26.惜別
「え、本気!?」
『本気だとも。真剣に考えてくれ。家のためにもいい返事を待っている』
ダンテは切れた電話をじっと見ていた。フィオレが気にして声をかける。
「兄さん、なんですって?」
少し無言が続いて、ダンテは兄からの話をフィオレに告げた。フィオレは両手で口を覆った。言葉が出ない。ダンテは呆然としたままだった……
それから二日、ダンテは汐の所に来なかった。
(また風邪か?)
隣に行ったものかどうか、と迷いつつ、汐はダンテの好きな葡萄を買って霧島家を訪れた。
「まぁ、Ushio! いらっしゃい、久しぶりね!」
ダンテにはしょっちゅう会っているが、フィオレに会うのはダンテが寝込んだ時以来だ。
「これ良かったら食べて。葡萄だから」
「わ、嬉しい! いただくわ。どうぞ中に入って」
リビングに通されてソファに座った。
「コーヒー淹れて来るわね」
「ダンテは?」
「Ushioのところに行かなかった?」
驚いたようにフィオレが言う。
「いえ、来ないからまた寝込んだのかと思って」
「……待ってて、コーヒーを持ってくるわ」
フィオレの様子から何かあったのだと思う。
自分の分も持ってフィオレは座った。どうやら長い話になりそうだ。
「ごめんなさい。てっきりUshioのところには行ったんだと思ってたの。きっとなんて言えばいいのか分からなかったのね」
「何があったんですか? ダンテ、いないんですか?」
「今ね、イタリアに帰ってるの。多分しばらく戻れないんじゃないかと思うわ」
ダンテが自分に何も言わずにそんなに長くイタリアに行くなんて…… ダンテとの関係を変えるつもりが無くても、それはおかしいと汐は思った。
「なにかあったんですね? 俺が聞いてもいいようなことですか?」
「ええ。実は父が……倒れたの。会社で」
「え」
「幸い発見も早かったし、お医者様の処置が良かったから大事には至らなかったんだけど」
「それで!? 本当にお父さん大丈夫なんですか!?」
ダンテの父はイタリアでは成功している実業家だ。60を越えてはいるがまだまだ働き盛りと言っていい。
フィオレは首を横に振った。
「もう事業を続けることは出来ないの。ジェラルドが副社長だから事業を継いで社長になるのよ」
子どもたちは五人。長兄のジェラルドが一緒に事業を手伝って、長女は結婚。フィオレが四朗と結婚し、次男のコルラードは画家だ。そして末っ子のダンテがこの日本に来た。
「それで、ダンテにイタリアに戻って自分の手伝いをしてほしいって」
突然の話に汐も声が出なかった。
「こんなことになるなんて…… 私も明日、Shiroとイタリアに帰るのよ。良かったわ、今日あなたに会えて」
「その……ダンテがお兄さんの後を継ぐ可能性って」
「ダンテしかいないもの。コルラードに事業なんて無理だわ。現実的な問題に向き合っていくタイプじゃないから。ダンテなら決断力も実行力もある」
確かにそうだろう。ダンテは実業家として適任者だと思う。あの押しの強さ、行動力。どれをとっても企業人と遜色ない。
「そうですか…… ごめんなさい、大変な時に来てしまって」
「ダンテ、あなたに言うのが辛かったのね。断って来るんだと言っていたけど。多分そうはならないわ。ダンテは家族思いだもの」
帰宅した汐は、遠い空の下の友を思った。
(ダンテ…… 辛いだろうな)
自分がどう思っているにしろ、この何年か越しのダンテが自分に寄せる思いは本物だと分かっている。応えることはできない。けれどこんなに早く別れが来るとは思ってもいなかった。イタリアに帰ることを言えなかったダンテの心が、突き刺さってくるような気がした。
「汐、ダンテは? 具合でも悪いの? それともケンカした?」
さらに二日、ダンテが姿を見せないことで昌も心配し始めた。大樹も気にはなっているが、二人の間にどう立ち入ればいいのか分からずにいる。
「ケンカはしてないよ。ごめん、早いけど休むよ」
まだ10時ちょっと。けれど汐は自分の部屋に入った。なぜか二人にダンテのことを話したくなかった。
(まだダンテの結論を聞いたわけじゃないし)
そう自分に言い訳をする。
フィオレの言った通り、結果は分かっている。ダンテは家族の願いを断れないだろう。倒れた父と、社を背負った兄。これまでわがまま放題をしてきたダンテが自分を甘やかすとは思えない。
汐は大学入試用の問題集を見た。二人で受験を目指して解いていたあの日々。唐突に終わりが来たことで心に隙間風が吹く。自分はまだ今の状態を続けたかったのだ。そのことを痛感した。
(俺は……ダンテを生殺しにしたまま今の生活を楽しんでいたんだ)
自嘲とも違う。なぜなら真実だからだ。ダンテが消えないからこそ、邪険にしつつもやりたいように振舞える時間が気に入っていた。
もう一度日本に来るだろう。大学の手続きもあるし荷物の手配もある。
(その時はダンテに誠実に話そう。どんなに離れても……もう会うことが無くても俺たちは親友だ、そう話そう)
不思議なものだ。もし自分が女性ならダンテを選んでいただろう。けれどそうだったらダンテは自分に見向きもしなかったろう。
(こればっかりはどうしようもないんだ、ダンテ)
汐は初めてダンテに済まないと思った。
次の週の水曜。昼食後の洗い物をしている時にチャイムが鳴った。
「はい」
応えてドアを開けた。
「ダンテ!」
「やぁ、入っていいか?」
ダンテらしくもなく断りが入る。
「もちろんだよ! いつ帰ってきたんだ?」
「さっき。荷物を置いてすぐに来た」
「そうか。コーヒー飲むか?」
「ありがとう、もらうよ」
いつもの覇気が無かった。それだけでもう結論は分かった。後はダンテの口からそれを聞くだけだ。
淹れたコーヒーを持ってリビングにいく。口を開かずにいるダンテに汐の方から口を開いた。
「フィオレさんから聞いてる。お父さん、どうだった?」
「リハビリ始めたよ。でも喋るのが……言葉が出て来るのに時間がかかるんだ」
「そうか……みんな大変なんだろう? 特にお兄さん」
「ジェラルドは頑張ってるよ。でも、心積もりも無くいきなりの事業責任者だからね、頭抱えてる」
そこでまた間が空いた。ダンテが決意をした目で汐を見た。
「俺、イタリアに帰ることにしたよ。好き勝手してきたからね、家を助けないと」
「いつ?」
「いろいろ後始末して支度が出来次第……多分土曜には」
「そんなに早く!?」
「うん。今手が必要なんだよ。会社にはやり手が多いからジェラルドとしては地盤固めをしたいんだ。俺もいくらかは役に立てると思ってる」
「ダンテならやっていけるよ。それだけの力があるって信じてる」
「Ushioにそう言ってもらえると頑張れそうだ」
冷え始めたコーヒーを飲んだ。互いに無口になりそうになる。
「落ち着いたら……たまにはこっちに来いよ。きっと昌が寂しがる」
「Ushioは? Ushioは……」
「決まってるだろ! 俺も寂しいよ。一緒に大学受験をするって話……俺、いつの間にか楽しんでた。ダンテ、ごめん。気持ちには応えられないのにお前と一緒にいる時間は心地よかったよ。中途半端な真似して悪かった」
ダンテの唇が震える。
「俺、本気だったんだ」
「知ってる。でも俺には、俺にとってはお前は最高の親友なんだ」
「……それ以上にはなれない……?」
汐はきっぱりと首を振った。ダンテの思いを断ち切ってやらなくちゃならない。
「俺にあるのは友情だよ。お前以上の友だちはきっと出来ない。そう思ってる」
「親友、か」
「誰よりも俺のことを分かってくれてる、そう思ってるよ。そうだろ?」
「……分かってるよ。Ushioは最初から変わらない」
ダンテの動きは素早かった。腰が浮いて手を掴まれ、次の瞬間には頬にキスを受けていた。
「だ、だんて、」
「これくらいいいだろ? 親愛の証だよ。最高の友情をありがとう」
笑ってダンテは立ち上がった。
「これから大学に行ってくる。退学届け出さないと。土曜までは会えないと思う。空港……見送りに来てくれないか?」
「もちろん行くよ! 昌たちには俺から話していいのか?」
「頼むよ」
「分かった。土曜、一緒に空港に行こう。連絡待ってるよ」
「最後のデートだな」
いつもの陽気な顔を見せるダンテ。その目にはたくさんの愛情が溢れていた。
その夜、汐は昌と大樹にダンテのことを話した。
「イタリア!? え、じゃもうダンテは日本に帰ってこないの!?」
「難しくなると思うよ。お兄さんを助けて事業を軌道に乗せるんだから」
「汐くん……寂しくなってしまうね」
「……でもあいつの道だから。二年も俺のせいで無駄にしたけど普通で言ったらとっくにダンテは社会人なんだ」
「ダンテは無駄にしたとは思ってないよ。きっと充実した二年だったと思っている」
大樹の言葉に救われるような思いがする。
「そう、なのかな……あいつ、俺のことばっかり考えて……俺はあいつに何も応えられないっていうのに」
「それはしょうがないよ。異性ならともかく、ダンテが君に求めるのは特殊な愛だ。今世界ではそんな愛がどんどん認められているけれど、それでも心が決めることだよ。汐くんが悪いと言うわけじゃない」
後悔とは呼べないものだ。仕方ない、そう思うしか。
「汐とダンテ、どっちも間違ってないんだと思う。ダンテが汐を愛しちゃって残念だったけど、でもお互いに大事な相手って言う意味じゃ変わりないんでしょ?」
汐は頷いた。そうだ。大事な相手。かけがえのない親友。
「ダンテほどの友人が出来るとは思えない。俺たちの間の歴史を超える相手なんてもう見つからないって思うよ」
「そんな相手が出来るってすごいよ! 俺もそういう相手を見つけたい……愛と変わんない重さがあるよね」
「今日は昌はいいことばっかり言うよな」
「なんだよ、なんで汐が茶化すんだよ!」
汐が感情をむき出しにするのは、寂しさに包まれているからだ。苦しい時にはいつもそこにダンテがいた。発作を起こした時も、父が亡くなった時も、日和さんが亡くなった時も。常にそこにはダンテがいてくれた……
「後から気づくもんなんだな……かけがえのない相手だったって。俺は……ダンテを愛せないことが……辛いって思う。そういうんじゃないんだ、俺たちの間って」
「分かってるよ。汐くん、分かっているから」
いつの間にか汐の頬は濡れていた。亡くなった相手との別れ。生きていて、どうにもならない別れ。
「いつかイタリアに行こう。こっちからダンテに会いに行くんだよ」
「それ、いい! 汐ならすぐにイタリア語覚えられるでしょ? イタリアに行ってダンテを驚かしちゃえばいいんだ」
頬を濡らしたまま、笑顔が浮かぶ。
「そうだね。二度と会えないって思わないで、会いに行けばいいんだ」
「そうだよ! きっとダンテ、大喜びするよ!」
金曜の夜はダンテのためにパーティーとなる。汐は、ダンテが好きだと言ったスーツを着て行こうと思っている。
(最後にダンテの喜ぶことをしてやりたい)
キスは無理でも、暗い顔を見せずに笑顔を見せ続けたい。
パーティーでは笑い声が絶えなかった。ダンテが嫌う、そう思うからこそ、大樹も昌も汐の意を通した。
「イタリアじゃ男も女も押しが強いだろ? 日本人が恋しくなるんじゃないか?」
「あら、Ushio、イタリアにも奥ゆかしい女性はいるわよ」
「あ、ごめんなさい、フィオレ」
今日の汐は珍しく酔っ払っている。
四朗も来ていた。四朗は日本人だかイタリア人だか分からないような人間だ。豪快に笑いながら汐にワインを注ぐ。
「Shiro、もうUshioは飲み過ぎだから」
ダンテが心配するが四朗は気にも留めない。
「それなら泊っていけばいい、お隣さんなんだし。なぁ、汐くん」
「そうさせてもらおっかな。ダンテ、飲み明かし付き合えよ」
「俺はいいけど……Ushio、その辺にしとけよ、お前酒強くないだろ?」
ダンテが甲斐甲斐しく汐の心配をしてグラスを取り上げようとした。けれど汐は自分でワインを注いだ。
「お前の門出だ、祝い酒ってやつだよ」
そう言ってまたグラスを飲み干す。ダンテに目配せされて、大樹が酒を取り上げた。昌がいたずらっ気を出す。
「そんなに美味しいの? 俺も飲んでみていい?」
「だめだ」
即座に汐と大樹が揃って声を上げる。
「分かった……飲むのはここまでにしとくよ」
やっと汐の自主規制がかかり、ダンテはほっとした。酔い潰れた汐を押し倒してキスを奪うのもいいだろうが、ダンテとしてはそんなキスに価値はないのだ。
ご馳走も育ち盛りの昌が食べるからあらかた片付いて、フィオレは感激していた。
「Ushio、明日見送り来てくれるんだよな」
「もちろん行くよ。お前一人で行くのか?」
「フィオレはまた来月親父に会いに行くから。明日は俺一人だ」
汐は大樹と昌に振り向いた。
「俺……明日なんだけど空港に一人で行ってもいいかな」
「一人で?」
「え、俺たちは?」
「ごめん。明日二人にしてほしいんだ」
ダンテの目が輝く。これはどういう風の吹き回しなのか……
大樹が昌の肩に手を置いた。
「昌、そうしよう。二人の間には長い歴史があるんだ。二人きりにしてあげよう」
昌は不服そうだったが、頷いた。
「じゃ、ダンテ。また日本に遊びに来るよね?」
「落ち着いたらね。来るよ、Akira。ありがとう」
「うん。俺、待ってるから」
「ダンテ、俺も待ってるよ。君のお陰で普通にない体験をさせてもらった。感謝してるんだ」
「あ、あれは……その、ごめん、俺考えなしだったと思ってる」
大樹は手を振った。
「とんでもない! 俺には有難かった。本当だよ、ダンテ」
フィオレがにこにことみんなを見ている。
「ダンテ、いいお友だちがたくさん出来て良かったわね」
「Ushioのお陰なんだ。Ushioがいたから…… な、Ushio、la mia Amore、せめて最後にbacioを!」
(愛しい恋人、せめて最後に口づけを)
「汐くん、私からも頼むよ、最後なんだし」
「四朗さんっ!」
体格のいいダンテから抱きつかれてジタバタする汐を見てみんなが笑う。
「最後までつれないなぁ。ま、そこがUsioのいいとこなんだけどさ」
ダンテから解放された汐がダンテの鼻を弾いた。
「いてっ」
「この、ばかダンテ!」
いつものやり取りでパーティーが終わったことが、汐にもダンテにももの悲しかった。
汐の運転する車でダンテは空港に向かった。車の中では高校生活での馬鹿っ話で二人盛り上がる。
「お前、俺の名前を大声で連呼しながら廊下を走ってきたよな」
「あの時は本当にお前が倒れたんだと思ったんだよ」
「あれ、木下のおふざけを真に受けたんだろ?」
「そうだけどさ。『ミス・蒼涼』がお前の介護をしてるなんて聞けばそりゃ走るさ!」
「お前教室に飛び込んでくるなり、『Ushioは俺のものだ!』なんて叫んで抱きついたからしばらく俺はえらい目に遭って」
そうなのだ。あれが最初だった、ダンテが汐に愛を表明したのは。その後、汐がどれだけ大変な思いをしたか。それなりに有名な汐と、目立つからやはり有名だったダンテが恋人! そのセンセーショナルな噂はあっという間に校内のニュースを掻っ攫ってしまった。職員室には呼び出されるし、汐にしてみればまるで嵐のような一ヶ月だった……
「あれから俺の人生は狂ったんだ」
言葉の割には汐の口調は笑いを含んでいる。
「悪かったよ。あれは行き過ぎだったと今の俺は思ってる。もっと密やかに愛を育めばよかった」
「なに言ってんだよ! 育つわけ無いだろ、そんな愛」
しばらく車の中が静かになる。ダンテが口を開いた。
「どうして今日は二人でって思ったんだ?」
「……仮想の恋人だけどそれなりの礼を尽くそうと思ったんだよ。昨日の俺は相当酔っ払っていたらしい」
「それでも嬉しいよ。こうやって二人になれる時間なんてもう無いんだと思ってた。……勉強頑張れよ。Ushioならきっと大学受かるよ」
「お前は? 大学どうするんだ?」
「向こうで事業の合間に大学に通う。大丈夫、飛び級制度を利用するから卒業なんてあっという間さ」
確かにそうだろう。ダンテはこの上なく優秀なのだ。
「経営学を受けるんだろ?」
「そうなるね。仕方ない、親父もそれを望んでるし。申し訳なさそうだったよ。俺は自由にやらせてもらうことになってたからね。降って湧いたような交代劇だからさ、今が肝心なんだ」
「お前も大変だ」
空港に着いた。不思議なものだ。この空間に入っただけで、もう日本じゃないような気がするのだから。
時間いっぱい二人は無言で過ごした。思いが溢れて言葉にならない。もうじゃれ合うことは無いのだ。
「……ダンテ」
「……Ushio」
同時に口が開く。汐は俯いた。ダンテはくすっと笑って汐の顎を指で押し上げた。視線が絡まる……
ダンテは汐を抱きしめた。小さく囁く。
「愛してるよ、Ushio……遠く離れても俺は変わらないから。また会おう」
汐も今日ばかりはダンテを押し返さない。
「ダンテ……お前はいつまでも俺の大事な親友だ。忘れたりしないよ、お前のこと」
離れる瞬間、ダンテは汐の頬にキスをした。真っ赤になった汐は自分の顔を慌てて腕で隠した。
「ばっ、ばかっ」
「ははっ、またな、Ushio!」
身を翻してダンテは歩き出した。汐は大声で叫んだ。
「ダンテ!」
ダンテが振り返る。
「頑張れよ!」
大きな笑顔…… ダンテは大きく手を振って去って行った。




