小ささが好きなんじゃなくて、柳司だから好きなんじゃない?】
視界のコメントが少し二重に見えた。
最後には、文字がぐちゃぐちゃに混ざって「彼は可愛いかなが好き」に見えた。私は頷いた。私が可愛いのだから、彼が私を好きでも仕方がない。
その夜、遊びに来たはずなのに、私の意識はほとんど小さな黒蛇に向いていた。
黒蛇は私の腕の中で丸くなり、ときどき尻尾で手首を軽く巻く。店の男の店員は、誰一人として私に近づこうとしなかった。楽しそうにしていたのは、杏奈だけだった。
夜が更けて、私たちはそれぞれ家に帰ることになった。
【待って。ここ、内容削られてない?】
【柳司が人型になって、十人目のイケメンとして登場する流れじゃなかった?】
【酒と嫉妬で、一気にR指定になるはずでは?】
【酔ってるかなには手を出せなくて、自分で展開を変えたんだ。この拗らせ黒蛇、ほんと好き】
私は小さな黒蛇を抱えたまま、神代家へ戻った。
酔いのせいだったのかもしれない。私はふらふらと柳司兄さんの部屋の前へ行き、扉を叩いた。
叩いてから気づく。
彼は今、私の腕の中にいる。扉を開けられるわけがない。
次の瞬間、扉が開いた。
柳司兄さんが戸口に立っていた。眉をわずかに寄せている。
「どれだけ飲んだの?」
私は目をこすり、彼を見て、それから腕の中を見た。
「あなた……」
「先に部屋で横になって。ホットミルクを作る」
彼に部屋まで連れていかれても、私はまだ状況を理解しきれていなかった。
【変身の切り替え、忙しすぎて笑う】
【速報。高冷な黒蛇の跡取り、実はかなり面白い】
そこでようやく、さっきまで腕にいた小さな黒蛇がいないことに気づいた。
けれど柳司兄さんが部屋を出ると、それはまた私の肩に現れる。柳司兄さんがホットミルクを持って戻ってくると、小さな黒蛇はまた消えた。
私はカップを抱えたまま、彼をじっと見た。
「柳司兄さん、小さな黒蛇を見なかった?」
彼の表情は変わらない。
「見てない」
酒のせいで、いつもより大胆になっていたのだと思う。
私はカップを置き、いきなり彼に抱きついた。さっきの小さな黒蛇を真似するように、両腕を彼の肩に回し、八重歯で彼の首筋を軽くこすった。
柳司兄さんの体が、はっきりと強張った。
彼の手が私の肩に乗る。離そうとしているようで、でも本気で押し返す力はない。私は引かず、むしろさらに近づいた。
そして、小さな黒蛇がしたみたいに、彼の耳元へそっと触れた。
【そう、これが見たかった】
【拒んでるようで拒んでない柳司、ずるい】
【それでも耐えてるのすごい】
【かなは酔ってるからね。柳司はかながはっきりしていないときには絶対越えない。何度でも言うけど、柳司は誘惑するタイプ】
柳司兄さんの喉が、かすかに上下した。
「かな、自分が何をしてるかわかってる?」
私は首を横に振り、それから頷いた。
「本当に、小さな黒蛇なの?」
柳司兄さんは低く息を吐き、私の背中を軽く叩いた。
「酔ってるよ」
【柳司、何のことかわからない顔してる】
【口だけは蛇の鱗より硬い】
私はまだ何か言いたかった。
けれど急に眠気が襲ってきた。柳司兄さんは私をベッドへ戻し、布団を掛けてから部屋を出ていく。
部屋が静かになった。
数秒後、小さな黒蛇がまたベッドの横に現れた。
4.枕元の黒蛇
私は小さな黒蛇の頭をつついた。
「あなたって人は、どうしてまだ認めないの?」
部屋は少しだけ静かになった。
「認めたら、かなは何をするの?」
私の指が止まった。
しゃべった。
しかも、その声はどう聞いても柳司兄さんだった。
「装う気ないの? 声だけで柳司兄さんってわかるんだけど」
小さな黒蛇は、私の問いには答えなかった。
「明日の朝、何が食べたい?」
私は反射的に答えた。
「サンドイッチ」
口に出してから、すぐにおかしいと気づく。
違う。
何の話をしているの。
「認めないなら食べない」
黒蛇はもう何も言わず、枕の横でおとなしく丸くなった。まるで本当に眠っているみたいだった。
私はそれを見つめる。
「柳司?」
「兄さん?」
姿はどう見ても黒蛇なのに、頭の中には柳司兄さんの顔ばかり浮かぶ。
今、隣で横になっているのは蛇ではなく、彼本人なのではないか。そんな気がしてしまう。
私は初めて、真剣に考えた。
私にとって、柳司兄さんは何なのだろう。
わからなかった。
彼がいつから私を妹と呼ばなくなり、ただ名前で呼ぶようになったのかも、思い出せない。
高校一年の春、私は私立白桜学園高等部の学生寮に入った。入寮の日、ほかの子は父親や母親に送られてきていた。けれど私の荷物を整理してくれたのは、柳司兄さんだった。
そのとき私は、まだ杏奈と親しくなかった。
彼女は高校のルームメイトで、明るくて距離を詰めるのがうまい子だった。初めて柳司兄さんを見た瞬間、興味津々で私に近づいてきた。
「もしかして、彼氏? すごくかっこいいね」
私は、クローゼットに服をしまってくれている柳司兄さんを見た。
なぜか、否定しなかった。
彼に聞こえていたのかは、わからない。
けれどそのあと、彼はルームメイトたちに小さなお土産を用意していた。そして、私のことを少し見ていてほしいと頼んだ。みんなは笑いながら、いい彼氏だねとからかった。
柳司兄さんも、否定しなかった。
そのときの私は、なぜか嬉しかった。
目を開けたまま、枕元の黒蛇を見る。
黒蛇の金色の瞳は、いつの間にか開いていた。静かに私を見ている。
「眠れない?」
ホットミルクが効いたのか、酔いはかなり引いていた。
私は頷く。
「暑い」
部屋にはエアコンがあった。
けれど起き上がってリモコンを取るのが面倒だった。
次の瞬間、小さな黒蛇の体が大きくなった。月明かりを受けた黒い鱗は、冷たい光を帯びている。長い体は、ベッドの半分を埋めるほどだった。
【正直、この姿もかなりかっこいい】
【何するつもり? コメント欄でも読めない】
私にも読めなかった。
黒蛇はゆっくり近づき、冷たい体で私を包み込む。鱗が肌に触れると、夏の夜にちょうどいい涼しさが、少しずつ熱を奪っていった。
尻尾が脚をかすめ、私は思わず小さく震えた。
黒蛇は、私が怖がったと思ったらしい。すぐに体をほどこうとする。
私は反射的にそれを抱きしめた。
「行かないで」
黒蛇が止まった。
少しして、暗闇の中で低い声がした。
「寝て」
私は目を閉じた。
その瞬間、黒蛇に包まれているのではなく、柳司兄さんに抱かれて眠っているような気がした。
気づけば、本当に眠っていた。
【蛇って、こんなに賢いの? 悔しいからエアコンつける】
【自分を移動式クーラーにするの、柳司らしすぎる】
【ここまでして、ただ抱いて寝るだけ】
【それだけ大事なんだよ】
5.神代家の花庭
翌朝、小さな黒蛇はいなかった。
けれどシーツに残った重みの跡が、昨夜のことは夢ではないと教えていた。
洗面を済ませて階下へ降りると、食堂の入口で柳司兄さんと鉢合わせた。昨夜のことを思い出し、私は反射的に目を逸らす。
私の見えない角度で、彼がほんの少し唇を緩めた。
【内心ニヤニヤしてる柳司、また出た】
【今、絶対笑った】
テーブルには、温かいサンドイッチが置かれていた。
私は皿を見て、それから彼を見る。
「柳司兄さん、もう認めて」
彼は答えなかった。
ただ静かに朝食を食べている。
仕方がない。彼の作るサンドイッチは、本当においしい。半月ぶりに食べるそれを前にすると、私の意地はあまりにも弱かった。
結局、私は食欲に負けた。
【人の心をつかむには、まず胃袋から】
【柳司、もう半分成功してる】
【名場面、そろそろ来るよ】
私はサンドイッチを喉に詰まらせかけた。
名場面。
つまり、告白だろうか。
サンドイッチを噛みながら、彼がどこで、どんなふうに言葉をくれるのかを想像してしまう。自分がそんなことを考えていると気づいて、耳の奥が熱くなった。
週末で講義はなかった。
朝食のあと、柳司兄さんは私をどこかへ連れていくと言った。視界に流れるコメントを見ながら、私は頷いた。
車が市街地を離れるころ、私はいつの間にか眠ってしまった。
目を覚ますと、車はもう停まっていた。柳司兄さんがドアを開けてくれる。私は目をこすりながら外へ出た。
そこには、花畑が広がっていた。
山風がやわらかく吹き、花の香りが澄んだ甘さで胸に入ってくる。淡い色の花びらが風に揺れ、蝶が花の間を縫うように飛んでいた。まるで、春をそのまま山の中へ閉じ込めたみたいだった。
とても静かだった。
人の世界ではない場所のように。
【神代家の人たち、たぶん今こう思ってる。跡取りが告白するから、結界内から追い出されたって】
【さっきかなの肩に止まった蝶、蛇神の眷属の親戚筋の子じゃない?】
風が私の髪を揺らす。
振り向くと、柳司兄さんが私を見ていた。いつもは冷たく見える目の中に、このときだけは私しかいない。
何を返せばいいのかわからなかった。
ここは、あまりにも綺麗だった。
綺麗すぎて、このまま彼と二人だけで、ずっとここにいたいと思ってしまう。
柳司兄さんは花畑の中央に立ち、静かに息を吸った。
次の瞬間、彼の姿が巨大な黒蛇へ変わる。黒蛇は高く頭を上げ、漆黒の鱗を陽の光の中で冷たく輝かせた。
けれどすぐに、私の前へ頭を下げる。
まるで、私にひざまずくように。
そして再び、人の姿へ戻った。
「かな、見たとおりだよ。僕は普通の人間じゃない。神代家は蛇神の血筋で、父さんも僕も、黒蛇の血を引いている」
私の頭に最初に浮かんだのは、とても現実的な疑問だった。
「お母さんは知ってるの?」
柳司兄さんは頷いた。
「知ってる」
ひどい。
この家で知らなかったのは、私だけだった。
【かな、むくれてる。かわいい】
【自分だけ最後に知ったって気づいたね】
私は腕を組んで、彼を見る。
柳司兄さんは数歩離れた場所に立ったまま、山風よりも静かな声で口を開いた。
「いつからかは、自分でもわからない。かなを妹として見られなくなっていた」
私は何も言わなかった。
「小さいころ、かなはよく部屋を間違えた。大きくなってからも、こっそり僕の部屋へ入ってきた。そうやって何度も迷い込むうちに、気づいたら僕の中にまで入ってきていた」
彼の言葉を聞きながら、私の中にあった混乱は、少しずつ形を持ちはじめた。
柳司兄さんの瞳は黒い。
人を閉じ込めてしまいそうな黒さだった。
けれどそこに私の姿が映ると、その危うさは不思議なくらい優しく見えた。
「できるなら、ここには僕たちだけでいたい。生まれ変わっても、ずっと二人で閉じ込められて、二度と離れたくない」
彼はその場に立ち、私が一歩ずつ近づいていくのを見ていた。
私は彼の前で立ち止まる。
「生まれ変わっても? それは少し考えさせて」
柳司兄さんの唇が少し動いた。自分の一方通行を笑ったような、寂しい表情だった。
私はつま先立ちをして、彼の頬にそっとキスをした。
「この人生なら、私はいいよ」
彼の瞳の奥にあった影が、その一瞬でほどけた。
次の瞬間、柳司が私の腰を抱き、口づけてきた。急なキスだったのに、怖くはなかった。花の香り、陽の光、彼の纏う冷たい竹の匂いが全部混ざって、私を包み込む。
高ぶったせいか、彼の脚が黒い蛇尾へ変わった。
蛇尾は私の脚にそっと絡んだ。痛いほどではない。ただ、私を彼の腕の中にしっかり留めるように。
【ここから先、R指定入る?】
【尻尾、嬉しすぎて残像出そう。黒蛇じゃなくて犬では?】
私は呼吸を乱しながら、彼の服をつかむしかなかった。
長い時間が経って、柳司はようやく私を離した。額と額が触れ合う距離で、彼の呼吸も乱れている。
彼は私を花畑のそばのブランコへ座らせ、背後からそっと押した。
「いつから僕を好きだった?」
私は答えなかった。
ずっと前からかもしれないなんて、絶対に認めたくなかった。
柳司も追及しなかった。
今、私が自分のそばにいる。
それだけで、信じられないほど満たされているようだった。
6.言えなかった嫉妬
柳司は、自分の長年の願いが本当に叶うとは思っていなかった。
これまで、彼に告白した人は数えきれないほどいた。けれど彼の心が動いたことは一度もない。頭の中にあったのは、ただ一つだった。
どうすれば、かなに好きになってもらえるのか。
白桜学園高等部の入寮の日、杏奈が言った「彼氏?」という言葉を、柳司は聞いていた。
それ以上に彼を驚かせたのは、私が否定しなかったことだった。その瞬間、彼は初めて、卑怯な期待を抱いたのだという。
けれど私は大きくなった。
そして、いろいろな男の子と出かけるようになった。
嫉妬は、彼を彼らしくなくさせた。私が初めて男の子と出かけると聞いた日、柳司は誰にも気づかれない影のように、そっと私たちのそばにいた。
彼は気づいていなかった。
その男の子たちが、どこか柳司に似ていたことに。
相手の素行が悪ければ、彼は先にその人を遠ざけた。相手がただの普通の人なら、私にはすでに好きな人がいるのだと誤解させた。
自分の考えが自分勝手だということは、彼自身がいちばんわかっていた。
それでも私を、誰かに渡すことだけはできなかった。
【柳司、闇が深い。ヤンデレ気味なのに品がある】
【でも、かなを傷つけてないし、酔ってるときにも越えなかった】
【外の人が柳司よりかなをわかるわけない】
【行動力のある男、怖いけど好き】
私はコメントを見て、思わず笑った。
闇が深い、だろうか。
私は柳司を見た。彼は花影の中に立ち、やっぱりあまり笑わない顔をしている。私からすれば、それは憂いを帯びた美形という感じだった。
私は手を伸ばし、彼の口角を指で上げた。
この動作を、昔もした気がする。
高校一年の初め、私は早すぎる恋愛だと教師に呼び出された。保護者として学校に来たのは柳司だった。
来たのが彼だったから、私は少し安心した。
けれど職員室を出てから、柳司の顔はずっと怖かった。私は声をかけられなかった。
階段の近くまで来たとき、彼は突然私の手首を引き、人気のない踊り場へ連れていった。高校生の彼はもう私よりずっと背が高く、壁に腕をつくと、私をすっぽり囲い込んでしまう。
「そいつが好きなの?」
私は眉を寄せた。
「柳司兄さん、何してるの?」
その呼び方で、少しは冷静になったのだと思う。
彼の目はわずかに和らいだ。けれど腕は壁についたまま、離れてくれない。
今にも壊れそうな顔に見えて、私は胸が苦しくなった。
「好きじゃないよ」
柳司兄さんは、少しだけ笑ったように見えた。怒っているようでもあった。
「好きじゃないのに、付き合ってたの?」
理由は、本当は簡単だった。
当時、見た目のいい男の子に声をかけられると、私はだいたい断らなかった。みんな流行に乗って少しだけ恋人ごっこをしてみたいだけで、誰も本気ではない。たいてい二、三日もすれば連絡を取らなくなった。
今回だけ教師に見つかったのは、その男の子が少し柳司兄さんに似ていたからだ。
寮に入ってから、もう一か月近く彼に会っていなかった。
結局、私は柳司兄さんに会いたかっただけなのだ。
けれど、あの人があなたに似ていたから、とは言えなかった。
私は小さく口を尖らせる。
「とにかく、好きじゃないもん」
柳司兄さんは、私が嘘をついていないか確かめるように見つめてきた。
私はその隙に手を伸ばし、彼の口角を上げた。
「柳司兄さん、怒らないで。笑って」
まさか、彼がその指をつかむとは思わなかった。
少年の柳司は顔を伏せ、私の指先を軽く口に含んだ。そして、ほんの少しだけ噛む。
「ちゃんと勉強して。次はないよ」
私は動揺しながら、何度も頷いた。
そのあと、私は学校の男の子とは付き合わなくなった。大学に入ってから、またいろいろな人と出かけるようになった。
年齢を重ねるほど、気持ちははっきりしていった。
だからこそ、私はまっすぐ柳司を見られなくなった。影を探して、会いたさをごまかすしかなかった。
柳司も、それで長いあいだ苦しんだ。
私が本当に誰かのところで立ち止まってしまうことを、彼は恐れていた。それでも高校生のころのように問い詰めることはせず、見えないところで全部片づけていた。
私の知らないところで、柳司はもう私なしではいられなくなっていた。
彼は小さな黒蛇に変わり、大学の草むらから私を遠く見ていた。私の青春を、欠かしたくなかったのだという。
私が落ち込んでいるとき、彼はいつもすぐに現れた。
何もしなくてよかった。
彼の顔を見るだけで、私は安心した。
思い出が、心の中で急に大きくなる。
私は目の前の柳司を見つめ、鼻の奥が少し熱くなった。
「柳司、ありがとう」
7.名前と、暗転した夜
【二人、尊すぎる】
【黙って尽くすタイプは強い】
【イベントごとに匿名で花を送ってたのも柳司でしょ】
【イベントだけじゃないよ。毎日でも送りたかったはず】
【高校のとき、ほかの子が花をもらっていた日、かなにも必ず一束届いてた】
コメントは、彼が何年も隠してきたことを一つずつ私の前に並べていった。
私は柳司を見て、それから一歩近づき、彼を抱きしめた。
今度は私が、彼を自分の腕の中へ閉じ込めたかった。
柳司の体が、かすかに強張る。
私は顔を上げ、彼の唇へ自分からキスをした。ぎこちない動きだったけれど、それだけで伝わるはずだった。
花畑や秘密やコメントに押されたわけではない。
私が、自分の意思で彼に近づきたいのだと。
柳司の呼吸が深くなる。
「かな、自分が何を言っているかわかってる?」
私は彼の唇に触れたまま、風に消えそうな声で答えた。
「わかってる。柳司が好き。柳司が欲しい」
周囲が急に静かになった。
花畑も、蝶も、風の音も、見えない結界の向こうに隔てられたみたいだった。
【柳司、結界張った】
【コメント欄、落ち着いて。ここから先は映せません】
柳司は私を見下ろした。
その目には、何年も押し込めてきた感情が揺れていた。
「もう、兄さんって呼ばないで」
私は彼の服を握った。
「じゃあ、何て呼べばいいの?」
「名前で呼んで」
心臓が、どうしようもないくらい速かった。
「柳司」
たった二文字だった。
それだけで、彼の最後の理性がほどけた。
その夜の記憶は、花の香りに浸したみたいに曖昧だった。陽の光、黒い鱗、彼の掌の温度、耳元で何度も私の名前を呼ぶ声だけが、ぼやけているのに妙にはっきり残っている。
私は彼にしがみついて、離れようとしなかった。
柳司も、もう離れなかった。
次に目を覚ましたとき、私は神代家の自分の部屋に戻っていた。体は柔らかな波にさらわれたあとみたいで、まったく力が入らない。
カーテンは閉められ、部屋は静かだった。
柳司はベッドのそばで、私の布団を整えていた。私が少し動くと、すぐに顔を寄せる。
「起きた?」
喉がかすれていて、私はあまり話したくなかった。
柳司は温かい水を、私の唇へ近づけてくれる。声はいつもより低かった。
「次は、もう少し優しくする」
【今の柳司の言葉は、次の柳司には適用されません】
【めちゃくちゃ愛してる。一秒も離れたくない顔してる】
私はコメントを見て、彼の約束をまったく信じなかった。
それでも胸の中は、どうしようもなく甘かった。
私は本当に柳司と一緒になった。
小さいころから一緒に育った、血のつながらない兄。
私を何年も陰から見守っていた、黒蛇のあやかし。
柳司は私のふくらはぎを優しく揉んでいた。
「温かいうちに少し食べて。冷めたら、また温める」
彼が持ってきたサンドイッチを見る。
けれど腕を上げる気力もなかった。
柳司は困ったように笑い、私を起こしてくれる。私はそのまま彼の胸に寄りかかった。
「私たち、今、同じ匂いがする」
柳司は私の首元に顔を寄せ、そっと匂いを確かめた。
「同じだよ」
私はサンドイッチを少しずつかじった。
たぶん、世界でいちばんおいしい食べ物だった。
柳司は大学へ連絡を入れ、私の欠席手続きをしてくれた。そこから数日、彼はほとんど私のそばを離れなかった。
暑いと言えば、彼の体温は少しひんやりした。寒いと言えば、暖炉みたいに私を包んでくれた。
遠い街の名物が食べたいと何気なく言うと、しばらくして本当に買ってきた。
【かな、柳司は根に持つタイプだから、ほどほどにね】
【かながもっと自分から甘えないと、回復したあとまた大変なことになるよ】
【柳司、表では何も言ってないけど、内心かなり寂しがってる】
私は唾を飲み込んだ。
私が甘えていないわけではない。
柳司がずっとくっついているから、私の甘えが目立たないだけだ。
私はそっと彼のほうへ体を寄せた。
柳司が視線を落とす。声は穏やかなのに、とても甘かった。
「どうしたの?」
私は彼の首元に頬をすり寄せた。
「くっつきたい」
彼の腕に、少しだけ力がこもった。
何も言わない。
それでも、今の柳司がとても機嫌よくなったことはわかった。
【柳司、満たされるハードル低すぎ】
【かな:呼吸する。柳司:誘惑された】
私は思わず笑ってしまった。
柳司が私を見る。
私は顔を上げ、彼に笑いかけた。
「柳司といると、本当に幸せ」
8.両親はとっくに知っていた
それからの日々、私と柳司はまるで一つの体みたいに一緒にいた。
小さいころから一緒に育ったせいか、私たちはお互いの癖をよく知っている。私が一つ動けば、彼は私が何をしたいのかすぐにわかる。彼が少し目を動かせば、私も次にどうしたいのかがわかった。
正式に付き合い始めてから、まだ数日しか経っていない。
それなのに私たちは、長年連れ添った相手みたいに自然だった。
【この空気、もう夫婦】
【一緒に育つの、強すぎる】
【ちょっと自分の兄を見た……いや、うちは血がつながってるから駄目】
【落ち着いて】
休みの最終日、私は柳司の膝の上に座り、彼の首に腕を回しながらアニメを見ていた。
人間とあやかしが恋をする作品を、私がわざわざ選んだのだ。画面の中で、ヒロインがあやかしの男の子に「あなたが何者でも好き」と言っている。
私は柳司を見る。
「人でもあやかしでも、関係ないよね。好きな人と一緒にいられれば、それでいい」
柳司は私の首元に顔を埋めた。髪が頬に当たってくすぐったい。
私は笑って彼を押す。すると彼は逆に私を抱き込んだ。
私たちはそのままじゃれ合い、私はときどき彼の肩を噛んだ。彼も負けずに、私の頬を軽く噛む。
勝負がつく前に、玄関のドアが勢いよく開いた。
「サプライズ! 帰ってき――」
「美緒、どうしてそこで止まって――」
声が、途中で止まった。
リビングが怖いくらい静かになる。
玄関には母が立っていて、その後ろに宗一郎さんがいた。二人ともスーツケースを手にしたまま、笑顔を少しずつ固まらせている。
先に口を開いたのは、母だった。
「二人とも、今、何してたの?」
柳司は少しも動揺しなかった。
「父さん、母さん。僕はかなが好きです」
彼がここまでまっすぐ言うとは思わず、私は一瞬だけ固まった。
けれどすぐに覚悟を決めて顔を上げる。
「お父さん、お母さん。私も柳司が好き」
母は不思議そうに私たちを見た。
「どうして二人とも、処刑台に上るみたいな顔してるの?」
私は目を瞬かせた。
「え?」
宗一郎さんはスーツケースを脇に寄せた。あまりにも冷静な声だった。
「反対するとは言っていないよ。二人に血のつながりはないし、法律上の兄妹でもない」
理屈としては、そうだ。
けれどあまりにもすんなりしていて、私は逆に戸惑った。
蛇神の一族は、こういうことに寛容なのだろうか。
母はソファに腰を下ろし、お茶を手にしながら、やっぱりねという顔をした。
「私たち、とっくに気づいてたわよ」
【笑う。柳司とかな、自分たちはうまく隠してたつもりだったんだ】
【道化は本人たちだった】
母はお茶を一口飲んだ。
「かなは小さいころから柳司にべったりだったし、大きくなってからも人の部屋へ行きたがったでしょう。柳司が学校へ迎えに行くと、あなたは本当に嬉しそうだった。私たちが一緒に迎えに行っても、見えているのは柳司だけ」
私は恥ずかしくなって、頭をかいた。
「そんなにわかりやすかった?」
母は私を見た。
「それに、あなたが出かけていた男の子たち。何度か見かけたことがあるけど、遠目だと若いころの柳司かと思ったわ」
柳司が私の手を握る力が、明らかに強くなった。
口元も、抑えきれないくらい緩み始める。
【かなの最後の意地、母に全部ばらされた】
【柳司の驚きと内心ニヤニヤ、わかりやすすぎる】
【かながずっと自分を好きだったと知って、柳司が満たされてる】
母は今度、柳司を見た。
「柳司もよ。こんなに長く恋人も作らず、女性の影もないから、宗一郎さんが一時期かなり心配していたわ」
柳司の顔が珍しく固まった。
【柳司、苦手な薬を飲まされたみたいな顔してる】
母はまだ話し足りないらしい。
「特に、かなが高校で呼び出されたとき。私たちよりあなたのほうが反応してたでしょう。家の古いテーブルを、あと少しで割るところだったわ。午後に予定があったのに、わざわざ学校へ行ったし」
宗一郎さんが続けた。
「高二のバレンタインもそうだった。かなはまだ制服だったのに、君は彼女をフレンチレストランへ連れていった。美緒さんと私も同じ店にいたが、二人とも気づかなかった」
私はそのことを忘れかけていた。
その後も、七夕やバレンタイン、クリスマスには、柳司がいつもそばにいた。何度も続くうちに、私にはそれが当たり前になっていた。
母がお茶を置く。
「それで、彼のことは知っているのね?」
私は頷いた。
「柳司が話してくれた」
母は私たちの隣に座り、私の手を取った。
そして、その手を柳司の掌へ重ねる。
「かなを任せても、私は安心していられる。ちゃんと大切にしてあげてね。もちろん、自分のことも大事にするのよ」
柳司は私の手を大切そうに包み、真剣に頷いた。
「母さん、任せて」
私も急いで保証した。
「私も、自分のことも柳司のこともちゃんと大事にする。迷惑をかけないようにするから」
柳司が両親を見る。
「今回はどこへ行くの?」
宗一郎さんは会長として会社に残り、柳司は神代グループの後継者として経営に関わり始めていた。そのせいもあって、両親は旅行へ出る時間が増えた。
二人は私たちよりも新婚みたいで、帰ってきても補給に立ち寄っただけのように、すぐまた出かけていく。
母は宗一郎さんを見て、甘い顔をした。
「世界一周。次に帰るのは、いつになるかわからないわ」
二人は私たちのために夕食を作ってくれた。
食べ終えると、また慌ただしく旅へ出ていく。
夜、私は柳司とベッドに横になり、彼に寄り添った。
「私たち、かわいそう。置いていかれちゃった」
柳司は私の頭を撫でた。
「僕は、かなを置いていかない」
私は彼を見る。
柳司は私の額に口づけた。
「僕たちのことも、置いていかない」
これで、私は柳司と堂々と二人きりで過ごせる。
そう思ったら、急に嬉しくなった。
私はベッドの上に立ち上がる。
「柳司、愛してる!」
柳司は両腕を広げた。
私はその胸へ飛び込む。
彼の声は柔らかいのに、耳元ではっきり響いた。
「僕も愛してる。閻魔大王でも、黄泉の底でも、僕たちを引き離せない。かながどこにいても、必ず見つける」
彼は私を抱きしめた。
「生まれ変わっても、ずっと離さない」
――完――




