9.それぞれの始まり
「大樹、様子がおかしかったね」
「昌」
「あ、っと、……なんて呼べばいいか分かんないよっ!」
「取り敢えず『大樹』は無し」
汐は昌の前に座った。
「『お父さん』って呼ぶのが嫌か?」
昌が首を縦に振る。
「じゃ……パパは?」
「もっといやだ!」
ちょっと考えていた汐は、あ、と思いついた。
「昌、『父さん』って言うのは? 俺もある時期から『お父さん』って言うのが恥ずかしくなったんだ。『お』を抜いただけでもかなり印象が変わるよ」
「父さん……父さん……」
「後は慣れだね。昌だって違う形にしろ、大樹さんにはずっと世話になってきたんだ。少しは自分が折れるべきだって思わないかい?」
「父さん」
「うん。それなら言えそうか?」
「父さん……まだ自信ない」
「慌てなくていいからさ。俺もさっさと『父さん』に変えたわけじゃなかったから。でも気がついたらそう呼んでいたよ」
「父さん」
ちょっと大人びて聞こえるそれは、昌には言ってみたい言葉でもあった。汐が『父さん』と言うのを初めて聞いたとき、(いいな)と思った覚えがあったから。
階段を上がりながら(父さん、父さん)と心で思う。部屋に入って鍵をかけてから「父さん」「父さん」と口に出してみた。思ったより抵抗が少ない。
「父さん」
これならきっかけがあれば言えそうな気がする。
汐は一階を見渡していた。
「父さん。模様替えしちゃったからずい分印象が変わったよ」
自分の将来を考えてみる。
(薬剤師……どうしよう)
両手に顔をうずめる。父あればこその選択だった。父あればこその勉強だった。
(俺に合ってるのかな)
自分だけを考えてみた時。『なりたいもの』が無いことに気づく。
(ならどうしろって……)
パソコンを持ってきて広げた。自分の大学の学部を見る。今は3年の途中だ。学部変更は可能なのだろうか。
残念ながらそれはなかった。あちこちと編入出来る大学、学部を探していくうちに惹かれるものがあった。
(理学療法士)
一時的であっても、身体的障害を抱える人の運動能力回復を介助する仕事だ。
(これならいいかもしれない! そうだ、昌の役にも立つ)
汐は気づいていないが、誰かの役に立つ、ということが汐の原動力になっている。
そうとなれば転学を考える。この時、ダンテのことなど頭の片隅にも過っていない。
私立は避けたい。金額がバカにならない。
(ここから通学できるところ)
それも条件だ。そして、それを見つけた。
(募集5名、前年度で倍率1.6倍、横須賀、横浜……行ける!)
後は編入試験に向けて勉強あるのみだ。
(休学は1年半に延ばそう。ついでに理学の予習もしておけばいいし)
『為せば成る』
汐に、迷いはない。
夕食の買い物には汐と昌で行った。昌もレパートリーを増やしたい。好き嫌いを言うほど昌はあれだこれだと食べてはこなかった。だから好奇心いっぱいで野菜を選ぶのを手伝ってくれた。
「糸こんにゃくも入れんの?」
「小さく切ってね」
「ゴボウ、どうやって皮剝くの?」
「後でやらせてやるよ」
まるで兄弟のように仲がいいのを見て、ご近所さんたちが手を止めて見ている。見目のいい青年と可愛い美少年。
八百屋のおばちゃんは袋に入れながらちらちらと二人を見た。
「今日炊き込みご飯なの?」
「はい」
「汐ちゃんは器用だからねぇ。そちらの……」
「昌です。親戚の子」
汐は面倒だからそれで通すことにした。二人にもそう言ってある。
「これからお世話になります。学校もこっちにするので」
「よろしくお願いします。俺も買い物来ると思うから」
「まあ、いい子ね! 汐ちゃんは面倒見がいいから安心よ。小さい時からよく家の手伝いをする子でね、」
「ごめんなさい! まだ買い物があって」
「あらあら、私こそ」
「すっげ、大変! 買い物するたびにあれ?」
「きっと最初の頃だけだよ。さ、肉屋。鶏肉買うから」
「汐ってスーパー行かないの?」
「今さら行けないんだよ、後から出来たスーパーになんて」
買ってきた袋をキッチンテーブルに広げる。それぞれの野菜の扱い方を教えて昌にやらせる。そのそばで汐は勉強を始めた。
「勉強すんの? 休学してんでしょ?」
「転学することに決めたからね、試験受けるから頑張らないと」
「薬剤師、だっけ? やめるの?」
「俺のやりたいことじゃないって分かったから」
「なにがやりたいの?」
「理学療法士。ケガした人とか、体の不自由な人のリハビリを手伝う仕事」
「ふぅん……汐には合ってるよね、人の面倒見るの好きそうだもん」
「そうかな」
ゴボウを剝くことになって少しやって見せた。
「うわ、面白い!」
「それ剝き終わったら『ささがき』っていうの、やってもらうから」
「汐ってスパルタ!」
大樹は明日の準備をしていた。書類をいくつか書かなくちゃならない。
被扶養者の欄に、『長男 仁科昌』と書いた。やたら嬉しくなる。携帯で写真を撮った。
(あとで昌に見せよう!)
これには「だから?」と素っ気ない返事がくることになるのだが。
業界用語……というか、あそこでの言葉を復習する。
(店の名前はアマンテ・セグレート。社長の名前はオネスト・カポーネ。マネージャーは木嵜さん)
それくらいはするすると言えるようになっておきたい。
下から夕食の知らせがあって、手帳を閉じた。明日からは……
(会社員? だよな?)
階段を下りる途中で呟き直す。
(従業員だった)
食事をしながら汐の転学の話が出た。
「もう勉強してるんだよ。俺も負けないようにしなくっちゃ!」
「みんな初めてのことに挑戦するんだね。頑張ろう、お互いに!」
ちらり、と大樹は思う。
(ダンテに知らせた方がいいんだろうか?)
一方、ダンテは着々と大樹のために事を進めていた。なぜ大樹の世話を焼くのか。簡単なことだ。それが汐の助けになるからだ。ただそれだけ。
「フィオレ!」
「なに?」
「今度いつオネストのところに行く?」
「特に決めてないけど。Shiroの仕事次第よ」
霧島四朗は仕事上、オネストと関係がある。外交官をやめた四朗は、その伝手を最大限に活用して貿易関係の事業を始めた。そこに関わってくる女性たちの接待にと、オネストの店や、オネストの助けを利用しているのだ。
貿易は、イタリアのアンティーク家具などを中心に扱っている。
「それ、早めること出来るかな」
「出来ると思うけど。言いなさい、なに企んでるの?」
「実はね」
ダンテは大樹のことを姉に話した。
「ま! オネストの店を紹介したの!?」
「早く金が要るならそれが一番手っ取り早いだろ?」
「そりゃそうだけど。それにあの店なら確かに安心ね」
「でも、悪い虫は付いてほしくないんだ」
フィオレが腕組みをして、背の高い弟を見上げる。
「私を利用しようってことね?」
「当たりっ。頼むよ、この通り!」
両手を組んで姉に甘える。
「全くもう! なに、Hirokiのファンクラブを作ればいいの?」
「そう! フィオレなら人も集められるでしょ? それもとびきりの女性たちをさ。オネストも喜ぶだろうし」
「このこと、オネストには内緒にするのね?」
「少なくとも俺が関係してるっていうのは知られたくない!」
「はいはい。Shiroには話すわよ。お金がかかるんだもの」
「Grazie(感謝)!」
「調子いいんだから……Ushioにも内緒ね?」
「もちろん! 殺されるよ、知られたら」
「一度は殺されてもいいかもよ」
翌日。大樹は3時には書類を渡していた。スーツを何着か作るのだと、木嵜の運転でテーラーに出かける。
「こんな高いのを!」
「ウチはアルマーニが基本だからね」
「申し訳ないです」
「勘違いしないでほしい。君にあげるんじゃない、貸与するんだ。辞める時には置いて行ってもらう。だから気にしないこと」
「はい」
採寸を終えて時計と指輪を買う。
「時計は分かるんですが、指輪はなぜ?」
「抑止力だよ。君が左手の薬指にこれを嵌めることによって、互いにあってはならない関係だということを知る。ま、その方が気持ちも高まるしね」
店に戻るとすでに開店していて、女性客がちらほらといた。それぞれお気に入りの男性を横にして話をしている。接触は手を握ることまで。指を絡めるのはいいらしい。言われた通り、壁にあるソファに座り足を組む。下出に出てはいけない、自分は高い商品なのだ。
ざわざわと6人くらいの女性たちが入ってきた。そっちに目をやって驚いた。
(フィオレ? なんで?)
特別客らしく、木嵜が恭しく一番いいテーブルに案内する。数人は男性が決まっているらしく、すぐにそばに呼ばれていった。
それ以外の女性は「壁の花」を眺める。
「ずい分お久しぶりです。どうなさいます? 以前の者は店を辞めてしまったのですが」
「何人か呼んでちょうだい。それで決めるわ。新人って謎があって素敵!」
木嵜は躊躇した。大樹はあまりにも新人過ぎる。この上客の相手が務まるだろうか。それに今日はアルマーニを着用していない。
「そうね、背が高い男性がいいわ」
「かしこまりました。少々お待ちを」
躊躇は消えた。大樹は背が高い。ホスト名はalbero。『木』という意味だ。
まさか初日にテーブルに着くことになるとは思ってもいなかった大樹。たとえ知った顔だとしても、いや、知った顔だからこそ心臓がバクバクしている。
木嵜の後ろに他の入店して間もないらしい新人と立つ。
「こちら、リリカさまと仰います。この店とは馴染み深い大変大事なお客様です。くれぐれも粗相のないように」
言われてぎこちなく頭を下げた。
「あ、アルベロと申します」
他の二人も名乗ったが、リリカつまりフィオレの狙いは大樹だ。
「あなた。アルベロと言いましたね。まだほやほやの新人さん?」
「はい、今日から、です」
どうしても言葉がぎこちなくなる。
(ダンテに聞いたから見に来たんだろうに)
とは、口が裂けても言えない。テーラーの行き帰りの車の中、徹底的にプライバシーの秘匿性については頭に叩き込まれている。
「そうなの! じゃね、今日は私にお付きなさい。いいかしら、木嵜」
「もちろんでございます。アルベロ、光栄なことだよ。精神誠意お仕えしなさい」
「はい」
ある意味、この職業は大樹にはぴったりだとも言える。長いこと昌の付き人をしてきた。その関係者との必要なやり取りも。へりくだるのは習性になっている。
「店からのサービスでございます」
ペリエというシャンパンが二本。グラスと一緒にスーツに蝶ネクタイのウェイターたちが運んできた。
「シャンパンは開けられるのかしら?」
悪戯っぽい目が覗き込む。大樹は二度ほど開けたことがある。
「はい」
なるべく慣れた手つきに見えるように開けようとしたが、その手をフィオレが押さえた。
「木嵜、お願い。服を濡らされたら困るわ」
「かしこまりました。申し訳ございません、今度教育しておきます」
他の女性たちがくすくすと笑う。大樹は真っ赤になってしまった。
「可愛らしい! 失礼だけど年齢はおいくつ?」
「三十」
「そこまででいいわ。三十代前半、と思っていいかしら」
「はい」
無事にシャンパンが注がれ、「Brindisi(乾杯)!」と男性が声を揃えて言う。もちろん、大樹は分からないから無言だ。
木嵜が下がって、歓談となった。他の新人は先輩の見よう見真似で女性客に答えている。
「フィオレ、」
大樹は小声で話しかけた。
「しっ、本名はだめよ」
「申し訳ございません。リリカさま、どういうことですか?」
「うふっ、私は弟に甘いの。それにね」
大樹を眺める。
「私も楽しめそうな気がしてきたわ。これからいろんなことが起きると思うけど、困ったらなんでも言ってちょうだい。Shiroはオネストと提携して事業をしているの。だからある程度の自由は利くのよ」
「じゃ、ご主人公認?」
「当然よ! 私はShiroを愛してるんだから」
ほっとした。隣の奥さんと何ごとか起きるようなことにはなりたくない。夫公認ならばこんなに有難いことは無い。
「それでね、私があなたを育ててあげるわ。そのつもりでね」
「いったい何を」
「木嵜を呼んでらっしゃい」
立ち上がろうとする大樹を呼び止める。
「いい? 女性になにか頼まれたら大きな声で『かしこまりました』と言って。あなたの存在感を他のテーブルにも伝えるのよ」
改めて大樹は息を吸い込んだ。
「かしこまりました」
その声で、歓談してい女性たちも振り返った。木嵜も大樹に目をやる。
(なるほど、こういうことか)
背筋を伸ばして木嵜の元へ歩く。
「マネージャー、リリカさまがお呼びです」
木嵜は大樹の態度が気に入ったらしい。頷くとリリカのテーブルに大樹を従えて行く。
「お呼びでございましょうか」
「私ね、この子が気に入ったの。何も知らないんでしょう? 店側では手を入れないで頂戴。育ててみたいわ」
「それでは、リリカさま、彼にファンクラブを?」
「ええ。Shiroにも伝えておきます。私が開設者を務めるわ」
なにがなんだか分からない内に歓談も終わり、皆が立つ。
「出口までご案内を」
「木嵜と打ち合わせがあるの。後で見送りをお願いね」
「かしこまりました」
フィオレが帰った後、木嵜が大樹を呼んだ。
「君、まさかあの方と元々知り合いだったとか?」
「いえ、初めてお会いしました」
ドキドキする。バレるわけにはいかない。
「そうですか……店始まって以来ですよ、入店早々にファンクラブが付くなんて。説明するからオフィスに来なさい」
ソファに座ると、木嵜が革張りのファイルを持ってきた。
「覚えておきなさい。ファンクラブには階級があります。君はゴールドクラブだ。その上はプラチナクラブとなります」
ファイルを開く。そこには契約書のようなものが挟まれていた。一番下に多分イタリア語なのだろう、フィオレのサインがある。保証人として夫の『霧島四朗』の名前があった。
「ゴールド以上は保証人が必要です。大金が動きますからね」
(大金って……)
ページをめくると契約の内容が書かれていた。
「よく見て。これだけの金額が君のために動きます。この信頼に応えるために、君はリリカさまに誠心誠意尽くしてください」
そこにはまるで違う世界のような内容が書かれていた。
ファンクラブ開設料金200万円。入会金20万円。会費10万円。各会員からの大樹への投資額70万円。その他諸々。そして会員数は10名。
つまり、大樹の収入は毎月最低700万円となるのだ。
ノックをしてみたが返事が無い。
「ひろ……入っていい?」
それでも答えが返らないから「入るね」と言ってドアを開けた。中には呆然としたまま床に座り込んでいる大樹がいる。
「ね、なにかあった?」
「…………」
「どうしたの?」
反応が無いことが怖い。こんな大樹は初めて見る。
「……ぱぱ」
ぴくりともしない。
「……おとうさん」
聞こえてもいないんだろうか。昌は焦り始めた。なにかの発作かもしれない、座ったまま意識不明かもしれない、記憶喪失かもしれない……
「とうさん……とうさん。とうさん!」
ゆっくりと大樹が昌を見た。
「いま、なんて?」
「なにかあったのかって聞いたんだよ!」
反応があってほっとして、そして腹が立った。
「なのに、なにも返事しないから!」
「だから? だから、おれをなんて?」
「……と……ん」
「とん?」
「ばかっ、とうさん って言ったんだ! 大っ嫌いだ、父さんなんか!」
昌はそのまま自分の部屋に飛び込んで泣き出してしまった。なぜ泣ているのか自分で分からない。大樹の反応があったからか。腹が立ったからか。それとも……
「おれ、とうさん、っていえた」
腕で涙を拭う。こんなに感動したのに、父は「とん?」と言ったのだ.
違う意味での『呆然』を体験したばかりの大樹は一階に下りてきて、今度はキッチンテーブルの椅子に座り込んだ。
「ね、どうしたの? なにがあったの?」
顔色が悪いように見えて汐は大樹の額に触ろうととそばに寄った。
「とん、じゃなかった」
「え?」
汐がその小声にかがみこもうとした。
「とうさん……おれのこと、とうさんって」
突然立ち上がったから汐の鼻にまともに頭突きをしてしまった。
「ぶ」
鼻血が吹き出す。大樹は泡を喰ってキッチンペーパーを箱ごと取ってきた。
「ごめんっ、汐くん、ほら、押さえて!」
ぼたぼたと垂れる汐の鼻にキッチンペーパーを強く当てがって椅子に座らせた。それでも垂れる血を見て、大樹は真っ青になってしまった。
「ピンポーン、入るよー。玄関開けっ放しで不用心だよー……汐っ!!」
飛び込んできたダンテはまた汐を抱き上げた。ソファに横にして「タオルっ」と叫ぶ。大樹はバスルームに飛んで行ってタオルを取ってきた。
上からはなにごとか、と昌も駆け下りてきた。汐の顔に流れている血を見て今度は昌がパニックを起こす。
「なに! なにがあったの!?」
「お、おれが、」
そこまで言って、大樹は気を失ってしまった。
気がつくとソファの上。深水家のリビングは、角の丸いリビングテーブルを挟んで同じソファが二つ置かれている。そのセッティングが母の好みだった。その一つに汐が、一つに大樹が横になっている。
昌とダンテはキッチンから持ってきた椅子に座っている。
「ごめん、汐くん」
「もう血は止まってきてるから」
鼻が詰まって汐の声が変わってしまっている。
「形のいい鼻が折れてなくて良かったよ!」
汐はダンテをちょっと睨んだが、介抱してもらったのだから余計なことを言わなかった。
「ごめん、汐。大樹は血がダメなんだ」
「昌!」
「あ、え、と、……とうさん」
大樹は二度目の衝撃で座ったままへたってしまった。
「大丈夫!? ひろ……じゃなかった、とうさん」
途中で汐にじろっと睨まれて、昌は言い直した。一度言ってしまうと、案外と言いやすいものだ。
「だいじょうぶ」
大樹はやっときちんと座り直すことが出来た。
「うしおくん……聞いてた? とうさん、って……とうさんって」
そのまま今度は泣き出してしまう。ダンテはキッチンペーパーを渡してやった。
「あり、がとう。ダンテ、聞いてた? とうさんって昌が言ってくれたんだ」
「聞いてたけど。あれ? だって親子でしょ?」
「俺、さっき上で初めて言ったんだ、『父さん』って。そしたらひろ、父さん下に下りちゃって」
「それで変だったのか」
やっと汐にも大樹の唐突な行動に納得がいった。その汐の鼻には、まだタオルで包んだ氷が当てがわれている。というのも、ダンテがそばにつきっきりで汐の鼻に当てて離さないからだ。
「鼻血を出した甲斐があったよ。そうか、父さんって言えたんだね」
「うん……汐のお蔭だ。ありがとう」
「いいんだよ。良かったね、大樹さん」
「うん……うん」
昌もちょっとうるうるしている。その様子を見てダンテが大きく頷いた。
「パーティーしよう!」
「パーティー?」
何を言い出すのかと、汐はダンテの手をどかした。いい加減、鼻が冷たい。
「ありがとう、ダンテ。もう大丈夫だから」
「まだ動かない方が」
「そこまで柔じゃない」
「汐、冷たい!」
「俺は鼻が冷たい」
そのやり取りで、仁科父子が笑い出す。
「あ、床」
大樹が慌てた。鼻血が垂れた痕のことだ。血の痕は厄介だ。
「ダンテが教えてくれたよ。大根! って叫ぶから何かと思った」
昌がもう心配ないと言う。
「大根おろしには血痕を落とす効果があるんだよ。たんぱく質を分解するから。な、汐!」
「俺がお前に教えたんじゃないか。ところでさ」
汐は大樹に話しかけた。
「帰ってきたとき変だったけど、職場でなにかあった?」
大樹とダンテが同時にドキリとする。顔を見合わせそうになって、両者とも耐えた。
「疲れたんだよ、緊張し過ぎて」
「そんな風には見えなかった。なにかショックなことがあったんじゃないの? 失敗したとか……クビになったとか」
「その方が良かった……」
「え?」
「いや、そうでなくて良かったって言ったんだよ。本当に疲れたんだ」
「じゃ、やっぱりパーティだな」
ダンテは話を逸らしたい。
「なんで『やっぱり』なんだよ」
「みんな、今日は料理を作るのは無理! で、『父さん』のお祝いがある! そして大樹さんの就職祝い。そこで俺の出番だ。今日の深水家の台所は俺が預かる!」
「パーティー……今日は何日だい?」
大樹の頭の片隅に何かが引っかかる。
「今日は11月3日、文化の日だよ」
「あ!」
「今度はなに!?」
昌にはあまりにも今日という日が目まぐるしくて混乱しがちだ。
「昌、君の誕生日だった。ごめん、毎年忘れないのに」
なんだ、という顔になる昌。
「そんなの。いつだって大樹……父さんしか祝ってくれなかったじゃん」
「そうか! じゃ、今年からは大家族で祝おう。俺の家で」
ダンテの言葉を汐が遮った。
「ダンテ。それはだめだ。それにフィオレにも申し訳ない」
汐はきっちり断った。大樹は危うく舌を噛むところだった。
「そ、そうだよ、これ以上迷惑はかけられない……ダンテに、っていう意味だけど」
「じゃ、病人二人はそこに寝ていること。昌、ケーキの作り方教えてやろーか? クリスマスだってあるし」
ダンテも大樹が余計なことを言うんじゃないかと冷や冷やしている。
「ほんと!? やる!」
「自分の誕生日なのに」
汐が反対しようとしたがダンテは譲らない。
「だからだよ。特別な記念日にするんだ。『父さん』って言えたこと。ケーキを一緒に作ること。要はさ、これで昌は『独りぼっち』じゃなくなったって思えることが大事だろ?」
ダンテにしちゃまともなことを言う、そう汐は思った。
「分かった。ありがとう、任せるよ。昌、本当にそれでいいんだな?」
「うん! 父さんもまだ青い顔だから座ってること!」
「はい」
大樹は嬉しくて堪らなかった。
パーティーは、霧島家に比べればこじんまりとした深水家のリビングで盛大に行われることになった。”重症の汐”が動くのは以ての外で、戦力外の大樹は、ダンテと昌の言うがまま、皿を並べたりグラスを運んだり。
ダンテに頼まれて、大樹が密かにフィオレにいくつかお願い事をしに行く。パーティーなのだから、とスーツを着込んだ大樹は、霧島家のチャイムを思い切って鳴らした。
「はーい、いますよー」
フィオレがこんな返事をするようになったのは、日本人がせっかちだから、ということらしい。立て続けに何度もチャイムを鳴らされるからだ。
さて、子どものお使いのようにフィオレに挨拶をする大樹。
「あの、ダンテに頼まれまして。今夜、深水の家でパーティーを」
「ね、プライべートに『アルベロ』を持ち込まないこと、これ、鉄則よ。今はお隣のHirokiとフィオレ。それでいいの。分かるわね?」
「はい」
とは言っても、自分の大掛かりなスポンサーだ、そう簡単には割り切れない。
「少しずつお勉強ね。努力して」
フィオレは笑って大樹の腕を叩いた。
「で? そのメモを見せて」
ふんふん、と頷きながら「待っててね」と奥に引っ込んだフィオレ。ソファで周りを眺める。
(すごいな…… アンティークを扱ってるだけある)
置いてあるチェスト、ランタン、小物入れ、カウチ。そんなものが素人の大樹にでさえ値の張る物だと分かる。
(こんな中に寝たら……泥棒が心配で寝られない)
きっと毎晩バットを手にこのソファに座っているだろう。
「お待たせ。シャンパンはロゼのアンペリアルね。ワインは私からプレゼント。ジャンテ・パンショ ジュヴレ・シャンベルタン」
「じゃんて……」
「いいの、今は分からなくて。そのうちみっちりと仕込んであげる。あとは汐の好きな白と、ノンアルコールね。チーズも添えておいたわ」
「あ、ありがとうございます。こんなに」
「いいのよ。汐に伝えて。素直に喜んでって。お願いね」
子どものお使いよろしく、籠に載った数本の飲み物とチーズをダンテに渡すと、赤ワインを見て喜んだ。
「わぉ! フィオレ、ありがとう!」
「いいワインなんだろ?」
「まぁね。でもどうせUshioは白しか飲まないんだけど」
「どう違うの?」
「あ、じゃ簡単なワインの講習会もやろうか。大丈夫、くどくしないから」
汐にはフィオレの『素直に喜んで』という伝言だけ伝えた。むっとした表情の汐だったが、さすがに自分たちのために一生懸命なダンテに悪いと思ったらしい。
「ダンテ、チーズはたっぷりある?」
「あるよ! 足りなきゃもらってくる!」
「いいんだけどさ。俺、チーズが好きだから。……今日はありがとう」
「その言葉で充分だよ!」
チーズを切っている真っ最中でなければ、ダンテはきっと汐に抱きついて叩かれていたことだろうが。
「大樹さんの就職祝いと昌の誕生日を祝して、乾杯! そして、初めて『父さん』って言えたこと。今日は本当にいい日だね!」
みんなで一口飲んで、大きな拍手。昌に渡してあるのはノンアルコールなのだが、それでも昌は頬を染めていた。拍手がひと段落して、汐は再びグラスを掲げた。
「ダンテに。ありがとう。君がいたからこんなに素敵なパーティーが開けた。感謝してる。ただ!」
一歩出ようとしたダンテに釘を刺す。
「俺は今日重症なんだろ? 鼻血だけど。だからこれ以上興奮させないでくれないか? せっかくの日だ、腹を立てたくない」
ダンテの足は一歩退いた。
「わかった。俺にしたってこんなに嬉しい日に汐に怒られたくないからね。主役はHirokiとAkiraだ。わきまえるよ」
みんなでダンテのためにグラスを持ち上げる。昌は見よう見真似だ。それがまた可愛らしくもあり、今日の祝いの花形と言えた。
次の日の大樹はフィオレの買い物の付き人を務めた。これが大変だった。アルマーニのスーツはすでに店で何着か買ってあるのに、フィオレはそれに満足しなかった。
「家には置けないのよね?」
「ええ、だめです!」
「叫んじゃダメ。紳士たるものは常に冷静で自分を制御してないと。じゃ、霧島の家で保管しましょう」
スーツ、12着。靴10足。ネクタイ10本。ハンカチ、ソックス、……
「フィオレ! いったいどれだけ買うつもりですか!」
「Hiroki、あなたの懐は痛まないのよ」
「けど!」
「いい? 私が手をかける以上、半端な真似はしません。あなたが笑われるイコール私のプライドが傷つく、ということなの。黙ってらっしゃい」
「……はい」
会計の時がまた大騒ぎ。
「これ、ぷらちな、かーど?」
「そ。今度からプライベート以外はこれを使うこと。たとえハンカチ一枚でもね」
「でも俺は払えません」
「それを気にしないこと。今日が第一歩だわ。頑張って」
(頑張れないよ、こんなこと!)
昌の付き人をしていた間の月収と同じ金額のスーツが……いや、それは安い方だ。倍くらいのものもある。あまりにも大樹からはかけ離れた世界。
「ただいま……」
「お帰り! ……?」
汐に数学を習っていた昌は生気の抜けたような大樹を見て慌てて水を持ってきた。
「父さん、これ飲んだ方がいいよ」
汐も気になった。
「大樹さん、聞いてもいい?」
「あ? ああ、汐くん、お帰り」
「じゃなくって、大樹さんが今帰ってきたんでしょ?」
「あ、そうか、ただいま」
「それ二度目だよ、父さん」
今度はすんなり『父さん』が出て、途端に大樹は現実に戻ってきた。
「昌……『父さん』って呼んでくれたんだね」
「あのね! 毎回感動するのやめてくれる? これが続くならそう呼ぶのやめるよ!」
「ごめん」
汐が咳払いをした。
「大樹さん、聞きたいんだけど」
「なんだい?」
「そこ大変なんでしょう? そんなに疲れるところで働かなくてもいいと思う。大樹さんが真面目なのは良く知ってるから。振り出しに戻って他に職場を探したらどうかな」
(それが出来たらどんなにいいか……)
せめて大樹に欲があったら良かったのだ。肝心のそれが無い。
(頑張って返済が終わったらすぐに辞めよう! そして今度は地道な仕事をしながらフィオレにお金を返さないと)
理屈が通っていないことを考え始めている大樹。
大樹が二階に引っ込んで、残った二人は勉強には戻らず話し合っていた。
「後をつけてみようか、明日」
昌が言う。
「後を? それはさすがに」
「だって知りたいよ! もしかしたらこき使われてるのかも……いじめとか? ほら、大樹ってどんくさいから」
「昌!」
「……父さんってどんくさいから」
言い直してもひどい言葉に変わりは無いのだが。
「……仕方ないか……大樹さんのことだからやっと見つけた仕事を辞めるなんて自分からは言い出せないだろうし。後をつけるっていうか、後ろの方からついて行くって言うか」
「つまり、尾行でしょ、どんなに言い繕ったって」
というわけで、明日は大樹の跡をついていくことになった。よりによって、明日は「アマンテ・セグレート」つまり、『秘密の愛人』の出勤日だったりする……




