第1話
「この……スケベ痴漢野郎――――ッッ!!!!」
悪鬼羅刹の様な、淑女乙女にあるまじき形相で、俺は力一杯ぶん殴られた。
痛みは後からやって来た。駅のホームの階段を転がり落ちた後に。
「あ、あのー……痴漢はコッチの人です……」
遠くで誰かの声がするが、くぐもっていてよく聞こえない。
俺の意識はそこで途切れた――。
……
…………
「い、痛ぇ」
痛みで目が覚めると、見ず知らずの女性が横に座っていた。頭にラーメンのどんぶりをかぶっている。
普通であれば仰天する場面だろうが、痛みでそれどころではない。
「お目覚めですか?」
「……え、ええ……一応は……」
帽子のつばをずらすように、どんぶりのふちを指でずらすと、綺麗な目が露わになった。見覚えのあるような顔だが、それよりも中からラーメンの汁がピタピタと垂れ続けているのが気になる。
「あのー……いででっ」
「ああダメです! まだ寝ていて下さい。お医者さんが言うには『なんでこの人死んでないの?』だそうですから……」
全身が痛い。脚も動かせそうにない、と思ったら両足がギプスだった。ヤバ……。
「今し方ラーメンをお作りしたのですが、うっかり転んでしまいまして……」
「大丈夫です。タクシーで帰りますから……」
「あのー、それがですね……」
女性は神妙な面持ちでどんぶりを外すと、そっとおでこに貼り付いたナルトを剥がして口に放り込んだ。
「アパートが火事になりまして、全焼したみたいです」
「はぁぁぁ!?」
思わず飛び起き、
「いでぇぇぇぇッッッッ!!!!」
「だからダメですって」
飛び起きれなかった。
「なんでぇ!? えっ、なんで!? なんでなの!?」
「落ち着いて下さい」
女性がそっと俺の手を握ってくれた。
「あなたは三日も寝ていたんです。その間にアパートは燃え、痴漢は捕まり、そして会社はクビになりました」
「はぁぁぁぁ!?!?」
叫び、また飛び起きようとして――、
「いぐぅぅぅぅッッ!!!!」
「だからダメですってば」
再びベッドに崩れ落ちた。
なんなんだ、一体……?
俺はあの朝、いつも通り普通に出勤しようとし、電車を待っていたはずだった。
しかしなぜか見知らぬギャル風の女に痴漢冤罪で駅のホームの階段から突き落とされたというのだ。解せぬ。
しかも女性の話によると、俺は痴漢冤罪のせいで会社をクビになっているというではないか! たったの一日で! しかもその翌日には逃げ回っていた本当の犯人が逮捕されたらしい……。
そして極め付けはアパートが燃えていること。なぜだ??? と思えば、隣人が寝タバコで火をつけやがったとか。クソ、俺の住居をどうしてくれるんだ。
「その隣人というのが私なんですけどね」
てへぺろする女性。
「あなたどこかで見たことがあると思ったらお隣の。……ってえぇ――!?!?」
この人がアパート火災の原因だったとは。確かにどんぶりをかぶるくらいのドジであれば不思議でも何でもないが。
というかどうやったらどんぶりをかぶる事態になるんだよ……。
俺たちの住んでいたアパートはすでに灰と化しているとのこと。幸い死傷者はいなかったというが、大変な騒ぎになったそうだ。
「それでご迷惑をおかけしたお詫びに、ラーメンを作って差し上げようと思っていたのです。……妹の分の謝罪も兼ねて」
「そのお詫びはラーメンじゃ足りないと思いますけど……。で、妹さんがどうしたんです?」
「実はあなたを痴漢冤罪で階段から突き落としたのは、私の妹なんです」
女性の告白に、もはや俺の頭はついていけなかった――。