イカの一夜干しっていうのは
昔のことだ。酒なんて飲みたくもないのに、飲み会の幹事を押し付けられて、散々悩んだ挙句、土壇場になって空いていた店に予約を入れておいて、汗を掻きながらやっとこさ仕事終わりに案内した居酒屋でのこと。
「おい、お前幹事なんだから注文しろよ?」
わ、わかりましたとあわてて言ってメニューを見ると、上司にぼかりと頭を殴られる。
「お前が頼むんじゃないぞ!? いや、お前がむしろ皆の分を頼め! わかったな!?」
わ、わかりましたと、いまでならまったく、なんて話だというものだったが、当時の嫌われたくない俺は必死になって考えて、咄嗟に定番のメニューの他に、なぜが烏賊の一夜干しを加えてしまった。
飲み放題のなか、くだを巻かれながら愛想笑いを浮かべる俺は、ただただ無様だったに違いない。しかし、俺はそれでも良かったのだった。誰かに必要とされなくなってしまったら消えてしまうと思った。自分が、この世からーーそれが俺の生き方を、無様にしていたとしても。消え去るよりはましだった。跡形もなくいなくなってしまったなら、なんの意味もなくなってしまうからだ。昔のことさえ消えてしまう……そんなのは認められない。
「あなたって、本当、いい人だよねー」
「何がですか?」
ざわめく。俺が何か言うとは思っていなかったらしく、おいデブだの、アホか、などと言っているが、なんだか無性に割り切れない。
立ち上がる。
「俺のどこが良い人なんですか? 教えてくださいよ、良い人の定義を順序立てて。お前らみたいな底辺な奴らにこき使われてボロボロになってゆく俺が、どおれだけえーー良い人なんだうああああ!?」
みんなが呆然とした。俺はいつも酒は飲み会で飲まなかった。自分が怖かったからだ。本当の自分と重なってしまうことが、怖かったからだ。店内全てに響く声で怒鳴ると、俺は、三千円を財布から出して卓に置くと、無言で鞄を持ち、去ることにした。
「おいデブ! 待ちやがれ! 話はまだだぞ!」
上司。お前にはーー言いたいことが山程ある。
「デブだから何だ!! お前は俺がどんな思いで会社にいると思ってやがる? テメーやこのクソ共に媚び諂って、やりたいこともやれることもさせて貰えないで、テメーらの下らないストレス発散と尻拭いやってやってんだぞ!? その上で話があるだと? 貴様ァ……舐めるんじゃねえ!!!」
気がつけば、上司の両方を掴んで吊り上げていた。上司はがくがくと震えたあと、がっくりと首を下げ、白目を剥いた。その顔に驚いて、さっと手を下げると、そそくさと鞄を持って店を出た。
心臓はバクバクだった。やってしまった。殺ってしまったか? こんなんじゃなかった。毎日毎日媚び諂って、生きることも悪くは無かった。無かったはずなのに。どうしてーー。
どうして。俺はこんなにも震えて、浮ついていて、歯もガチガチ鳴っているのにーー。
「なんっでこんなにスッキリしてんだあ!」
その日を境に、会社には行かなくなった。ウチでひたすら好きなことをやる日々を送ることにしたのだ。後から聞いた話だが、あの後、すぐに上司の汚職が発覚し、上司や結託していた同僚はみんな、一人残らずクビになり、会社の経営も怪しくなって、結局倒産したらしい。ネットニュースで人の名前は伏せられてたけど、多分そうだろうと思った。
「でも、なんであんなことしたんだろうな」
あ。
烏賊の、一夜干し。誰も食わないからって、押し付けられてた。あれは、俺の勝負飯。
そうか。俺は映画を見ていたパソコンをふと止めて、窓の外を見る。今まで、俺は無理をするのが当たり前だと思っていた。しかし、それは違った。無理をしたらそのしわ寄せが必ず来るのだと、どこかの誰がが言っていたようなことがあった。
俺は、どこか遠くに行きたかった。今、俺は自由だ。なら、何処へだって行ける筈。本当に自分が自分でいられる場所に、行きたい。
「……よしじゃあ行ってみるか。ようし!」
烏賊がくれた勇気に感謝。今は気の合う仲間と一緒に暮らす日々。俺は、また勇気を失った時、烏賊を食うだろう。その烏賊を食ったなら。俺は、勇気を存分に振るう。俺や尊敬できる皆のために。皆の誇りのために。