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深水家の Three Men  作者: 宗田 花
深水家の Three Men
17/35

10.尾行

「行ってきます」

「行ってらっしゃい!」

「行ってらっしゃーい」

 ちょっとぎこちない朝であった。なにしろ、尾行などという犯罪まがいのことを企てている二人。朝の格好と出かける時の格好を変えなくてはならないと、服装を2パターン用意していた。

 サングラスを買うべきだ! という昌の好奇心的要求を蹴り飛ばし、帽子は? という言葉を却下。それでせめて服装を変えることになった。

 心がバタバタしたせいで汐は醤油を零すという失態をするし、昌はコップを割った。

 だが、そんなことは今日の出勤が憂鬱過ぎて大樹にはどうでもよく、たとえ二人が裸で目の前を行き来しても気づかないだろうというぐらいボケっとしていた。


 今日の大樹の出勤は、週一回の木嵜への業務報告が主だ。昨日、早速店からのアルマーニ尽くしで買い物に行ったのだが、その姿でのアルマーニ買い。大樹の頭の中がとっ散らかったのも無理はない。

(アルマーニのスーツに約80万……靴に43万、ネクタイ24万円、時計に40万、)

 この『時計』の存在が分からない。すでに店から時計は支給されている。

「フィオレ、時計はあります」

 これだけで12万ちょっと。なのに寄ったのはウォッチショップ。

「Hiroki、時計も着替えが無いと」

 時々フィオレは妙な日本語を喋るから『着替え』は無視したが、躊躇いも無くその美しい指が指したのが約25万円の代物。

「フィオレ! 時計は店の方で」

「私からのプレゼント、受け取らないっていう意味?」

 あとは黙るしか無かった。

 この報告をするのが大樹には重荷なのだ。なにもしていない。一日の付き人と言っても、買い物はほぼ自分の分で、フィオレの買い物ときたら、パエリアの材料だけ。

 そんな調子の大樹の後をつけるのだから、職場でこき使われているのではないかという二人の杞憂は全くの不要のものだった。

 車を使うように、とフィオレには言われているが、安全を期して、大樹は電車で行く。

『うちのガレージにある車を使いなさいね』

 と言ってフィオレが見せてくれたのは、アルファロメオ。恐ろしくてハンドルなど握れない。

 昨日の買い物だけはフィオレが運転してくれた。


 大樹は木嵜に、昨日の行動と買い物の中身を報告した。

「どうしたらいいでしょう? こんなに受け取るわけにはいきません」

「受け取りなさい。いいですか? 君の仕事は女性を女王様にすることです。フィオレ様はこうやってあなたを育てることで満足している。君が思い悩むことじゃない。それにいい傾向です」

「なにがですか」

「こんなに入れ込むということがです。ところで、君のスケジュールが大体でき上ってきました」

「スケジュール?」

「フィオレ様と店とで連携して君の教育をすることになりました」

「店はなにもしないと」

「スケジュール調整だけです。歩き方講座、話し方講座、マナー、運転、ワイン、ブランド…… いろんなことを勉強する必要がある。それぞれの講座は一日に数時間だから、君はプライベートな時間もたっぷり持てます。なにか困ったことがあってフィオレに言えないことは私に相談してください」

 先日とは違うファイルを渡される。それには一週間の講座のスケジュール表が載っていた。

「それでは、私からは以上です」

「あの……」

「なんですか?」

「せめてプラチナカードだけでもお返しできないでしょうか」

「無理ですね。君への信頼の証ですから。その使い道をしっかり管理することが、君からのフィオレ様に対する返礼ということです。君なら大丈夫。安心していますよ」



 汐と昌は大樹とは違う車両から新ノ宮(にいのみや)駅で降りていた。2分ほど歩く。大樹は周りをキョロキョロしないが、後ろにいる二人はキョロキョロと怪しいことこの上ない。

「階段下りてったね」

 昌がすぐ行こうとするのを腕を掴んで止めた。

「ちょっと時間置いて覗いてみよう」

 その『ちょっと』が二人には長すぎる。せっかちという意味では、二人の性格は似ているかもしれない。

 店のそばに行って、上から覗いてみた。

「ここは……」

 どう見ても一般的な飲食店には見えない。なにしろ薄暗い。他人から見ればホストクラブを覗き込んでいる二人が奇異に見えるが、『ホストクラブ』という認識が二人には無い。

「ちょっと階段下りてみようか」

『思考する、決断する、実行する』が汐の場合、極めて早い。言った時にはもう階段を数段下りていた。

「なにこれ?」

 途中から脇に貼ってあるポスターはどうみても……

「昌! 上れ、Uターン!」

 汐ですらわかる、これはかの有名な『ホストクラブ』というヤツだ。


 二人はどうしていいか分からず、取り敢えず近くのカフェショップに入った。これはあの時ダンテが入っていた店だ。

「ね、どうしたの?」

「あれ、ホストクラブだ」

「ほす……まっさかぁ! だって大樹だよ?」

「昌!」

「……父さん。父さんが、ホストクラブ?」

「間違いない。あ、店の名前見て来なかった」

「俺、見てこようか」

「だめ! 待ってろ、俺が行ってくる」


 再度の挑戦は、勇気が要った。なにしろ看板もなにも無い。下まで降りれば分かるかもしれないが、それはしたくない。ふと階段の右手にプレートがあった。

Amante(アマンテ) segreto(セグレート)

 汐は携帯を出して写真を撮った。

「君、新人くん?」

 後ろから声をかけられて汐は飛び上がった。

「あの、下見で」

「紹介者はいるのかな? うちは紹介が無いと入店できないんだけど」

(この顔、ポスターの二番目にあった)

 つまり、ここのナンバー2だ。

「あ、そうなんですか、じゃ、失礼します」

「君、ルックスいいね! なんなら僕の紹介ってことでもいいよ。紹介手数料も入るし」

「いえっ、考えてきます!」

「そう? 惜しいなぁ……あ、これ。僕の名刺。良かったら連絡して。君、名前は?」

「……くどう」

「工藤?」

「し……しんじです!」

「あはは、工藤進二? 何かの漫画みたいだね」

「失礼します!」

 汐は頭を下げて、脱兎のごとく逃げ出した。


「どうだった?」

 肩で息している汐に前のめりになって聞く昌。

「参った、スカウトにあって」

「スカウト?」

「あ、余計な話。『Amante(アマンテ) segreto(セグレート)』、これがあの店の名前だ。……なんだかイタリア語みたいな気がする」

「イタリア語? 汐ってイタリアに縁があるよね」

「そうか? ダンテはたまたまイタリア人だってだけだし」

 さっきもらった名刺を出してみる。店の名前と、『Dito』、携帯の番号だけが書いてある。

「でぃと、どういう意味だろう」

 汐はすぐに携帯で検索した。

「やっぱりイタリア語だ、『指』っていう意味だよ」

「指? 名刺に?」

「うーん……」

 彼、名刺の持ち主の指は長くてきれいだ。そこからその名前となったのだが、汐に分かるわけもない。

 ついでに『Amante(アマンテ) segreto(セグレート)』を検索。

segreto(セグレート)……シークレットのことだ。秘密」

「今度は秘密?」

Amante(アマンテ)……」

 ちょっと顔をしかめる。昌には言いにくい。

「どうしたの?」

(愛人……恋人の方がまだマシか)

「恋人、だね。『秘密の恋人』」

「なんか、すっごく夜っぽい」

「夜っぽい?」

「印象がさ。でもそれなら大樹は関係」

「昌。いちいち言わせるな」

「……父さん、関係ないでしょ? だってホストだなんて。父さんが誰かの秘密の恋人になるの? 有り得ない! 汐もそう思うでしょ?」

「確かに」

 あんなにボーっとしている大樹が、誰かの秘密の愛人だなんて考えも及ばない。

 汐にメールの着信が来た。さっき検索する前にダンテにメールを送ったのだ。

『悪い。「Amante segreto」の意味が知りたい』

 返事は簡潔だ。

『秘密の愛人。今どこ?』

 汐も簡潔に答える。

『新ノ宮駅』

『行っていい?』

「ああ、もう! 女子高生じゃあるまいしめんどくさい!」

「なに?」

 昌が携帯を覗き込む。

「ダンテ」

 言いながら電話をした。

「ダンテ? お前とだらだらメールする気は無いよ。電話じゃダメなの?」

『いいんだけどさ、怪しい名前を聞くからなんだろうって、好奇心で』

「来たってしょうがないよ」

『何かあったのか?』

「実は大樹さんの様子がおかしくてさ、昌と後をつけてきたらそういう名前の店に入って行ったから」

 ダンテに沈黙が生まれた。

 ダンテはメールを見て焦っていた。ダイレクトな店の名前をメールの中で見た時には、携帯を取り落としそうになったほどだ。そして、後をつけているという二人。

『俺、暇なんだ。付き合うよ』

「え、いいよ」

『水臭いこと言うなよ。それにHirokiのことなら他人事には思えないしさ』

「……どれくらいここにいるか分からないけど」

『いいよ。どこ?』

 待ち合わせ場所を聞いて、さらにダンテは焦った。

(あそこからじゃ丸見えだ! ヤバい! ヤバいヤバいヤバい!)

『じゃ、すぐに行くよ』


「暇なヤツ」

「なんて?」

「こっちに来るってさ。それより大樹さんだ。スーツだったんだから仕事には違いないんだろうけど……あ、あそこのウェイターとか? 接客だって言ってたんだから」

 昌が目をパチクリさせる。

「そっか……ホストじゃなくっても働いてる人いるもんね」

「さすがにホストはないだろう。でもそうするとやっぱり虐めの線が出て来るね」

「どいうこと?」

「こういうとこの連中って性格が悪そうだ。客と上手く行かなくて八つ当たりとか。大樹さん、言われっ放しになりそうだろ?」

「そうだね」

 二人はなんとなく納得しかけている。二人の間ではもう結論が出ていた。

「辞めてもらおう」

「そうだね」

「働き口なんてその気があればいくらでもあるんだから」

「そうだそうだ」

「昌、他人事じゃないんだぞ。学校には親の勤務先だって出すんだ。『ホストクラブのウェイター』なんてイヤだろ?」

「ずぇぇったいに、いやだ」

「だろ? それに大樹さん、ルックスいいからどっかの女に気に入られちゃったら」

「うわ、鳥肌立つ!」

「じゃ、決まりだな」

「決まり!」


 ダンテが来たのはそんな盛り上がりの最中だった。

「どう? 出てきた?」

「まだ。って、お前 ホントに暇だな」

「ヒマ、ヒマ! それで?」

「昌と大樹さんにあそこ辞めてもらおうって言ってたんだ」

「それ、おかしい!」

「なんで?」

「Hirokiの人権、プライベートな問題だろ? それを他の人間があれこれ言うなんて」

「だって昌の学校にだって職業を書いて出すんだぞ」

「接客業は恥ずかしい職業じゃない」

「分かってるよ、普通のところなら。でもあそこはホストクラブだ」

「……給料がいいとか。ちらっと聞いたけど、Hiroki、借金で苦しんでるって」

「……」

 その話は困る。昌は高遠家との返済問題を知らないから話すわけには行かない。携帯を手にすると急いで目の前のダンテにメールを送った。

『借金の話は昌には内緒だ』

 汐の目配せを感じて、携帯を見る。目が広がる。

「ね! 借金って? なんのこと? 俺、知らないよ!?」

「い、いや、聞き違いかな…… とにかく急いで高い給料が欲しいって言ってた」

「俺の……学費とか、かな。大樹、気にして」

「昌」

「父さん! 父さん俺のことで困ってるのかな」

「その辺は……分からないけど。そうだな、いきなり辞めてくれって言うより、大樹さんの話を聞くべきかもしれない」

「うん、うん。そうそう。それでこそ民主主義だ」

 ダンテも必死だ。

「けど、どうやってあんなとこ見つけたんだろう」

 昌にはそれも不思議だ。

「ホームページ見たって言ってたけど」

「ホストクラブの?」

「……そうだな」

「ね、携帯で検索してみてよ。あの店のこと」

「ま、待てって! もう! 二人とも猪突猛進だな。そうやってHirokiを追い詰める気か? まず、話を聞こうっていう姿勢がなんで持てないかな!」

 その辺りでちょっと汐には引っかかるものができた。

「ダンテ。なんか怪しいな。どうして大樹さんのこと、庇ってるんだ?」

「庇う?」

「そう。さっきから変だ」

 今度は追い詰められたのはダンテだ。その時昌が立ち上がった。

「父さんだ!」



 木嵜との価値観のすれ違ったやり取りの後だ。信頼は時に大きな足枷になる。大樹は重苦しい気持ちを抱いて、店の階段を上がった。

「父さん!」

(これは……夢だ。夢に違いない)

 返事をしなければきっと消えてしまう悪夢だ、そう思うことにした。現実逃避、というヤツだ。

「父さん! 俺、分かんないの?」

「昌のはずがない」

「昌だよ! どうしちゃったの?」

 場所はホストクラブの前だ。

(まぁ……!)

という顔で行き過ぎる通りの人たち。

「あ、昌、なんでここに」

「父さんの後をつけてきたの。さ、行こう」

「どこへ?」

「俺はいいけど、父さんはここじゃ困るんでしょ?」

「あ」

 昌はカフェショップの方向に大樹を引っ張っていった。


 昌がいない内に、ダンテは汐に事情を話していた。

「借金の話! 俺、聞いちゃったんだよ。Akiraの養育費を返すんだろ?」

「大樹さんがお前に喋ったって言うのか?」

「ちょうどパソコンの求人検索の前で悩んでるときに出くわしちゃってさ、群馬の住み込みの工場を見てそれにしようかって」

「え」

「だろ? だから早まるなって言ったんだよ。そこなら光熱費? も心配ないなんて」

 汐はちょっとショックだった。それほどに大樹の状態は深刻だったのだと。自分には大樹の心の内が見えていなかった。ボケっとしているように見えるから、さほど気にしていなかったのだが。

「3000万だろ? 普通にやってたんじゃ返済できない。だからたまたま知ってるあの店を紹介して」

「お前が紹介? だからって、ホストクラブのウェイターだってたかが知れてるだろ!」

「Ushio、声、デカい!」

 汐は立ち上がりそうになるのをぐっと堪えた。

「それで? いったい大樹さんの給料はどれくらいなんだ?」

「……さあ、ウェイターの給料の相場を知らないし」


 昌は歩きながらちょっとしょぼくれた顔で大樹に聞いた。

「父さん、あんなとこで働くの、俺のせい?」

「い、いや、」

「俺さ……高校行かなくてもいいよ。すぐにどこかで働いて」

「だめだ! 昌はちゃんと高校も大学も出るんだ」

「だって、父さんがあんなとこで働くくらいなら!」

「すぐに辞めるから! 目標金額があるんだ。そこに到達したらすぐに辞める。約束する」

「いくら? その目標金額って」

「……昌は心配しなくていいんだよ」

「そうはいかないよ! 俺のためにあんな仕事」

「ホストといっても、普通のホストとはちょっと違うから」

 昌の足が、ぴたりと止まる。

「なんて、なんて言った? 父さん、今なんて」

「だから、普通のホストとは違うんだって。女性の話を聞くだけだし、一日に数時間そうしていれば結構な給料が」

 昌が速足になる。それを追うように大樹の足も速くなる。

「昌、昌、待てって」

「嫌いだ! 嫌いだ、父さんなんか!」

 そして、二人はカフェショップに入ったのだった。


 ダンテは大樹が昌と入ってくるのを見て中腰になった。つい口が出る。

「お疲れ、Hiroki! もうウェイターの仕事、慣れた?」

 昌がじろっとダンテの顔を見る。

「ダンテ、知ってたの?」

「な、なにを?」

「大樹が、父さんがやってるのはウェイターじゃないって。ホストだって。汐、信じられる? 父さんがしてるのはホストだよ!」

「あ、Akira、人が聞いてる」

 昌は音を立てて椅子に座った。

「ね? 聞かれちゃ困るような職業ってことだよね」

 今度は汐がじろりとダンテを見た。

「どういうことだ? ウェイターだって言ったよな?」

 大樹がハッとした顔でダンテを見た。

「ウェイ……済まない、ダンテ」

 ダンテは両手で顔を覆った。

「もういいよ、Hiroki……俺が悪いんだから」

「だろうね。大樹さんがホストなんか思いつくわけが無い、お前が余計なことを言ったんだな?」

「だって仕方ないだろ、短期間でそれだけの金……」

 昌がいる。ダンテの声は尻切れトンボになってしまった。

 昌だってばバカじゃない、なんとなくピンとくるものがある。

「ね、なんかはっきりしないけど。俺が話の中心なんじゃないの? どうしてそこまでして金が要るんだよ」

 誰も答えない。

「答えないってことは、知ってるってことだね。ってことは汐もだ。みんなで俺になにか隠してる。俺にだけバレちゃいけないこと」

「昌、聞かないでくれないか? これは俺の問題なんだ」

 大樹はこれ以上話を広げたくなかった。諦めと落ち着きの混じった声。

「昌は納得できないだろけどこれ以上は聞かないでほしい。頼む」

「じゃ、ホスト辞めて」

「そうはいかないんだ」


 大樹にだって分かっているのだ。今はとにかく目的額を貯めることが第一優先だと。自分だってこの状況に甘んじているのが苦しい。だからといって辞めるわけにはいかない。辞めろと言われたからこそ身に染みてそう感じた。


「さっき言った通りなんだ。君たちの思うようなホストじゃない。話を聞くだけ。それだけのことだよ」

 汐には分からない。人の話を聞くだけのホストというものが。ダンテも諦めたような顔で説明をする。

「ホントだ。Hirokiの言う通りだよ。俺の友だちがあそこでバイトしてたんだ。女性の話を聞いて、酒を注ぐだけ。あそこは会員制でプライドと品格を重んじるからそれ以上のことは起きないんだ」

 テレビで仕入れた情報を汐は総動員させる。

「酒は? 注ぐだけじゃないだろ、一気飲みとか」

「ないよ。あそこではホストに酒を飲んでほしくないんだ。高いからね」

 低い声で説明する大樹の言葉に嘘は混じっていないような気がした。

「毎日疲れて帰ってくるのは……そのせい? 喜んで仕事してるわけじゃないんだね?」

 昌の言葉にぱっと顔を上げた。

「喜んでなんかいないよ。むしろ…… でも自分で決めたことなんだ。ダンテを悪く思うのはやめてほしい。俺が困ってたから相談に乗ってくれただけなんだから」

 ダンテは何か言おうとして、汐の目つきに圧されて口を閉じた。

「これ以上話すことは無さそうだね。昌、大樹さんは恥じるようなことはしてない。出来ない人だろ? そういうこと。俺よりも昌の方が知っているだろ?」

 さすがに汐も大樹の心中を察する。

「……知ってるけど。聞きたい。給料っていくら?」

 その返事は出来ない。……口が裂けても。あんなに高額をもらうなんて、それこそ何を思われるか分からない。世の中にそういう人種がいるなんて、大樹にさえ想像もつかなかったのだから。

 そして、フィオレのことも言えないと思った。話がこじれてしまうだけだ。

「ねぇ! いくら!?」

「これ以上は言えないんだ。でも約束できる、恥じることの無い働き方をするって」

「でも店からなにか命令されたら!?」

「断るよ。昌、嘘はつかない。俺には今以上のことは無理だ。だから断る」

「辞めるってこと?」

 大樹は頷いた。

 汐は終わっていないことがある。

「ダンテ。後で話がある」

「分かった。覚悟して聞くよ」

「じゃ、帰ろう。昌、お前も納得できないだろうけど大樹さんがああ言ったんだ。信じられるだろ?」

「……うん」

「じゃ、一つだけ。親の職業欄になんて書くか。それは大樹さん、よく考えて。連絡先も書くんだろうから」

「分かった。よく考えるよ」

 昌はなおも言いたそうだったが、それは汐が止めた。

「お父さんを信じろよ。そうでないと大樹さんが可哀そうだ」

  


 ダンテは恐ろしく静かに帰りを汐たちと共にした。

(目も合わせてくれない……)

 すっかりしょげ返っているが、それを知ってか知らずか汐は昌とばかり話している。

「勉強、どうだ?」

「例によって古文がだめ。あれさ、現代に何の役に立つの? 封じちゃったっていいんじゃないの?」

 汐はくすりと笑った。

「なにさ」

「いや、同じこと思ったな、と思って。地理が必要なのはまだ分かるんだけどね」

「うん」

 苦手なものが同じ二人だが、取り組み方はまるで違う。汐は苦手だから困らないように徹底的に勉強した。苦手な鉄棒を必死に練習する派だ。だが昌は鉄棒そのものに近づきたくない。

「汐みたいになれない」

 溜息が何度も出る。

「しょうがないさ。でもやるしか無いんだから。為せば成るって」

「成らないよ!」

 そんなお喋りを羨ましそうに聞いているダンテに大樹が話しかけた。

「悪かったね。俺のせいで汐くんとこじれちゃって」

「俺の『一生懸命』がUshioの気に入ったことなんて一度も無いんだ」

 男女の違いはあるが、大樹も一途に相手を思うタイプだ。ダンテの気持ちが良く分かる。

「俺からも話してみるよ」

「気にしなくっていいよ。今までもこうやって何度か失敗してきたからまた頑張り直す」

「強いね、ダンテは」

「それでなくてもハードルの高い愛だから。いいんだ、それでこそ燃えるってもんだよ」

 健気にそう言うダンテも『為せば成る』派かもしれない。


 汐の自宅に戻って、ダンテは当然のように深水家に入ろうとした。

「お前はだめ」

 玄関先で汐に締め出しを食らいそうになる。

「ええ、なんで?」

「また良からぬことを大樹さんや昌に吹き込むかもしれない」

「もうそんなことしないよ!」

「どうだか」

「……俺にチャンスをくれ」

「まるで恋人に振られた時みたいだな」

「そうだろっ」

「振る前に恋人じゃない」

「う……とにかく! Akiraの家庭教師やるよ。古文も地理も得意だから」

「そう言えばよく俺にも教えてくれたよな。イタリア人のクセに古文強いって、感心するというか呆れるというか」

 そこには涙ぐましい努力がある。汐が苦手だと知って、義兄の四朗に猛特訓を受けたのだから。四朗は恐ろしく優秀な男性だ。

「そこは感心してくれよ! ね、それで手を打たない?」

「……しょうがない。手を打つよ。俺も自分の勉強で忙しいし」

「自分の? 休学してんのに?」

「……しょうがない。教えてやる。俺、転学する」

「…………大学を!?」

「他になにがある? 横浜にある大学に進むんだ。受験し直すんだから休学は1年半。さすがにこれ言わないのはお前に申し訳ないからな」

「申し訳なさすぎるよぉ、Ushioー、何目指すの?」

「理学療法士」

「じゃ、俺も!」

「だめだよ! それでなくても俺のせいで1年半もブランクあるだろ?」

「そうだっけ?」

「高校の1年間と今回の半年。フィオレに申し訳ない」

「いいって。誰も気にしないよ。じゃ、努力はするってことで構わないだろ?」

「努力って、ダンテ、本気で理学療法士目指すの? 動機は?」

「愛! それ以外のなにも無い。いいよ、逃げたきゃ逃げろ。俺は追いかけるから」

 汐はふっと笑った。

「お前って、ほんとバカ。じゃ勉強一緒にやるか?」

「いいの!?」

「落ちたらそこまでってことで。お前は休学するなよ」

「それ、ハンデだなぁ。って、Ushioは受かる気満々だな」

「受かるよ。そのために勉強するんだから。為せば成る」

 ダンテは汐のこういうところが堪らない。

(いつかきっとこの手の中に……)

 妄想逞しいダンテは、もらったチャンスを大事に育てようと決意した。

「Akiraをトップランクに。そして、Ushioと一緒に理学療法士に。頑張るよ」

「大樹さんの件はまだ許しちゃいないからな」

「ええ、Ushioー!」

 その鼻先でドアを閉めた。

「いつまでも玄関で甘ったるい話、してられるか」 

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