幻燈の記録
「私は、その男の眼を、いちども正視できたことが無い」。
そう書き出して、私は万年筆を置いた。伊豆の、潮騒の音が微かに聞こえる安宿の一室で、私は自分という「失敗の集積」を記録しようと試みているのである。窓の外には、晩秋の傾きかけた陽光が、錆びたトタン屋根を鈍く光らせていた。
自分には、世間の人たちが言うところの「誠実」や「重厚」といった言葉の正体が、どうしても呑み込めない。彼らは、あたかもそれが当然の真理であるかのように、顔をしかめて道徳を語り、その舌の根も乾かぬうちに、隣人の不幸を肴に酒を呑んでいる。その「実生活」というものの厚顔無恥な力強さが、私にはただ、おそろしい。
そこで私は、幼い頃から「不備な微笑」という仮面を被ることにした。それは、人間を極度に恐れながらも、彼らと完全に絶縁する勇気も無い私が、辛うじて彼らと繋がるための、必死の「道化」のサーヴィスであった。相手が怒り出しそうになると、私は自分の心臓を針で刺されるような痛みを感じながら、わざと座布団の糸を指で弄んだり、頓狂な声を挙げて失敗を演じて見せたりするのである。
「ひどい顔をしているね。君は、まるで自分の影に怯えている鼠のようだ」。
かつての学友であり、今は故郷の町で「成功した実業家」という、何とも羨ましくも忌まわしい肩書きを持って生きているKは、私をそう呼んで、下品に笑った。彼は、私が東京での生活に破れ、着物一着と数冊のノートだけを持って舞い戻って来たことを、まるで極上の喜劇を観るかのように楽しんでいる様子であった。
「君は、理想だの芸術だのと、空を飛ぶ鳥の羽毛のような軽い言葉ばかりを並べているから、地べたを歩くことが出来なくなるのだ。いいかい、人間は、飯を食うために嘘をつき、出世するために他人を蹴落とす。それが、この世の『清潔な現実』というものじゃないか」。
彼は、高価なウイスキィのグラスを揺らしながら、独善的な「幸福論」を説き続けた。私はただ、彼の赤い鼻の頭から噴き出す汗の粒を数えながら、「はあ、さようですか」「なるほど、お説の通りです」と、呼吸だけの返辞を繰り返していた。内心では、彼のその「強固な確信」を、どこかの断崖から突き落としてやりたいという、醜い復讐心に悶えていながらも。
数日前、私はそのKに誘われ、町の端にある「未完の橋」を見に行った。それは、十数年前に壮大な計画のもとに着工されながら、途中で資金が尽き、あるいは政治的な紛争に巻き込まれ、ついに川の中ほどでぷっつりと途切れたまま放置されている、無惨な石造りの構造物であった。
「どうだい、無駄の象徴だろう。これを壊して、新しい鉄橋を架けるのが僕の次の仕事だ。こんな『失敗の記録』は、一日も早く消し去るに限る」。
Kはそう言って、未完の橋脚をステッキで叩いた。けれども私は、その夕暮れの薄明の中に、ぬっと突き出た石の塊を見て、不意に眼頭が熱くなった。
それは、美しかった。
完成されて、人々に便利に使われ、やがては日常の風景の中に埋没してしまう「成功した橋」よりも、その、誰にも渡られることなく、ただ川の流れを遮り、雨風に曝されながら立ち尽くしている「未完の橋」のほうが、私には、はるかに高貴な、神の寵児のような気高さを持っているように思われた。
「これは、犠牲者の姿ですね」。
私は、誰に言うともなく呟いた。
「なに?」
「いいえ、なんでもありません」。
私は、Kの理解を拒絶した。彼は、完成された美しさや、実利的な成功にしか価値を認めない。しかし、この世には、敗北することによってのみ、あるいは未完成であることによってのみ、結晶する「純粋」というものがあるのではないか。
私はその夜、宿に帰り、一枚の写真を取り出した。それは、私がかつて「ひめごと」のように愛していた女性の、十年前の姿である。彼女は、ある貧しい画家の妻であったが、その画家は自らの才能の限界に絶望し、酒に溺れ、彼女を何度も裏切った。それでも彼女は、窓辺で子供を抱きながら、冬の夕空のような澄んだプロフィルを持って、静かに微笑んでいた。
彼女は、自分を犠牲にしながらも、その「不幸」を、決して他人の思惑の道具にはしなかった。彼女の美しさは、あたかもパンドラの匣の隅に残っていた、あの小さな「希望」という石のように、絶望のどん底でこそ、よりあざやかに輝く性質のものであった。
私は彼女に、三通の手紙を出したことがあった。それは、恋文というよりは、地獄の底からの救いを求める「悲鳴」に近いものであったろう。けれども、彼女からの返事は、一度も無かった。
それでよかったのだ、と今なら思える。もし、彼女が私に応え、共に堕落の道を選んでいたならば、彼女のあの「気高き透明」は、たちまちのうちに濁り、私と同じ「卑屈な肉体」へと変貌してしまったに違いない。
私の恋は、成就しなかったのではない。彼女が沈黙を守り通してくれたことによって、私の胸の中の「虹」は、永遠に消えない炎の橋として完成されたのである。
「さようなら。すべては、過ぎて行きます」。
私はノートを閉じ、ランプの灯を消した。
明日、私はこの宿を発つ。行く先は決めていない。ただ、あの一本の蔓が伸びて行く方向に陽が当たるように、私もまた、自分の「かるみ」を求めて、彷徨い続けるだけであろう。
人々は私を、「根無し草」だの「癈人」だのと呼んで、憐憫の情を寄せるかも知れない。しかし、私は確信している。人間は、恋と革命のために生まれて来たのだ。それが、たとい他人の目には「滑稽な失敗」と映ったとしても、自らの血を流して獲得したその「敗北」こそが、唯一の、嘘の無い、私の「実生活」の記録なのである。
暗闇の中で、私は窓を開けた。冷たい夜風が、私の頬を優しく撫でた。遠くの山影が、大きな親分のように、どっしりと、しかし慈愛を持って、私のこの「恥の多い生涯」を見守ってくれているような気がした。
私は、そっと微笑んで、目をつぶった。明日もまた、私の「新しい幕」が、静かに開かれるのである。




