2.初っ端から
大樹と昌が引っ越してきた。だが汐にとっては最悪な状況だった。風邪でダウン、38,6℃という高熱。だから引っ越しは静かに執り行われる……はずだった。
深水家の一階は、仏壇のある4,5畳の和室と7,8畳の洋室。それに11,7畳のリビングダイニングルームだ。キッチンテーブルとソファがある。
2階は6,7畳と7,2畳という中途半端な洋室2つ。両親とも健在の時に建てたこの家は汐にも自慢の家だ。ローンの残りは母の生命保険ですでに払い終わっている。
昌の部屋は一階。二階をどう使ってもいいと二人には言ってある。だから口出しをするつもりは無かった。……本当に無かった。
「いい加減にしろっ、昌っ」
熱さましのシートを額に貼って上がって行った汐。
「だって! 似たようなスーツばっかりなんだから処分すればいいんだ、そしたら広くなるだろっ」
昌が使いたい部屋には大樹の部屋より大きなクローゼットがある。そこを貸してほしいと大樹が頼んだのだが。
「俺は文句を言ってるんじゃなくって」
大樹の声など二人とも聞いていない。
「昌は制服とコートくらいしか下げないだろっ、いいじゃないか、少し譲っても!」
「だ・か・ら、嫌だって言ってるの!」
「いいんだよ、処分するから」
「だめ! 大樹さん、今っからそんな我がまま許してたらこの先どうするの? 絶対調子に乗ってあれこれ言うに決まってる!」
「あああ、ひどいっ、いたいけな思春期の美少年になんてこと」
「それって誰のことだ!」
「汐くん、そんなに騒いだら熱が」
散々叫んで騒いだから、頭がくらくら、体がふらふらしている汐。大樹に支えられながらやっとの思いで階段を下りた。大樹が氷枕を取り換えてくれてスポーツドリンクを飲ませてくれる。
「すみません、せっかくの引っ越しの日に……」
「とんでもない! こんなに立派な家に暮らせるなんて思ってもいなかったよ。今日から家事は任せてくれ」
「大樹さん、料理できるんだ」
感謝の目を向けた。
「いや。サラダとかサンドイッチくらいは大丈夫、昌がいるからその手伝いをするよ」
「あの、」
一抹の不安を感じる。感謝の目を返してもらいたい。
「洗濯は」
「まとめてクリーニングに持っていくから」
「掃除は」
「それなら大丈夫!」
(それならって……『家事は任せてくれ』って言ったくせに……)
汐はハッとした。今までただ付き人をしてきた大樹。果たして実生活にどれほどの貢献ができるのだろうか……
(頭痛い……熱が上がりそう……)
予感的中。汐の熱は39.1℃まで上がった。大樹はその周りをただうろうろしていた。
大樹は免許を持っていた。付き人をしていたくらいだから運転は上手い。だから病院の送り迎えは大樹だ。彼にとっては昌以外への”付き人”は新鮮だったらしい。絶えず汐に話しかける。
「そうなんだ、お母さんは小さい時に亡くなったんだね」
「そうか、お父さんの仕事の手伝いまでしてたんだ」
「薬剤師? 勉強大変だね!」
汐はまだ熱がある。車の揺れも心地よい。だから要するに眠りたい。なのに次々と質問が来る。付き合い始めだ、邪険にもできない……
だがとうとう我慢できなくなった。
「大樹さん、少し眠ってもいいですか?」
「もちろんだよ! 気にせず眠ってくれ」
やっと手に入れた安眠……と思ったが。
「着いたよ」
諦めて車を降りた。
医師はもたもたと「風邪ですね、暖かくして栄養のある物を食べてぐっすり眠ってください」的な内容を三度ほど繰り返して、うんざりしたところでやっと解放された。
診察室を出て内容を説明する。
「そうか、それは深刻だね」
考え込んでいる大樹に、心配要らないと言おうとした。
「リゾットでいいのかな」
「それ、昌が作るんでしょ?」
「そうだね、リゾットだから」
(まるでリゾット以外は作れるみたいなこと言ってる)
「喉が痛いんで、おかゆみたいなのが」
「どうすればいいかな」
「……俺が作れます」
「悪いね、そうしてくれる? 買い物、この後寄ろうか」
「……はい」
(病人を歩かせる気か)
昌は資産家の息子だったんだから付添いとしてもこんな必要もなかっただろう。大樹がしていたのは買い物だけだったに違いない。
(うーん…… これ、思ったより深刻かも。生活の根本から教えなきゃならないんじゃないか?)
そこまで考えて、あ! と思った。
「大樹さん、住民票とかは? 昌の学校、考えてあるの?」
「なんのことかな?」
(いい笑顔だ……なんで自信たっぷりなんだよっ……また熱上がりそう……)
そして、しっかり上がった。おかゆは自分で作った。
汐は全力を挙げて回復に努めることにした。『為せば成る!』が原動力の汐は、今どきではない根性論派だ。ぐっすり眠って、しっかり食べて。
翌朝の食事は、昌が用意してくれていた。その卵雑炊に感涙した。
「ごめん、夕べは自分で作ったんだって? 部屋のコーディネートに夢中になってたから気がつかなかった」
「いいんだよ! わ、これ美味しいよ!」
昌は甲斐甲斐しく世話をしてくれた。着替えさせてもらってシーツを替えてもらう。
「病人の世話なんて、俺、初めてだ!」
それが嬉しくて堪らないらしい。自分がしてもらってきたことを汐にしたい。
「大樹、役に立たないよね」
「そんなこと言うなよ」
シーツを洗って干したのも昌だ。昌は器用になんでもこなす。
「俺が良くなったら三人で役所に行こう」
「役所?」
「引っ越した手続き、何もしてないだろ?」
「え、マジ?」
「転校の手続きもさ」
「ええ、マジ?」
「下手すると編入試験、受けることになるかもしれない」
「ええええ、マジ? 大樹、なにやってんだよ!」
(他には……)と考えて、とんでもないことに気づいた。
(『大樹』って呼んでるけど。大樹さん、昌とのことどうする気なんだ? 戸籍も住民票も……あ、学校は保護者が要る!)
これは放ってはおけない。昌が自分の部屋に行っている間に大樹を呼んだ。携帯でだ。
『やあ、汐くん、どうした?』
「大樹さん、昌に内緒で下に下りて来てくれる?」
『今行くよ』
大樹がスーツで下りてきたからちょっと驚いた。
「どこか行くの?」
「行かないよ」
「じゃどうしてスーツなの?」
「これ以外なくって。パジャマならあるけど」
「だって私服は!?」
「今まで休みなんか無かったからね、ずっと昌に付いていたから私服が要らなかったんだよ。自分の買い物もスーツだったんだ」
そう言えば最初に浜で出会った時もスーツだった……
(良くなったら、買い物!)
「じゃ、俺が落ち着かないからパジャマに着替えてきて」
自分より一回り体格のいい大樹に、服を貸すことは出来ない。
パジャマで下りてきた大樹に、やっと要件を話す。
「昌と話してないの? 間柄のこと」
「話してないよ!」
「どうして! 大樹さん、保護者になるでしょ、学校で」
「あ……」
「なにも考えてなかったの?」
「……まだ早いかなって……引っ越しして間もないし。第一言いづらくって」
「戸籍の父親の欄も入れなきゃならないし、住民票だって」
「他になにがあるの?」
「あのね!」
ここでスパルタになる必要があると汐は鬼となった。
「パソコン貸すから。自分で調べてリスト化して。プリントアウトして終わったことをチェックしていくこと」
「一緒に」
「俺、まだ熱があるから。もう寝る。お休み」
そう言って目を閉じてしまった。
(こうでもしなきゃ何も考えない。為せば成る!)
大樹は汐のパソコンを持って、すごすごと二階に上がって行った。