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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

告白文

作者: Jun

第一章午後四時の窓硝子


二〇一二年十月十四日。午後四時を回ったばかりのころ、秋の乾いた風が通りを渡っていた。(ワン)(ザイ)県株潭(ジュータン)鎮。小さな山間の町。その町の片隅にある、土壁の家並みが続く古い一角を、ひとりの男が歩いていた。

背は低く、体格も華奢だった。顔に目立った傷や特徴はなく、通りすがりなら誰も気に留めなかっただろう。だが彼の足取りには、何か妙に不自然な浮き立ちがあった。音のない足音。自分の内側だけで高鳴るリズムに酔っているような、それでいて呼吸は浅く、何度も背後を気にするそぶりがあった。

彼の名を誰も知らなかった。彼自身、名前を名乗るつもりもなかった。虫の音が微かに聞こえた。遠くで誰かが洗濯物を取り込む音。鳥のさえずり。町はいつも通りだった。けれど彼の胸の奥には、違う音が鳴っていた。乾いた心臓の鼓動。呼吸の奥に巣食う、澱のような衝動。

通りの角を曲がると、目の前に低い家屋が並んでいた。

そのひとつ、小月(シャオユェー)という少女の家の前で、彼は立ち止まった。

家の前にはブランコがあり、庭先に誰の姿も見えなかった。だが家の中からは、笑い声が聞こえてきた。細く、高く、少し鼻にかかる、無邪気な笑い声。誰かと話している様子はなかった。まるで、空気そのものと遊んでいるような、純粋な声だった。

彼は、ふとした衝動で、顔を家の方へ向けた。窓は曇ったガラスで覆われていた。すりガラス越しに、細い輪郭が浮かび上がっていた。

女の子だった。

彼女は一人で踊るように動き、スカートがふわりと揺れた。

ガラスの向こうの光が彼女の輪郭を浮かび上がらせ、脚の曲線、肩の線、首の角度が、曖昧な形で彼の目に焼きついた。

その瞬間、彼の心に何かが宿った。それは欲望と呼ぶにはあまりに無形で、衝動と呼ぶにはあまりに静かだった。ただ確かなのは、彼の中にあった「何か」が、はっきりと目覚めたということだった。

小月は十一歳だった。

母は昼勤、父は役場で働いており、週末は遅くまで帰らなかった。兄と姉は近くの駄菓子屋へ出かけていた。いつも三人で遊ぶのに、今日は小月だけが「お昼寝する」と言って残った。

彼女は一人、家の中で遊んでいた。鏡の前で髪をとかし、リモコンで音楽を流し、風に吹かれて踊ったりもした。本を読み、ぬいぐるみを並べ、お菓子を半分に割って食べた。

何も特別なことはなかった。ただの、子どもの休日の午後だった。

「やぁ……こんにちは」

玄関の戸が、ゆっくりと開いた。

小月は台所から顔を出した。

そこには見知らぬ男が立っていた。

男は、どこか見覚えがあるような気もした。もしかしたら父の知り合いかもしれない。けれど小月は、首をかしげたまま立ち尽くした。

「……どなたですか?」

男は笑った。顔には汗がにじみ、目だけが異様に落ち着いていた。

「ちょっとね、お父さんに用があって。お家の人は?」

「いま、誰もいないです。みんな、出かけてます」

「そうか、そうか。じゃあ、ちょっとだけ待たせてもらっても……」

彼の言葉に、小月の背筋がすうっと冷たくなった。声は穏やかで、優しさを装っていた。けれどそこには、何か底知れないものがあった。

彼女は一歩、後ろへ下がった。

「……お父さん、夜まで帰らないです。今は……誰もいません」

その言葉を聞いたとたん、男の目の奥に、何かが閃いた。笑顔が崩れ、目が狭まり、口角がほんのわずかに吊り上がった。

「そう……なんだね」

その場の空気が、急激に重くなった。

小月は逃げようとした。

けれどその前に、男が一気に距離を詰めた。

「やっ、やめて―!」

悲鳴は途中で途切れた。

男は小月に覆いかぶさり、手で口を塞いだ。

もがく細い身体、必死に振りほどこうとする腕、暴れる脚。それを一つひとつ封じるように、男は無言のまま動いた。

家の中には、風鈴の音だけが、ゆらりと鳴った。

午後四時すぎ。兄と姉が駄菓子屋から戻ったとき、玄関が半開きになっていた。

「……開いてる?」

「鍵、かけたって言ってたよね?」

兄が先に家へ入った。静まり返った空間。テレビの音すらなかった。

「小月?」

階段を駆け上がった。姉が後を追った。

そして、部屋の扉を開けた。

部屋の中は、荒れていた。衣服が散乱し、床には濃い血の跡。中央に、小月が倒れていた。目を半開きにしたまま、動かない。

「小月……っ!」

兄が叫んだ。そのとき、窓の向こうに男の姿が見えた。裸の背中が、ぬるりと光を受けていた。姉が下へ駆け下りる。

「誰か、誰か来て!助けてください!!」

声に応じて、近くを通っていた青年が家に駆け込んだ。彼は何も言わず、ただ少女の傍に膝をつき、手を握った。

救急車と警察のサイレンが、間もなく村に響いた。

その日の夜。警察は現場を封鎖し、捜査を開始した。

だが犯人の手がかりは乏しかった。兄も姉も、男の顔をはっきりとは覚えていなかった。ただ「裸だった」「背が低かった」「髪が短かった」と断片的に語るだけだった。

犯行の痕跡から、性犯罪目的の侵入が失敗し、憤怒によって殺害に至った可能性が示唆された。

小月の身体には刺創が三か所。腹部を深くえぐられていた。小腸がもろはみ出していた。

けれど、性被害の形跡はなかった。

翌日、株潭鎮にある寄宿制中学校で、ひとつの騒動が起こった。ある教師が、夜の自習時に、生徒の提出した作文に異常な内容を見つけたのだった。

その作文のタイトルは、《最近気になること》だった。

国語の教員を務める李教師は最初、青春期の苦悩かと読み流しかけた。しかし段落が進むにつれ、そこには猟奇殺人事件に携わる一部始終がまるで“目撃者のような詳細”で綴られていた。

小月の家の間取り、窓の位置、彼女の衣服の色―それらが正確に描かれていた。

「まさか、あの子が……」

教師は震える手で、警察に通報した。

数日後、町は静まり返ったままだった。

村人たちは、事件について語らなかった。けれど誰もが、あの作文を読んだ教師の話を耳にしていた。

兄と姉は、誰とも話をせず、家に閉じこもっていた。

父は黙って仕事へ行き、母は昼も夜も寝込んでいた。

小月がいた家。

その午後の静けさ。

すりガラスに映った輪郭。

午後四時の、崩れた風景。

それはもう、戻らなかった。


第二章 血と遊び場


日曜日の午後。

空には薄く雲がかかり、風が土の匂いを運んでいた。村の外れ、崖沿いに続く未舗装の細道を、兄と姉は並んで歩いていた。袋の中では、さっき買ったばかりの練乳菓子がかすかに音を立てていた。

「帰ったら三人で分けようね」

姉の声に、兄は頷いた。

その頃、小月は縁側に座っていた。古びた風鈴がひとつ、風に揺れながら鈍い音を鳴らしていた。小月は肘をついて空を見上げ、唇を閉じたまま何かを考えていた。

昨日、父が久しぶりに家にいた。台所の隅に座って、空っぽの湯呑を見つめながら「また転勤かもな」と誰にともなくつぶやいた。母は新聞をめくりながら返事をしなかった。兄と姉はそれぞれに気まずい沈黙を守り、小月だけが「じゃあまた転校?」とあっけらかんに聞いた。

どうかな、と父は言った。

「でも、どこへ行っても、お前たちはお前たちだからな」

それだけだった。

小月はそのやりとりを、縁側で思い出していた。

昼下がり、家は静かだった。母は昼勤、父は役所。兄と姉は出かけていた。

小月は一人、家に残っていた。薄くかけられたテレビの音が、畳の上をゆっくりと滑っていた。

そんなときだった。

家の裏手にある空き地で、誰かの気配がした。

ガサリ。

窓の外に人影が通りすぎる。

小月は最初、鳥か野良猫だと思った。だが、次の瞬間、玄関がゆっくりと開いた。

知らない人が、家に入ってきた。

「……誰?」

小月は立ち上がった。見覚えのあるような、でも思い出せない顔の男が、居間に立っていた。

「お父さん、帰ってきたの?」

「ちがうよ。……お父さんの、知り合いだよ」

男は薄く笑った。声が震えていた。

「お父さんは……いま仕事。夜まで帰らない」

小月はそう言って、そっと後ずさった。

男の笑みが、にわかに崩れた。

「そうか。じゃあ、大人は誰もいないんだね」

彼はゆっくりと近づいてきた。

小月の身体はすぐに硬直した。足がすくんだように動けない。

「やだ、出てって」

「大丈夫だよ。ちょっとだけ、話をするだけだから」

その声が、酷く甘ったるく、ねばついていた。

事件が起きたのは、そのすぐあとだった。

午後四時過ぎ、兄と姉が家に戻ったとき、玄関の扉が半開きになっていた。

「小月、開けっぱなし……?」

姉が訝しむ。兄は声をかけようとしたが、違和感のようなものが先に喉をふさいだ。家の中は異様なまでに静かだった。

階段を登ると、扉の前に微かな気配。

ドアを開けると、小月が倒れていた。衣服は散乱し、床には濃い血溜まりが広がっていた。小月はうっすらと目を開け、何かを言おうとしていた。だが、唇から出たのは小さな呼吸音だけだった。

兄が駆け寄ろうとしたとき、窓際の影が動いた。

裸の男が、窓枠を乗り越えて逃げていく。

「逃げた……!」

姉が絶叫し、階段を駆け下りた。

「誰かっ、誰か助けて!!」


通報を受けて、最初に駆けつけたのは近くの青年だった。

彼は小月の手を握り、脈を確かめながら警察と救急を呼んだ。兄と姉は放心したまま立ち尽くしていた。世界は音を失い、風さえ止まって見えた。

それから十五分後、サイレンの音が村を裂いた。

村人たちは皆、戸口に立ち、誰の家に何が起こったのかと顔を見合わせた。

だが、誰一人として、小月の家に近づこうとはしなかった。

その夜、村には重たい沈黙だけが残った。

病院の廊下は白く、どこまでも遠かった。

姉は待合の椅子に座り、肩を震わせながら無言で俯いていた。兄は、廊下の自動販売機で買った水を持ってきたが、彼女は気づかなかった。

「……さっき、小月、何か言ってたよね?」

「うん。でも、声じゃなかった。……目で」

兄はかすかに声を出した。唇が乾いていた。

さっきの部屋で、あの瞬間、小月が彼を見た目。その瞳に、何か強く訴えかけるような光があった。

「……助けて、って言ってたのかも」

「……私たち、遅かったのかな」

「わかんない。でも、きっと……」

兄の言葉はそこで途切れた。

医師が近づいてきた。

「ご家族の方ですね。……残念ですが、小月さんは亡くなりました。腹部に三か所、刺し傷がありました。死因は失血死です」

世界が音を失った。

姉は声を出さなかった。ただ、口元がわずかに動いたかと思うと、そのまま椅子から崩れるようにして床に座り込んだ。兄もまた、ゆっくりとその隣にしゃがみ込み、ただ肩を抱いた。

時間が止まっていた。

警察の聴取はその夜遅くまで続いた。制服姿の巡査と、スーツの女性刑事が、兄と姉の前にしゃがんで話を聞いた。

姉が語った。

兄が頷いた。

断片的な記憶、混乱した映像。誰かが裸で窓から逃げたこと、目を見開いていた妹、部屋の匂い、服の感触。どれもが生々しく、しかし曖昧で、霧の中のようだった。

「顔は見えた?」

「見た……けど、覚えてない。……はっきりとは」

「背は?服装は?」

「何も着てなかった」

警官の手が止まった。筆記の音が消え、沈黙が落ちた。

葬儀は簡素だった。

小さな祭壇に、小さな遺影。

香炉の煙が白くたなびき、来客はぽつりぽつりと頭を下げて去っていった。

母はまだ精神的な混乱から回復していなかった。父は何も語らず、ただ線香を何度も手向けた。

兄と姉は最後に棺のそばに立った。

小月は、小さな顔で眠っていた。

姉は震える手で、小月の髪を撫でた。

兄は声を出さなかった。ただ、小さな手をもう一度握り、そっと額に口づけた。

事件のあとの村は、まるで何事もなかったかのように、静かだった。だがそれは、沈黙という名の拒絶だった。

誰もその話をしなかった。家の前を通るとき、目を逸らした。兄と姉は、まるで村にいない存在のように扱われ始めた。

ある日、兄は誰もいない遊び場にいた。

滑り台の上、夕陽が地面を赤く染めていた。

姉が、後ろからやってきた。

「ここ、昔は小月と一緒に来たよね」

「……うん。滑り台のてっぺんで、『空を飛びたい』って言ってた」

「両手、広げてさ。風に乗れるって、本気で信じてたよね」

兄は立ち上がり、滑り台の先端に立った。目を閉じ、腕を広げた。

「ねえ。あのとき、私たちが無理にでも連れていってたら……違ったのかな」

「わかんない。でもさ、あの日、小月はきっと飛んだんだと思う」

「飛んで……どこへ?」

兄は答えなかった。

ただ、風のなかに、小月の笑い声が一瞬だけ聞こえたような気がした。

砂場の砂に、兄はそっと指で字を描いた。

「小月」

風が吹いた。

名前は崩れ、跡形もなくなった。

けれど、その瞬間、兄と姉の中には確かに何かが残った。喪失という名の風景の中に、微かに灯る、小さな記憶の灯。

遊び場は変わってしまった。

でも、その場所でしか、小月と再び出会うことはできなかった。



第三章 作文


深夜零時。万載県公安局の薄暗い事務室に、蛍光灯の明かりが静かに灯っていた。リュウ刑事は机の端に腰をかけ、タバコに火をつけながら、一枚の作文をじっと見つめていた。

 部屋の隅には、冷え切ったインスタントコーヒーのカップ。パソコンのモニターには、少年が提出した作文《最近気になること》が拡大表示されていた。

 三十二歳になる劉には妻がいた。ヤオという名で、かつては小学校の教師をしていた。今は五歳になる息子・宝源バオユアンの育児のため専業主婦となっていた。

「瑤、悪いが今日も遅くなりそうだ。先に寝ててくれ」

 さっき送ったメッセージに、既読のマークはついていた。

「無理しすぎないでね。宝源は、もうぐっすり寝ちゃったわ。『お父さんみたいな刑事になる』って言ってたよ」

 その言葉が、劉の胸に小さく響いた。

 宝源は二人の愛の結晶だった。この仕事を選んだ時から、いつかこのような日々が来ることは覚悟していた。それでも、心が軋む瞬間がある。血、悲鳴、冷えた遺体。どれだけ罪なき死者を見送っても、悪意は湧いてくる虫のように次々と姿を現す。

「クソどもが」

 低く唸るように呟きながら、劉はモニター上の作文をスキャンしはじめた。誰かが書いた作り話なのか、それとも、忌まわしい真実なのか。


題名:《最近気になること》


あの日のことを、ぼくは一生忘れることができません。

それは、静かな昼下がりでした。隣のおじさんは出稼ぎに行っていて、家には僕とおばあちゃんしかいませんでした。知らない男が、隣の家の中にそっと忍び込みました。そして小月の部屋に入ると、彼は尋ねました。壁は薄く、また夏だったので、ドアも窓も開けっぱなしで、会話はかなり明晰に聞こえました。

「お父さんはどこへ行った?いつ帰ってくる?」

小月は不安そうな声で答えていました。

「お父さんは出稼ぎに行っています。夜にならないと帰りません。お父さんに何かご用ですか?」

小月がそう言い終えた瞬間、男は突然小月に飛びかかり、服を無理やり引き裂こうとしました。

小月の顔は、驚きと恐怖に染まっていました。でも彼女は必死に叫び声をあげて助けを求め、どうにかして身を守ることができました。しかし、男はそれに逆上して、持っていた刃物で小月の体を三度も刺しました。

その直後、男は家から逃げ出しました。ちょうどそのとき、外にいたおばあちゃんが犯人と鉢合わせしました。おばあちゃんは、しっかりと犯人の顔を見てしまいました。

それが、悲劇の始まりでした。犯人は証人を消すために、柴刀を持って、おばあちゃんを何度も何度も斬りつけました。優しくて、いつも私たちを見守ってくれていたおばあちゃんが、あのとき命を奪われてしまったのです。

ぼくはいまでも夢に見ることがあります。あのとき、小月が助けを求めて叫んだ声。おばあちゃんが倒れる音。すべてが頭から離れません。

どうしてこんなことが起きてしまったのか、何度考えても答えは出ません。ただ、ぼくはあの日のことを胸に刻み、生きていかなければならないと思っています。


 文章はここで締めくくられていた。十四歳の少年、(チャン)が書いたものだった。彼は小月の近隣に住んでいる中学生だ。大人しく、婆ちゃんっ子で、クラスでも目立たない存在だった。劉はしばらく考えたのち、PCの画面を閉じた。

背筋が凍るような恐怖を感じた。

被害者は一人ではなかったのだ。いや、的確にいうと、もし少年の書いた作文が本当なら、被害者はもう一人いることになる。

深更三時、劉は嫌な予感と共に、同僚複数名を引き連れて、再び事件現場に訪れた。

ドアをノックしても返事は来ない。

捜査チームは無理やり、老婆の住む部屋のドアをこじ開け、恐る恐る居間へ向かった。

そこには頭部から血を流す張の祖母が横たわっていた。事件経過から数時間も経過しており、血は凝固していた。首には白いスカーフを巻いていた。部屋には明らかに被害者が抵抗した形跡が残っており、犯人は同一人物であると初歩的に判断された。

現場は再び封鎖された。



第四章 警察記録断章


株潭の街は深い悲しみに陥った。

翌日、劉は李教師に連絡し、第一目撃者である張に対し、事情聴取を行った。

事情聴取は5時間にも及んだ。途中、空腹を満たすため、出前で米粉(ミーフン)を頼み、一緒に食べたが、少年は食べ物に手をつけようともせず、両目は始終虚ろになっており、生気がまるでこもっていなかった。無理もない、その年齢で、二人もの親しい存在が目の前で惨殺されるトラウマを背負ってしまったのだ。あまり刺激しないように。そう考えながら、劉は慎重にヒアリングを行い、少年を帰らせたのち、その結果をまとめていた。張のほか、被害者の姉やその他目撃者にも事情聴取を行った。

以下がその記録である。


記録No.001|初動対応報告書(2012年10月14日 17:21)

発信者:株潭鎮派出所 警員・黄林

受信者:江西省公安庁第四課

通報内容:「女児が自宅で襲われている」

現場住所:株潭鎮東街52号(張家)

到着時刻:17:06

状況:少女が意識不明のまま倒れており、出血多量。衣服の乱れ確認。

救急搬送:17:12→17:43死亡確認。


記録No.006|鑑識課・現場記録メモ(抜粋)

•室内に侵入痕なし。ただし二階窓枠に足跡あり。

•被害者は全裸。腹部、脇、大腿に刺創3か所。

•窓際に焦げた紙片と繊維片(DNA分析依頼中)。


記録No.008|姉・王◯◯ 聴取記録(10月15日)

Q:「小月さんは?」

A:「昼食後、家に一人残ってました。」

Q:「帰宅後の様子は?」

A:「玄関が開いてて、部屋から音はなかったけど、妹が心配で……」

(供述中断:号泣のため)


記録No.009|現場通行人 聴取記録(曹建軍/建設作業員)

•「子どもが『妹がやられてる』と叫んでた」

•「階段を駆け上がると、男が窓から逃走」

•「少女は血まみれで動かず……とにかく警察に電話を」


記録No.013|証拠品目録

•A-01:衣類

•A-02:血液サンプル

•A-03:繊維片(DNA照合中)

•A-04:焼損紙片

•A-05:足跡(微小血痕あり)


記録No.017|学校教師からの通報

担任教師・李麗より:

「作文《最近気になること》が事件とあまりに一致している」

「内容に不気味さを感じ、警察に通報」


記録No.018|作文内容抜粋(要約)

作文題名:《最近気になること》

筆者:張〇〇(14歳)

•家の前を通り、女の子が踊っている姿を見る

•玄関から侵入、「話がしたかっただけ」

•「手が血で濡れていた」、夢に見る、と記す

•「ぼくは悪くない、笑っていてほしかっただけ」

→ 極端に成熟した語彙。感情の欠如が顕著。


記録No.021|内部メモ

•張の作文・絵画に「血」「裂けた口」など不穏な表現

•担任・養護教諭ともに異変を指摘

•精神鑑定を検討中


記録No.025|精神鑑定予備所見

•感覚的語彙による行動動機

•倫理抑制や他者視点の欠如

•「夢」「遊び」に準じた感覚で描写

→ 幼児的倒錯願望の可能性。再評価要


記録No.031|兄・張××の証言

•「あの人がいた……妹が叫んで……」

•「顔はわからない。でも背中に見覚えがあったような……」


記録No.034|DNA照合報告

•DNA「未登録」。村の住民にも一致せず

→ 子ども由来の可能性を示唆


記録No.038|被疑者候補(未発表)

•張〇〇(14歳)を候補としつつ、起訴は困難

•所持ノートに「もうひとりのぼく」「血の午後」など


記録No.042|未提出作文『午後のひとりごと』

•「笑い声を瓶に閉じ込めた」

•「まだあの部屋にいる」

•「瓶が割れてしまいそうだったから黙ってた」


記録No.047|封印資料

•A-14:連作詩(「血の声」ほか)

•A-16:兄の筆記具に付着した赤黒インク

•C-01:防犯カメラ映像(音声解析中)


記録No.050|再調査メモ(郭警部補)

•「子どもが語る真実ほど恐ろしいものはない」

•「“わたし”は彼自身か、それとも彼の中の声か」

•「真実か、証拠か、それとも――罪の形をした物語か」


補足:検死報告抜粋(張祖母)

【解剖報告書 抜粋】

対象:張〇〇(被害者祖母)

死因:多発性切創による失血性ショック

主な創傷:

•頭部鈍打による裂傷

•頸部右側面に深さ6cmの斬創

•腹部および背面に浅い切創複数

鑑定意見:

・凶器は柴刀またはそれに準じた大型刃物

・致命傷は頸部だが、深度・角度ともに不安定

・複数回にわたり力任せに斬りつけた形跡あり

→犯人は「非熟練」「体力的に劣る」「情緒的制御に欠ける」傾向が示唆される

→成人男性の腕力による一撃ではなく、繰り返しの動作でようやく致命傷に至った

検死官・周明義(第一法医)

検死官所見(要約)

•頭部を複数回斬打。計6カ所に切創

•柴刀のような重刃によるものであるが、致命傷に至るまで複数回が必要だった

•「通常、この凶器であれば一撃で即死しうる」

→ **「容疑者の腕力が未熟=成人ではない可能性」**を指摘


少年を事情聴取する際、劉は不可解に感じた、なぜここまで詳細にわたる描写ができるのか?それに、老婆を1、2回で仕留められるはずの柴刀だ、なぜ複数回に渡って、手が下されたのだ?パズルは徐々に完成に向かっていった。


第五章 水落石出


深夜二時、株潭鎮公安局の会議室には、紙の擦れる音と、蛍光灯の低い唸り声だけが響いていた。

劉は、折り畳まれた報告書を机に広げ、視線を走らせていた。壁際のスクリーンには、現場写真、DNA照合結果、証拠品の図表、そして作文《最近気になること》の抜粋が並列して映されている。室内には、捜査一課・鑑識・少年係・心理分析チームなど、総勢十数名の警官が沈黙を守ったまま席に着いていた。

「確認しよう」

劉が低く口を開いた。書類の一枚を掲げ、全員の視線が集まる。

「T-Z17、つまり被害者の爪内から検出された繊維片DNA。村の住民全員と照合を終えたが、一致者なし。ただし――」

壁のモニターに新たな画像が映る。解析グラフと赤字の注釈。

「このDNAには“混合反応”がある。児童由来成分が多数混入。これはどういうことか。つまり、犯人は“子ども”である可能性が高い」

ざわめきは起きなかった。ただ、誰もがわずかに呼吸を詰めた。

「それに加えてこれを見てくれ」

劉はさらに別の紙を手にした。法医監察医が書いた、祖母の検死報告書だった。

「柴刀による損傷が10箇所以上確認された。だが、死因はそのうちの3〜4箇所の深部損傷による出血性ショック死。問題は、他の傷の切断角度と深さだ」

彼は紙を掲げた。

「力が一定せず、刃が途中で止まっていたり、ずれていたりする。法医の見立てでは、“明らかに筋力の弱い人物による”とのことだ」

「つまり……犯人は成人ではない」

心理分析係の若い隊員が言葉を呑むように問うた。

劉は頷いた。

「作文《最近気になること》を書いた少年・張。彼の筆致には、現場を知る者にしか描けない要素が含まれている。記憶ではなく、“記録”に近い正確さだ」

証拠品として回収された作文の一部が、画面に映る。

「彼女は一人だった。最初は話したかっただけ。叫びそうになって、焦った。なぜか、手が血で濡れていた」

「そして――」劉は静かに言った。「鑑識課が押収した彼の部屋からは、“未提出の作文”が数篇見つかっている」

画面に新たに現れる一文。

「わたしは、あの子の笑い声を瓶に閉じ込めた。ふたはちゃんと閉めたつもりだったけど、ときどき音が漏れる」

その詩のような文面に、室内の空気が少しだけ冷たくなった。

「さらに、靴裏の土と足跡の一致。現場のクレヨンの色素と一致する絵画。焼かれたノート片の筆跡も、彼のものと断定された」

証拠が重ねられてゆくたびに、誰の心にも「決定的」という言葉がよぎっていた。

会議の結論は、自然に導かれた。

同日午後一時過ぎ、株潭第一小学校の校門前に、公安車両が静かに停まった。教師らの困惑と抗議を抑え、劉は冷静に事情を説明し、張を静かに保護。児童精神カウンセラー立ち会いのもと、専用取調室での聴取が始まった。

劉が録音機をセットし、張と向き合ったとき、少年の顔は泣きも笑いもしなかった。ただ、じっと何かを耐えるように、机の縁を握っていた。

「張くん、今日は、少しだけ話を聞かせてくれるかな」

沈黙のあと、彼はこくんと頷いた。

「まず、あの日――10月14日、君はどこにいた?」

少年はしばらく目を伏せたあと、口を開いた。

「……家の下にいた。ゲームのことが、気になってたから」

「ゲーム?」

「……友だちの、ゲーム機。こわしちゃって。でも、謝る勇気がなくて。弁償しなきゃって思った」

「お金が欲しかった?」

「うん。おばあちゃんのとこに、もらいに行こうって……でも」

「でも?」

「……間違えた」

彼の声は、次第に濁っていった。

「おばあちゃんは二階なのに、三階に行っちゃって……小月の家だった。でも、ドアが開いてて。中に入って、……誰もいなかったから」

「そこで、小月さんと……」

「……いた。でも、なんか、いろいろ……ぐちゃぐちゃになって。自分でも、わかんない」

「刺したんだね?」

少年は頷かなかった。ただ、唇が微かに震えた。

「そのあと、祖母が来た?」

「うん。怒ってた。“なにしてるの”って言われて……携帯を持ってた。警察に電話するって」

劉は、呼吸を整えながら、最後の問いを発した。

「なぜ、おばあちゃんを……」

張は、机の縁をぎゅっと掴んだ。目に涙はなかった。ただ、彼の声がかすれた。

「全部、こわかった。誰にも知られたくなかった。……ぜんぶ、終わらせたかっただけ」

取調室の空気は、薄いフィルムのように張り詰めていた。録音機の赤いランプが点滅を繰り返すたび、劉の心には奇妙な波が立った。

「終わらせたかった……?」

少年の呟きは、自らの罪を弁解するためではなかった。むしろ、その語調は、深く沈んだ水面から泡のように浮かび上がった“独白”に近かった。

「小月が……こわい顔でぼくを見た。ずっと、ずっと、怒ってた。怒鳴ってた。でも、そのときぼくには、ぜんぶが“音”にしか聞こえなかった。叫び声も、血の匂いも、ぜんぶ、遠くのほうで鳴ってた……ラジオみたいに……」

劉は筆記を止めた。被疑者の供述は、感情の糸を引きちぎりながら、次第に狂気へと滲み出していった。

「おばあちゃんが、怒鳴ったとき、ぼくの耳が、ビーッて鳴った。何も聞こえなくなった。気づいたら、手が……赤くなってて、足元におばあちゃんが……転がってて……」

「そのときのこと、覚えてるか?」

「……全部じゃない。けど、ぼくのせいだってことは、知ってる」

そう言って、張は目を伏せた。机に映った自分の影を、指先でなぞるようにしていた。

供述は、すべて録音され、証拠として保管された。少年の保護者と少年鑑別所側の立ち会いのもと、取調べは翌朝にかけて継続され、事実関係は明白になった。

•ゲーム機を壊したこと

•金を得る目的で祖母の部屋に向かったこと

•階を誤って小月宅に入ったこと

•小月に強姦未遂を試みた末の殺害

•祖母による目撃と叱責

•証拠隠滅の意識に基づく、二人目の殺害

法的には、故意殺人罪及び強姦罪は死刑に値するが、張は刑事未成年(当時14歳)だったこともあり、法律に基づき、法院は少年を情状酌量の上で懲役18年の軽減処分とした。同時に事件の悪質性を踏まえ、専門医の精神鑑定と長期保護措置が決定された。

夜。株潭鎮公安局の資料室。

劉はひとり、再び作文《我的心事》を読んでいた。

「ぼくは悪くない。ただ、彼女に笑っていてほしかっただけ」

無垢と悪意。その境界線が、ぐにゃりと歪んで紙面の裏側に広がっていくようだった。

ふと、彼は耳を澄ませた。

静寂のなかに、ふと「笑い声」の幻聴が混じる。

それはきっと、張のなかにいた“もうひとりの声”だったのかもしれない。


事件は終わった。しかし、終わらなかった。

警察の内部文書には、いくつかの「未解析項目」が残されている。


•焼け残った日記のなかの、一節:

「ぼくのなかにいる、あいつが言った。“あの子の声を、瓶に閉じ込めた”って。」

•査閲制限のかかった詩「わたしの部屋にいるひと」には、こう書かれていた。

「だれも知らない。わたしのベッドの下には、“まだそこにいる”子がいるってこと。」


劉はこれらの文書を読み返し、最後にボールペンを置いた。

記録を閉じ、煙草に火をつける。

「罪とは何か」

その問いは、張にではなく、劉自身に向けられたものだった。

紙のうえに書かれた「真実」は、人間の心のなかにある“闇”の輪郭を、ほんの一部しか映さない。

だが、そこには確かに“声”がある。助けを求める声ではない。

“自分でも理解できないままに生まれた欲望”が、叫んでいる。

少年が取調室で供述を終えた後、劉はその経過を報告書にまとめながら、ふと、作文《最近気になること》が発見された経緯に思いを馳せた。

事件が発生した翌週、張は何事もなかったかのように登校を再開した。教室では変わらぬ無表情で椅子に座り、提出物も抜かりなく整えていたという。教師陣の誰も、彼が二人の死の渦中にいたとは夢にも思わなかった。

ただ一つ、彼自身の内側だけが異常を知っていた。

——あの夜、全身を血で濡らしたまま、張は家に帰った。だが、何を食べ、何を話したのかは覚えていない。ただ、翌朝になると机に向かい、作文を書き始めていたという。

それが、《最近気になること》だった。

担任教師の李教師は、その作文を読んだとき、震えが止まらなかったという。

「これは創作ではない。彼は、自分の中の声をそのまま紙に落としたのです」

そう語った陳は、作文を警察へ持ち込み、結果、再捜査へと繋がったのだった。

劉は思う。なぜ張は、告白したのか。

子どもだからか。隠しきれなかったのか。それとも、心の底に微かに残っていた“良心”が、彼の手を動かしたのか。

作文の冒頭に記された一行が、それを語っている。

「あの日のことを、ぼくは一生忘れることができません。」

誰に向けての言葉なのか。劉には、もう分からなかった。

ただ一つだけ確かなことがある。

この事件は、“一人の少年が書いた作文”によって、表沙汰になったのだ。


終章・沈黙の終わりに


株潭鎮の朝は、霧に包まれていた。薄い霧は静かに地面を這い、まだ誰も踏み込んでいない舗道を柔らかく包み込んでいた。

劉は公安局の資料室で、最後の書類をファイルに綴じていた。張の供述、鑑識結果、精神鑑定、作文と未提出のノート……そのすべてが一つの事件の「記録」として、静かに棚へ収まっていく。

一連の捜査と審理を終えたあとも、彼の胸には、抜け落ちた小石のような違和感が残っていた。

「結局、あの子は、どこまで“自分の罪”を理解していたのか」

そう思うたび、彼の耳には、張が呟いた最後の言葉が、ラジオの雑音のように蘇る。

―終わらせたかっただけ。

張は、判決の数日後、少年鑑別所へと移送された。劉が最後に見た彼は、車の後部座席で、無表情のまま、膝の上に小さな作文帳を乗せていた。そこに何が書かれていたのか、今となっては誰にも分からない。

警察の内部では、一部資料が非公開とされた。詩篇、絵画、夢のような断章。法的には「証拠不十分」とされた断片が、劉にとっては“少年のもうひとつの人格”の告白に思えた。

ある夜、劉はふと、自室の書棚から《最近気になること》のコピーを取り出した。読み返すたびに、心の奥底をかき乱されるような不快さと、どこか救いを求めるような痛みが蘇る。

―ぼくは悪くない。ただ、彼女に笑っていてほしかっただけ。

この一文の裏側にある「誰にも理解されなかった声」を、劉は忘れることができなかった。

事件から二年が経ち、張の祖母の家は、今は取り壊されて空き地になっている。雑草が伸び、時折風が駆け抜けると、どこからか微かに子どもの声が聞こえたような錯覚を覚える。

近隣の住民の多くは、事件のことを語りたがらなくなった。新聞記者の姿もとうに消え、祭壇も供え花も、もうそこにはなかった。

小月の姉は、別の町に引っ越し、静かに暮らしていると聞いた。彼女の話す声を、劉はもう一度聞きたかったが、連絡は取っていない。あるいは、取る資格が自分にはないと感じていた。

沈黙とは、時に言葉以上に雄弁だ。張の沈黙、小月の沈黙、祖母の沈黙、そして、作文というかたちでしか“声”を持てなかった張のもうひとりの人格。それらすべてが、劉の心に“言葉にならない問い”を残した。

ある日、公安局に一通の封書が届いた。差出人は、鑑別所の教師だった。封筒の中には、一枚のコピーが入っていた。

そこには、こんな詩が綴られていた。


―わたしはまだ、沈んでいる

水の底に、声だけがある

誰かが耳を澄ませば、きっと聴こえる

わたしの罪と

わたしの祈りと

わたしの終わらない沈黙が


劉は、その紙をそっと閉じた。誰かが、どこかで、まだ沈んでいる。それは張かもしれないし、劉自身なのかもしれなかった。

その夜、彼は資料室にひとり残り、再び作文を読み返した。ページをめくるごとに、少年の声が薄明のなかから立ち上がってくる。

“ぼくのなかにいる、あいつが言った。『あの子の声を、瓶に閉じ込めた』って。”

“だれも知らない。わたしのベッドの下には、“まだそこにいる”子がいるってこと。”

それは夢とも、幻とも、現実とも言えぬ“境界”から来る声だった。

劉は手帳を閉じ、デスクの引き出しにそれを仕舞い込んだ。そして煙草に火をつける。炎の揺らぎのなかに、一瞬、小月の笑顔がよぎった気がした。

罪とは何か。その問いは、張にではなく、劉自身に向けられたものだった。

ある日、劉は教育局に勤務する旧友から、一枚の写真を受け取った。それは、少年鑑別所で開かれた創作文集の一枚だった。

“あの夜、ぼくは目を閉じた。でも音だけは、ずっと続いていた。耳の奥で、誰かが何かを囁いている。たぶん、ぼくの中の“もうひとり”が。”

少年張は、鑑別所でも文章を書き続けていた。教師によれば、彼はまるで“語らなければ自分が消える”とでも思うように、ノートに書き綴っていたという。

だが、その語りは“悔い”や“謝罪”とは少し異なっていた。むしろ、世界に対する説明――もしくは、自分自身への再構成のようだった。

―「罪」を語ることで、人は自らを定義しようとする。

劉は気づく。張の文章は、もはや「告白」ではなく、「輪郭」だった。自分という存在の、誰にも触れられない核を描こうとする行為だったのだ。

教室で何事もなかったかのように座っていたあの表情。

作文に記された、歪んだ“彼女の笑顔”。

そのすべてが、彼の中で語られなかった声となり、沈黙を超えて、今もどこかで息をしている。

事件は終わった。しかし、終わらなかった。

記録は棚に仕舞われ、封印された。だが“物語”は終わらない。

それは誰かが再び声を聞き取るその日まで、深い水の底に潜み続ける。

ある日、劉は市の図書館で偶然、一冊の自主制作詩集を見つけた。発行者名はないが、表紙には震えるような字でこう書かれていた。

―「わたしはまだ、わたしの部屋にいる」

ページをめくると、こう書かれていた。

“ここにいる。誰にも気づかれずに。でも声は届いてる。だから、いつか、わたしを見つけて。”

それが張の書いたものかどうか、証拠はない。ただ、その文字の筆致は、劉の記憶にある作文帳の線とどこか似ていた。

最後のページには、こんな一文があった。

―「もし、あなたがこの声を読んでくれたなら、ぼくはもう少しだけ、生きていてもいい気がします」

劉は、しばしその言葉を見つめたのち、そっと目を閉じた。

霧のなかに、かすかに笑い声が混じった気がした。

それが誰のものか、彼にはもう分からなかった。

(了)


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