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深水家の Three Men  作者: 宗田 花
たとえ明日が来なくても
6/35

 軽食を作ってベッドに持っていくと、昌はもう眠っていた。トレイを持ったままそっと下に下りる。

「食欲無いのかい?」

 突然の声でびくっとした。

「ああ、驚いた! 落とすとこでしたよ」

「ごめんごめん。俺は君を驚かせてばかりいるね。食材を持ってきたんだ。2人分だからメモに書いてあるよりちょっと多めに持ってきた」

「あ、すみません。食費」

「いいんだよ、家庭教師代の一部、そう思ってくれれば」

「ありがとうございます」

 買ってきたものを冷蔵庫にしまいながら大樹が言葉を続ける。

「どうかな、昌は教えがいがあると思うんだ」

「ありますね! すごいです、吸収力が」

「もっと遊んでいいくらいなんだけど本人は……無駄な時間を過ごしたくないんだろうね」

 それにはなんと答えていいか分からない。

「花火を持ってきたんだけど、子どもっぽかったかな」

「あ、いいと思います! きっと喜ぶ」

「君、花火好きだろ」

「分かります?」

「昌より君が喜びそうな気がするよ」

 ちょっと赤くなった。確かに花火が大好きだ。

「眠ってるんだろう?」

「はい。やっぱり疲れたみたいで」

「ちょっと昌を覗いていくよ」

 二階に上がる大樹について上がった。

(ずっとこんな風に寝てる昌を覗いて来たのかな)

昌も切ないが、大樹も切ない。そんな思いに包まれた。


 穏やかな寝顔に大樹はほっとしたらしい。

「寝てると憎まれ口を聞かなくて済む。まったく人の顔見ると」

 その時昌の寝言が聞こえた。

「ひろ……すき、ひろき……」

 大樹の固まった様子を見て汐は説明をしようとした。夢に見て『すき』と言えば、たいがい恋愛の対象としてだ。

「実は昌、大樹さんのことを本当はずっと大好きで憧れてて」

 振り返った大樹は真っ青になっている。

「大樹さん?」

 汐の声も耳に入らない様子で、大樹は突然部屋を出て行った。そのまま階段を下りて出て行こうとする大樹の背中を追った。

「大樹さんっ」

 熱くなった砂浜を足速に歩いていく大樹に走り寄った。

「待ってよ、大樹さん!」

 大樹の腕を後ろから掴む。

「どうしたんですか、急に!」

「いられない、あの子のそばには……だめだ、こんなの」

「どうして、」

 ぐるっと振り返った大樹は我を失ったように叫んだ。

「俺の子なんだ!」

「なに言って」

「俺の、俺の息子なんだ、昌は」

 大樹は熱い砂に膝を落とし、両手に顔をうずめた。呻くように言う。

「俺は……昌の……」

「そんな……」

「綾子さんは……愛のない結婚に疲れていた。長女の梢恵(こずえ)ちゃんの家庭教師だった俺は……」

 後は言葉にならなかったがその意味するところは分かった。

 大樹はハッとして顔を上げた。

「おれ、今なにを」

「昌が大樹さんの息子だって。言いませんから。昌には言わないから」

 大樹の呆然とした顔に、汐は何度も繰り返した。


 汐はやっとの思いで立ち上がる大樹に手を貸した。

「どうかしてる、あんなこと口走るなんて」

 呟く大樹が頼りなげで、一人ぽっちに見える。

「なんでこんな歪な関係になったんですか」

 大樹は肩を落として、内ポケットから出したサングラスをかけた。

「あ……すみません」

 昌は母親似と言っていた。大樹に似ているところはほとんど感じられない。

 まさか父とは知らず、大樹に振り向いてほしいがために母のように髪を伸ばしている昌……

「そうだね。この上なく歪な関係だ、俺たちは」

「昌のお父さん……すみません、高遠さんはこのこと」

「知ってるよ。だから俺に昌の面倒を見させてる。これはね、復讐なんだ、高遠さんの」

「憎んでるのに昌を引き取って育ててるんですか?」

「……頼んだ、土下座して。彼女は……自殺したんだよ。救急車で運ばれた彼女は助からず……帝王切開で昌は生まれた」

「どうして……昌を高遠さんに?」

「生まれた時には心臓が悪かった……学生の俺に何が出来る? あの子を引き取ったって手術代どころか生活費だってままならない……俺は頭を下げ続けるしかなかった。そして今はこの通りさ」

 自嘲、というより疲れて聞こえた。昌が生を受けてから今のこの瞬間まで、自分を憎悪する男に息子を託してきたのだと思うとその悲惨さに言葉も出てこない。

「俺は……」

 言い淀む大樹を見て、ずっと誰かに聞いてほしかったのだと思う。この16年を全てを胸に秘めて大樹は一人過ごしてきたのだ。

「高遠さんに命じられて大学を出たよ。高卒なんかにうろつかれちゃ困るってね」

「大樹さん、いくつだったんですか?」

「俺? 昌が生まれた時に18だった。綾子さんはきれいな人だった……バカな俺は一時いっときの過ちで一つの命を作り出してしまったんだ。世間が見えてなかった……今、俺みたいなヤツを見たらきっと言うよ、お前には世の中ってもんがなにも分かっちゃいないってね。……死んだひとへの思いだけで生きていけると思っていた」

 無言になった大樹に話しかけることを躊躇った。だが昌の屈託なく笑った顔が思い浮かぶ。

『……言ってみようかな……どんな顔すると思う?』

「大樹さん」

 大樹はただ海を見ていた。

「多分だけど。昌は大樹さんに好きだって告白すると思う」

 口元が震えているように見えた。

「けど聞いてやって。そして笑ってやって、それは恋じゃない、ただの憧れだって。お願いです、そうしてやって」

「俺は……昌から離れた方がいいんだ」

「これ以上何を何を失くせばいいんだよっ、昌にはなにも無いじゃないか、大樹さんしか……昌を思う人はいないじゃないか……」

 波の音が苦しかった。変わらずに全てを飲み込むような波が。


 大樹と別れて別荘に戻った。分かってくれたと思う。約束はしなかったけれど、きっと昌を置いてどこかに消えるような真似はしない。それでは昌が悲しすぎる。

「どこ行ってたのさ!」

 入るなり昌の声を聞く。テーブルで怒った目をしてオレンジを食べている。

「起きちゃったのか。ちょっとそこまでぷらっと行ってたんだ、まだ寝てるだろうと思って」

「ドアの閉まる音で目が覚めた」

 思い返すと大樹の跡を追ってかなりの音を立てたような気がする。

「ごめん! うるさかったよな。そうだ、昼飯」

「ここに置きっぱなしのサンドイッチ食ったけど。俺のでしょ?」

「そう。冷蔵庫にしまうの忘れた。重ね重ね、ごめん」

「まったくだよ! ね! 花火見つけた。今日やろうよ!」

 やはり子どもだと思う。花火ではしゃいでいる……

「……大樹も呼んだらどうかな、って思うんだけど」

「え、なんで?」

 思わず問い返して、汗が噴き出しそうになる。

「浜で花火なんて、いい感じだと思わない?」

「いい感じって」

「汐が忘れ物したとか言ってさ、で、二人きりになった時に好きだって言ってみようかなって」

「本気なのか? 相手は大人だぞ」

 途端に口が尖った。

「どうせ俺、ガキだし。それに……今のうちに言いたいんだ……失恋したら汐、慰めてくれる?」

「もちろんさ! しょうがない、タオルで涙拭いてやるよ」

「あ! ホントに失恋すると思ってる!」

「思ってない、思ってない」

「嘘つき!」

(手術が成功すると思ってないんだ……だから打ち明けておきたい?)

なにも出来ない。どう助けてやることも出来ない。

(大樹さん……昌の気持ち、分かってやって)

 父親なのだから受けとめて欲しい、大人として。出来れば微笑んで『バカを言うんじゃない』と言ってやって欲しい……


 昌は日が沈むのを今か今かと待ち詫びている。

「どれを着ようかな」なんて言うから「夜の浜は真っ暗だぞ」と笑って見せた。夜が来ないでほしい…… こんなことを思うのは初めてだ。

 それでも日は無常にかげり、暗闇がひっそりと辺りを侵食し始める。少年の淡い夢のきらめきを包み隠すように。


 携帯に伸びる手は細くて白くて儚かった。

「大樹? 浜辺で花火するんだ。バケツに水汲んで持ってきて」

 言葉に淀みなどあるわけもなく。大樹はどれだけ自分を殺してきたのだろう。スピーカーから聞こえる声はいつもと同じだった。

『はいはい。仰せのままに』

「時間、あるよね?」

『あるよ』

「じゃ、俺と一緒に花火をすること」

『冗談だろ?』

「しなかったら帰んないから」

『脅しか? お巡りさんに言いつけるぞ』

「するの、しないの!?」

『しょうがない、付き合ってやるよ』


 知ってしまったから……汐は自分が泣きたくなった。

(俺は今21だ……18から? そんな、無理だ、俺なら無理だ)

若く希望に包まれるべき時代が過ぎていく、自分の横を、静かに。

(俺は見てるしか無いんだ、ただの行きずりの友人だから)

 父の声を聞きたい、唐突にそう思った。父ならどんなアドバイスをくれるだろう……何を言って自分を慰めてくれるだろう。

(情けない、俺は自分の気持ちしか優先してない)

 かと言って、このまま二人のそばを立ち去るのは怖かった。悪いことが起きるようで。

「昌!」

「なにさ、いきなり大声で」

「俺、昌の手術が終わるまでそばにいるから」

「家庭教師で来てくれるんでしょ?」

「それだけじゃなくって。毎日行ってやるよ、病院」

「ホント!?」

「うん。パソコン、やったことある?」

「無い」

「教えてやるよ。小さいパソコン持ってるんだ。B5だからベッドの上でも楽だと思うよ。通信しなきゃ大丈夫だと思う」

「うわっ、やったっ、いいの? ホントに」

「任せとけ。得意だからさ」

 父を手伝っていつも触っていたパソコン。

 なにかしてやりたかった。偽善と言われてもいい、ただそばにいてやりたい、そう思った。優しさなんかじゃない、もっと別のもの。大切にしてやりたかった、壊れないように。



「夜の海っていいよね」

「一人で来るなよ、足元が見えないんだから」

「でも」

「来たかったら俺に言うこと。一人になりたいとかだったら離れたところにいてやるから」

「汐ってさ、世話好きだよね。ちょっと前に出会ったばっかりなのに」

「やることが……無いから。急ぐ用も無いし。困る?」

「違う、そんな風に思ってないよ」

――ざっざっ、と音がした。

「バケツが来た!」

「なんだと? 帰ってもいいんだぞ」

「なんだよ、大人げないよ」

「都合が悪いと大人扱いか?」

 慣れっこなのだろう、別に怒った口調じゃない。


 花火はパチパチと賑やかな音を立てて明かりを振りまいた。シュウシュウと煙と共に弾ける火花。昌をちょっと遠くに離れさせてロケット花火を波に向かって打ち上げる。飛んでは消える火は、本当に花が散るようで。

「もう半分も無いや」

「花火は俺も久しぶりだな……」

 それまでほとんど口を利かなかった大樹がぽつんと言った。

「大樹が最後にやったのっていつ?」

「……17の頃」

「へぇ! もっと子どもの頃かと思った」

「花火を好きな人がいてね……楽しかったよ、あの頃は」

「今夜は? 俺とやっててつまんない?」

 返事は返らない。ゆらゆらと危ないシーソーの上を行ったり来たりする昌……

「……あ、汐」

「なんだ?」

「俺、テーブルの上に濡れタオル置いてきちゃった!」

――ズキッ と胸が痛んだ。

「なに、俺に取りに行けって?」

「ごめん、いい?」

――ズキッ と心が痛んだ。

「……大樹さん……昌をお願い」

「いいよ、慣れてる」

 もう一度『お願い』と言いたかった。汐は振り返ることも出来ず別荘へと向かった。


 テーブルの上にはちゃんと濡れたタオルが置いてあった。椅子を引いて座る。そのタオルをじっと見つめた。

 今頃どんな会話をしているだろう。頬を染めた昌は告白をするのだろうか。大樹はそれをどう聞くのだろう。考えたくないのに次々と形をなさない薄いブルーがかった思いが湧いてくる……

 5分もそうしていただろうか。タオルを持って立ち上がった。後ろ手にドアを閉めて、やたらまたたく空を見上げた。月はなんの感銘も寄越さずただ光を投げて来る。星が遠い。


 浜に向かってゆっくり歩いた。もし話をしていたとして、肝心なことは終わっているはずだ。きっと昌は沈黙を保てない。若さが、残り少ない可能性がそれを許さない。


 走って来る足音が聞こえた。昌だと思った。横を通り過ぎようとする影を咄嗟に腕に捉まえる。

「だめだ、走っちゃ」

 それだけで分かった、告白をした昌を大樹は拒否したのだと。

 荒い息の昌の足は止まろうとせず、まるで地団太を踏むようにそこでバタバタと音を立てた。

「放して、よ」

「昌」

 その細い肩を抱いた。

「ふ、ふ、ふぇ……ぇ、ぇ、」

 叫ばず震えるように泣く昌が愛しい。ただ抱きしめた、冷たく見つめる月の下で。


 磯に行った。

「ほら、気をつけて」

 握った手を放さずに階段をそっと下ろした。あの後発作を起しかけた昌の口にニトロを入れた。落ち着いても、どうしても帰りたくない、という昌を連れてここに来た。

 置き石に座らせる。少しの風が昌の髪をなびかせていた。座っても手を握ったまま時間を過ごした。

「波の音ってさ」

「ん?」

「おいでって言ってるみたいで……怖いね」

「昌は行かないよ」

「……行くかもしれないよ」

「行かないよ」

「そんなの! ……分かんないじゃん」

「行かない。ベッドの上で退屈してる昌にパソコン教えるんだからさ。俺はいやってほど見舞いに行く。だから昌は行かない」

「…………」

 しばらく波の音を聞く。連れて行かれないようにと手を握りしめて。

「あのね」

「うん」

「大樹に……言ったの、好きだって。なのに笑うから」

「うん」

「ホントに好きなんだって言った」

 汐は聞いていた。そうか、笑ったのか。良かったと思う。本気で受け答えしないでくれた。

「頭……撫でられたからその手を叩いたんだ。ませガキって言われた。全然本気にしてくれなかった」

 少しくぐもったような声だから、多分下を向いているのだと思う。けれど昌を見なかった。

「真面目に言ってるんだって、そう言ったんだ、だから真面目に聞けって」

「大樹さんはなんて?」

「ありがとう、って。オムツ取れて……『ひろ、ひろ』って追っかけてきた子が……こんなおませなことを言うようになったのか、って。最近嫌われたかと思ってたから……嬉しい、って」

 昌はこてん、と汐の腕に頭をつけた。

「俺、ガキ? ただのませガキ?」

「いい男になるよ、昌は。大樹さんに『しまった』って思わせるほどいい男になる」

「……なれるの、かな……」

「なるさ。そして大樹さんに言ってやれ、『もう遅い』ってさ」

 静かになった昌の呼吸が徐々にゆっくりになる。

「寝たかい?」

 上の方から大樹の声がした。

「はい」

 下りてきた大樹は昌を横抱きに抱えあげた。


 別荘への道を辿った。汐は先にドアを開けて大樹を通した。階段を軽く駆け上がり、ベッドを整えてやる。横になった昌の目じりには涙の痕があった。

 大樹がその頭を撫でる。汐はその手が親の手に見えた。父親が息子を撫でる手だ。

 肌掛けの下でわずかにもそっ動いた昌は左側を向いた。大樹がふっと笑う。

「子どもの時から俺の左側で寝てたからね。癖なんだよ、左に寄って寝るのが」

「コーヒーでも、飲みませんか?」

「……いや、今日はやめとこう」

 出て行く大樹を見送るために外に出た。

「ありがとうございました」

「なんで君が?」

「言いたくて。昌、ちゃんと泣きましたよ。だから大丈夫だと思います」

「そうか……俺が礼を言いたい。君のお陰で大人でいられた。ありがとう」

 差し出された手を握る。

「おやすみ」

「おやすみなさい。鍵は僕が中からかけますから」

「うん。じゃ、また」

 背中が見えなくなるまで見送った。

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