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深水家の Three Men  作者: 宗田 花
深水家の Three Men
31/35

24.進学の心構え


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

三者面談のお知らせ


保護者様

皆さまには益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。

日頃より本校の学校教育活動にご理解ご協力をいただきまことにありがとうございます。

 さて、このたび三者面談を行いますのでお知らせいたします。

 お忙しい中とは存じますが、万障お繰り合わせの上、おいで下さいますよう、よろしくお願いいたします。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「これって……」

「父さんと俺と担任とで将来について話するってこと」

「将来……まだ早すぎるんじゃないか?」

「なに言ってんのさ! どの家だってその話で持ちきりみたいだよ。進学塾に行ったり、そういう専門誌買ったり」

「だって昌はまだ高2じゃないか!」

 昌は諦めたように肩をすくめた。

「俺、汐に面談に来て欲しい」

 夕食時だ、汐も一緒にいる。思わず汐は吹き出しそうになった。

「なに言ってんだよ、しっかりお父さんと相談しなさい」

「だってその父さんがこんなじゃ」

「昌っ、『こんな』ってなんだ!」

「汐くん、怒らないで、俺が悪いんだから。俺、そういう面談って知らないんだよ。昌、ごめん、行くよ」

「父さんは受けたこと無いの?」

「無いよ」

「なにやってたのさ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんって」

「……6年生の時に亡くなったから……」

 昌は箸を置いた。目を伏せる。

「……ごめんなさい」

「いいんだよ、昌は知らないんだから」

「俺……そう言えばそういうこと聞いたこと無かったね、父さんの家のこと」

「たいした話は無いんだ。小学校6年の時に家が火事になってね、それで俺だけが助かった。でも叔母さんのところに引き取られて育ったからそれほど苦労してないし」

「でも面談には来てもらえなかったんでしょ?」

「それは……」

 どう説明すればいいのか。自己主張の激しい子どもが二人いて、叔母はてんてこまいだった。自分はもう6年生だ、立場というものが分かっていたし、世話になっている意識もあった。なるべく面倒をかけたくないから勉強も頑張って、バイトも頑張った。

 そして家庭教師をしながら綾子と知り合った……

 途中の話をかなり端折はしょる。

「そんなに苦労して無いんだ。いい家族だったから俺は自由にさせてもらったよ。だから大学にも入れた」

「国立でしょ?」

「まぁ…… 勉強の他に趣味も対して無かったからね」

「……父さんの話、どっか変だ……なにかあったんでしょ? 辛いことあったから、だからこういう手紙もその叔母さんって人に見せられなくって、だから父さん、一人ぼっちで」

「昌、嘘は言ってないよ。担任の先生も良く事情を分かってくれてて、だから必要なかったんだ」

 汐には嘘だと分かる。だからと言って保護者面談をしないわけがないと。けれど自分が追及していいとは思えない。

「昌、話が逸れてる。大樹さん、面談には行った方がいいと思うよ。今の進学制度ってどんどん状況が変わってきてるし、親も知識を蓄えておいた方がいいと思う。結構大変なんだ、話についていくのって。父さんもしょっちゅう零してたよ、なんてめんどくさいんだろうって。ご馳走さま!」

 汐は立ち上がると茶碗を台所に持って行った。この先は父子の話だ。


  

 昌の担任は初老の面倒見のいい芦田という男性だ。ちょっと押しが弱いところがあるが、公明正大で純朴な教師である。

 廊下には椅子が並んでいて、数人の親子が来ていた。大樹が頭を下げると向こうも丁寧に下げて来る。父親もいたが、やはり圧倒的に母親が多い。みな、大樹に何度も目を向けるからちょっと居心地悪くなってくる。

「父さん、注目浴びてるね」

「昌!」

 小声でのやり取りだが、決まりが悪い。


 大樹たちの前に入った親子が出てきた。

「仁科さん、どうぞ」

 中から芦田が呼んだ。

「お世話になります」

「こちらこそ」

 挨拶をしながら座ると、芦田が大樹を見て、ほぉ、という顔をした。会ったのは入学式以来で、入学式ではその他大勢の内の一人だから実質初めての出会いとなる。

 芦田はすぐに調査票に目を落とした。

「仁科くんは進学を希望しているね」

「はい」

「具体的にどの大学と決めているのかな?」

「いえ、まだ」

 芦田は大樹を見た。

「お父さんはどう考えていますか?」

「私、ですか。昌が決めることを優先してやりたいと思っています」

「じゃ、進学をご希望ということで?」

「はい」

「それでしたらね」

 芦田は脇に置いてある大学一覧の冊子を見せた。

「志望校が決まっていないならこういった本を参考にすることをお奨めします。いわゆる専門誌というものですね」

「あの」

「はい」

「もう今の時期からそこまで考えた方がいいんでしょうか」

 小学校から心臓病のせいでひっそりと生きてきたのだ。大樹としては、昌に充分に学生生活を楽しんでほしい。

「早すぎると言う考え方もありますが、志望校を設定してしまえば落ち着いて勉強できるというメリットもありますよ。仁科くんは成績がいいからそう苦労しなくても済むかもしれませんが、周りのラストスーパートは油断できませんからね」

「部活はいつ頃まで参加できるんでしょう」

「その部活によりますが、まぁ、三年の前半くらいが平均的でしょう」

 そうなるとあと一年しかない。

「父さん、俺平気だから」

「でも」

「お父さん、大学に入ってからのんびりすることもできますよ。志望校によっては三年になってからでは遅いかもしれません。仁科くん、インターネットでもいろいろ調べられるし、出来れば将来やりたいことと志望校を結び付けられるといいね。お父さんもその方向でよく話を聞いてあげてください」


 帰り、大樹は口数が少なかった。

「いい先生なんだよ。結構親身になって考えてくれるし。父さんはいやだった?」

「え、そんなんじゃないよ」

 余計な心配をさせたと思う。

「そうじゃなくて……昌、やりたいことあったらうんと楽しんでほしいんだ」

「俺、スケートもさせてもらってるし、部活も楽しんでるよ。大丈夫だよ、父さん」

 父親として大樹を認めた頃より、昌にはずっと大樹の存在が大きくなっていた。なによりもいつも自分のことを大事に考えてくれている。

「父さん、俺さ、楽しんでるよ、毎日。彼女だって出来たし親友も出来たし、今最高なんだ! 大学のこと、真剣に考えるよ」

(いつの間にか大人になっていく……)

 頼もしくもあり寂しくもあり。もう巣立ちの準備をしているのかと思うと、大樹はもの悲しい思いに包まれた。


 

 出勤して朝の準備をしながらちらちらと進学用の参考本を眺めた。

(去年親子になったばかりなのにもう大学入試の心配か……)

抵抗を覚えつつも、帰りにその本を買って帰る自分の姿が見える。ため息が出た。

「どうしたんですか?」

 今日は正社員の藤川さんが休みなので、朝のシフトに後藤さんが入ってくれた。36歳。娘さんと息子さんとご主人の四人暮らしだ。とても教育熱心で、よく参考書などを買っていく。

「息子が高校二年生なんだけど、昨日三者面談があって」

 後藤さんの目がきらきらっと輝く。

「じゃ、大学入試の準備ですね!」

「ええ……まだ早いような気がするんです。でも本人がすっかりその気になっちゃって」

「いいじゃないですか! 受験を考えるのに早すぎるなんてこと、ないですよ! ウチは娘が中学受験なんです」

「中学生で? 私立に入るんですか?」

「はい。四年生の頃から受験勉強してます。進学塾も通ってるし、家でも遅くまで勉強してるんです」

「それって本人がその気になってるってことですか?」

「そうだと思いますけど」

 人の家庭や教育論に首を突っ込むつもりはない。けれどそれで子どもは幸せなんだろうか、とつい余計なことを考えてしまう。

「私ね、元教員なんですよ」

「え、そうなんですか!」

「育児休暇が終わって退職したんです。だから学校の教育体制が普通の人より良く見えるんですよ。共学の中学校なんてその他大勢の中に組み込まれてしまって、本人の力を伸ばすような場じゃないです」

「はぁ……」

「息子さん、そのつもりになってるんならうんと応援しないと!」

「応援、ですか」

「今どきのゼミでは『受験生を抱える保護者の勉強会』なんかを開く所もありますす。ゼミにはもう入られてるんですか?」

「いえ、まだ」

「じゃ、そこから考えないと! あちこちのゼミを親子で見学して回るといいですよ」

 これ以上聞いていると自分の頭がおかしくなりそうな気がした。昌のことを心から思っている。けれど、今聞いたことはそれとは相反するような気がして。

 開店の時間を迎えて、後藤さんとはそれ以上の話はせずに済んだ。

(今日本を買って帰るのはやめよう。まず昌と話をしたい)

昌がどうしたいのか。そこが出発点なのだと思った。


  

 夕食が終わり、大樹は汐にも話を聞いてもらいたいとリビングに残ってもらった。

「どうしたの? 深刻な話?」

 借金に関わる諸々の話は終わった。無事にホストの仕事も退職し、本屋の正社員になっている。汐にはみんなで話さなくてはならないほどのトラブルがあるとは思えない。

「昌の進学の話なんだ」

「父さん、それ俺が考えるから」

「担任の先生も親子で話し合いなさいと言ってただろう? 汐くんにいてほしいのは、現役大学生のアドバイザーとしてなんだ」

「アドバイザー?」

「俺の頃の受験事情とはだいぶ違っているからね、そこも知りたいんだよ」

 汐はちゃんと座った。父親が息子の受験で戸惑う姿を自分も見て来ている。

『まだ考えるのは早いんじゃないか?』

 そう、父も何度も言った。

「昌はまだ高校二年生だろう? もうすぐせっかくの夏休みだし、うんと楽しんだらいいと思うんだ。受験を考えるのは早くないかい?」

 せめてそれくらいは、と大樹は考える。

「昌は? どう思ってるの?」

「クラスの連中、進学塾に通っている子結構多いし。そういう意味ではちょっと焦る」

「自分も塾に行きたいっていう意味?」

「違う、なんかさ……乗り遅れてるっていうか……早くある程度決まってる方が気持ちが楽になるような気がして」

「そこなんだよ、俺が心配してるのは。周りからの影響だけでせっかくの限られた高校生活を楽しめないんじゃ」

「父さん。俺は安心した方が楽しめると思う。進学塾も考えたい」

「スケートは? 部活動は?」

 大樹は心配でたまらない。いくら心臓病の心配はなくなったとはいえ、まだ健康体と言えるほど、体は心に追いついているのだろうか。もうしばらく助走期間が必要なのではないのだろうか。

 汐が話す。

「俺ね、部活動もやったし、あれこれ委員会もやったけど充実してたよ。俺の父さんも大樹さんと同じだった。まだ考えるのは早いんじゃないかってね。俺は進学塾にはいかなかったけど、勉強は頑張ったよ」

「汐が志望校を考えたのはいつ頃?」

「そうだなぁ、夏休みが終わった頃かな」

 大樹は汐に話を聞いてもらって良かったと思った。これを聞いて昌が少し減速してくれるかもしれない。しかも汐は塾に通っていない。

「俺、自信ない。汐は特別だよ、なんでもやれちゃうし。俺とは違うんだ」

「そんなことないよ! 昌は頭もいいし考え方もしっかりしてると思うよ。大樹さんはどこが心配? 早すぎるっていうだけ?」

 大樹は思い切って自分が不安に感じていることを話すことにした。

「昌。俺は君の体が心配なんだ」

「体? え、心臓の他に俺、どっか悪いの?」

「違うよ。そういう意味じゃないんだ。君が手術を受けてからまだ一年経っていない。スケートや部活動を頑張ってるのは分かるよ。分かるけど……定期健診はまだ先だけど、夏休み前に一度検査を受けてみないか? 昌の体が凄く心配なんだ。このまま休憩も無しの学生生活に飛び込んでいいものか」

「俺、元気だよ! 今さら病院なんて行きたくないよ! そんな心配なら要らない!」

「昌……」

 汐には大樹が父親として心配する気持ちが分かった。小さい頃からただ昌の綱渡りの成長を見て来た大樹は、まだ安心することが出来ないのだ。

「俺、週末には塾を探す! 部活だってスケートだって辞めないから! 父さん、過保護すぎるんだよ!」

 それだけ言うと、昌は階段を駆け上がってしまった。

「昌!」

「大樹さん。これ、俺に任せてくれる? 大樹さんの心配する気持ち、よく分かったから。少し時間をくれないかな」

 大樹は汐に頷いた。今自分が無理に話してもきっと昌は聞いてくれない。


 ノックをしても返事が無い。

「昌、まだ起きてるんだろ? 返事くらいしろよ」

 声の主が汐だと分かってほっとしたらしい。ドアが開いた。

「なに? 父さんに頼まれたの?」

 ケンカ腰の声だ。

「違うよ。俺が話をしたかったんだ。入ってもいい?」

「……いいよ」

 昌の部屋が高校生らしくさっぱりしている。本箱はまだ半分くらいしか埋まっていないが、CDはたっぷりあった。

「大樹さんが心配してること、分かってるんだろ?」

「……俺のやりたいようにさせてくれる気が無いってことなら分かるよ」

「スケートだって部活だって反対なんかしなかったじゃないか。どうしたんだよ、急にそんなこと言うなんて」

「だって! 検査なんかしなくたって俺は元気だよ! もう心電図も注射も懲り懲りなんだ!」

「俺から見ても、ここんとこ昌は根を詰め過ぎてるよう見えるよ。だから親としては心配になって当然だと思うけど」

 昌は不貞腐れたようにぷいっと横を向いた。

(大樹さんは……学生時代を縛られて生きてきたから昌には自由に過ごさせてやりたいんだよな)

 けれどそれを説明することはできない。昌と高遠家との関係性を昌に深く知られたくないからだ。

「父さんは自分が満足したいだけなんだ。やたら過保護に俺を扱って」

「言い過ぎだぞ、昌」

 汐の怒った口調で昌は黙った。

「過保護で何が悪いんだ? これ、俺の想像だけど。大樹さんはどれだけ人に心配されたんだろうね。そう思わないか? 人の家にお世話になってどれだけ我が侭が言えたんだろう。大樹さんは……自由って言う意味を本当に大事にしてるんだと思う」

「……そう……かな」

 昌の声のトーンが落ちた。

「父親の心配、受け止めるべきだと思うよ。俺、一人になってから父さんに心配されてたことを思い出すんだ。『無理をするな』、良くそう言われてたこと」

 昌の視線が床に落ちた。検査はいやだ。しかし、父は自分に他の何を望んでいるだろう……

「……考えてみる」

「うん。考えて。これで昌が寝込んだら大樹さん、一生自分を責め続けると思うから」


 大樹は不安いっぱいの顔で階段を下りてきた汐を見つめた。

「考えるって。答え、自分から言い出すのを待ってあげた方がいいと思う」

 大樹が頷く。

「ありがとう。分かった、待つよ」

「俺はね、本当を言うと大樹さんの意見に賛成なんだ。俺から見ても昌は焦り過ぎてるように見える。でも今までの分を取り戻したいって言う気持ちも分からなくはないよ」

「俺は……昌を束縛してるだろうか」

「大樹さんが? そんなことないよ! 大樹さんはいい父親だよ、俺の父さんみたいに」

 大樹は微笑んだ。汐の気遣いが堪らなく嬉しかった。


 週末には昌は大樹と話し合おうという気持ちになっていた。

「父さん、この前のこと話したいんだけど」

「この前って、進学のことだね?」

「それもある。……父さんが心配する意味、冷静によく考えた。俺の嫌がることしたいわけじゃないってこと。反対してるんでもないってこと。だから……検査受けるよ。それで大丈夫だったら進学の相談に乗ってくれる?」

「もちろんだよ! ありがとう、昌」

「ありがとう、って……ごめん。父さんの気持ち分かってなかったよね…… 俺ね、忙しいけど今本当に楽しいよ。それは信じて」

 自分が出来なかった自由な学生生活。昌はそれを楽しんでいるのだと言う。大樹は涙が落ちそうになるのを堪えた。

「信じるよ。あんまり頑張ってるから……つい心配になってしまうんだ」

「うん。その気持ち、分かったから。俺も無理はしないように気をつける」

 少し昌が言い淀み、大樹の顔をしっかりと見た。

「ありがとう。いつも俺のことを一番に考えてくれて」

 ほろっと涙が落ちる。次々と零れ落ち始め、昌はティッシュを掴んだ。

「ほらもう! 泣かなくていいから」

「うん……うん」

 自分のために泣いてくれる父を好きだと思った。



「Akira、病院だって?」

 ダンテが鶏肉の下ごしらえをしながら汐を振り返る。

「うん、今大樹さんと一緒」

「なんともないといいね。どこか不安なとこあるの?」

「特に無いんだけど、昌が頑張り過ぎるから大樹さんが心配してるんだ」

「ああ……Akiraって猪突猛進だよな。見ててハラハラする時がある」

 ダンテがそう感じていたなんて不思議だ。ダンテこそ『猪突猛進』が代名詞みたいな男だ。

「お前が言うならよっぽどだな」

「だってあっという間だったろ? スケートだ、部活だ、初恋だ、それで今度は進学? 考えんの早いんじゃないの?」

「周りはそう言ってもねぇ」

 汐は洗濯物を畳んでいる。自分の分は引き取って、他のものは大きなかごに入れて階段に置いておく。

「Akira、焦ってんの?」

「うーん……周りの動きに合わせようとしてるかな。その方が安心出来るってさ。どうやら昌のクラスはガリ勉が多いらしい」

「ああ、煽られてんのか」

 昌のクラスは学年でもトップを争う成績上位者が多い。だからこそ昌も突っ走りたくなるのだ。

 ダンテは下ごしらえの済んだ鶏肉を冷蔵庫に入れた。

「お待たせ。行こうか」

 今日は図書館に行く日だ。帰ってきたらそのままキッチンに立って夕食を一緒に取るつもりでいる。

 汐はじっとダンテを見た。

「なに? 顔に何かついてる?」

「いや、お前も飽きないなと思ってさ」

「飽きない? 何が?」

「俺んとこ入り浸って、他に何かやることないの?」

「無いよ! 最高の生活だよ。3月までは休学してるわけだし。あ、どっか遊びに行きたい?」

 汐は立ち上がると参考書でポンっとダンテの頭を叩いた。

「いてっ」

「バカ言ってないで行くぞ」


 今年の梅雨は空梅雨で、7月は陽気に晴れ渡っている。

「水不足になるだろうな」

 空を見上げて汐が呟く。つられてダンテが空を見た。

「いい天気! デート日和だな!」

 すかさず飛び退く。汐の右足が上がっていた。



「仁科昌さま、五番診察室へどうぞ」

「はい」

 検査の終わった昌の背中に大樹が手を当てる。

「大丈夫だって。それに今日結果は出ないよ」

「分かってるんだけど」

 小さい時からそうだ。診察室に入る時には必ず大樹は昌の背中に手を当てた。誰もついてこない検査に昌が怯えていた日は遠い。それでも習性でつい手が上がる。

 診察室には主治医の常盤が座っていた。50代半ば。昌の初診からずっとこの医師が診てくれている。

「体重が増えたね」

「はい」

「いい傾向だね。身長も伸びた。血色もいい。今の生活状況がいいんだろうね」

 主治医の言葉に大樹はほっとした。

 検査で昌がいない間に、大樹が昌の状況を説明した。主治医にはなにもかも知っておいて欲しかったからだ。

「スケートと体操部だって? 特に変わったことは感じない? 疲れやすいとか」

「まだ体力が追いつかなくて。スタミナつけるのに頑張ってます」

「いいことだね。競技うんぬんより、昌くんの場合は基礎体力を上げることに専念する方がいいから。次の検査は9月だったけど今回早く来たのはどうしてかな?」

「そろそろ進学のこと考えなくちゃならないんですけど、詰め込み過ぎじゃないかって父さんが心配するから」

 常盤医師はペンを置いて昌に向かい合った。

「先生も反対?」

「反対とか賛成とかじゃなくてね。自分に縛りをつけるのはまだ早いような気がする」

「縛りって?」

「眠りたくなったら眠る。食べたかったら食べて、休憩したかったら休憩する。だらしない生活を送るっていう意味じゃないよ。君は入れ込むタイプだからね、普通の人よりも自分に厳しいだろう? 緩急つけた生活が望ましいんだ。分かる?」

「……分かる」

「結果は来週の水曜には出るからまたおいで」

「ありがとうございます」

 後ろに立った大樹が頭を下げる。常盤には感慨深い。幼かったこの患者にいつも付き添っていたのが実の父親だった…… それで良かったのだと思う。

「お父さんを大切にしろよ」

「はい」

 昌は立ち上がった。後は結果を待つだけだ。


 翌週の水曜日。思ったよりドキドキしている自分に、昌は驚いていた。

(なんだよ、いつもとおんなじだって!)

 退院してからの検査は、経過が良くなる一方だった。最初は一週間に一度。すぐに一ヶ月一度になって、なにか特別な注意を言われたことも無い。今は半年に一度でいいと言われたばかりだ。

「いきなり無理をしないこと」

 注意はそれだけ。汐もダンテも無理なストレッチはさせなかったし、その期間が充分過ぎてからスケートを始めた。最初の頃は初心者の練習ばかり。今、やっと普通に滑れるようになったところだ。

(無理なんかしてない。絶対大丈夫だから)

 けれど、結果を聞くのを前にして、自分が無茶ばかりをやってきたような気持ちになって来る。

(体操……始めたの早かったかな……)

(夜、もっと早く寝れば良かった……)

 どうも、今日はネガティブな発想しか浮かんでこない。

「昌、どうした?」

 大樹が敏感に気づく。なにしろずっと昌を見て来たのだ。

「ううん…… 父さん、結果大丈夫だよね?」

「それを確かめに来たんだよ。俺も大丈夫だって確認したいんだ」

「うん……」

 不安が募って来る。

(塾…… 結果が大丈夫でも夏休みはやめとこうかな)

 そんな気持ちが生まれ始めていた。元気だ、というだけじゃない、その状態を維持することの方がもっと大事なのだと分かってきた。父の心配が今は理解できる……


「仁科昌さま、五番診察室へどうぞ」

 昨日と同じ案内を受ける。中に入ると常盤が穏やかな顔を向けた。手元には検査結果が置かれている。

「結果から言うよ。全体的に特に変わったところは無かった」

 昌も大樹も大きく息をついた。二人ともいつの間にか息を止めていたのだ。

「心電図もしっかりしているし、血液検査でも何も出なかった。つまり健康体だね」

「先生! それって今の生活を続けていいってことだよね?」

 常盤は大きく頷いた。

「だからって、無茶をしていいってことじゃない。その違いは分かるね?」

「分かります」

「それが分かっていればいいよ。生活の基本、食べる、充分なインターバル、しっかりした睡眠。これを欠かさないこと。なにか不安を感じたらすぐに病院に来ること」

「はい」

「お父さんも安心されましたか?」

「はい! 本当にありがとうございます!」

「昌くんを大事に思ってくれる家族がいる。心配かけないように過ごすんだよ。次は半年後。待っているからね」

「はい!」


 会計待ちの待合室の中。

「俺ね、進学塾に行くの、夏休み過ぎてから考えることにする」

「いいのかい!?」

「夏休みはたっぷり遊ぶんだ。彩ちゃんと遊園地に行く約束もあるし、プール…… 俺、泳げないからダンテか汐に教わりたい」

「俺が教えてやるよ」

「父さん、泳げんの!?」

「もちろんさ! 俺でいいかい?」

「うん、お願い!」

「じゃ、帰りに海パン買って帰ろう。……浮き輪は買わなくていい?」

 からかわれていると分かって、昌が不貞腐れた顔をする。大樹は声を上げて笑った。

「嘘だよ、ちゃんと教えるから」

「絶対だよ! 彩ちゃんとプールにも行くんだ」

「彩ちゃんは泳げるの?」

「苦手だけど泳げるって。俺の方が上手になって教えてやるんだ」

「そうか」

 幼い恋に微笑む。彩はいい子だ。見知っている女の子だと言うことが、大樹に安心感を与えている。


 会計を終えて食事をし、海パンを買いに行った。

「こんなに小っちゃくてだいじょぶなのかな」

「伸びるから。心配ないよ」

 水に入るなんて初めてだ。海パンを見比べている手を止めた。

「父さん……」

「なんだ?」

「ありがとう。今日検査受けて良かったって思う。俺、今すごく安心してる」

「良かった、そう思ってもらえて。俺は……過保護だから」

「そんなことない! 汐に言われたんだ、『過保護で何が悪い!』って。そうしてほしいって意味じゃなくて、父さんの気持ち、よく分かったから。だから……ありがとう」

「昌……」

「あ、泣かないでよ! 俺、こっちにする!」

 昌は決めた海パンを大樹の手に押し付けた。大樹は微笑んで、自分の海パンも一緒にレジに持って行った。

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