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ヤマダヒフミ自選評論集

改めて村上春樹について

 



 以前に自分が村上春樹について言及した文章を読み、(大した事言っていないな)と感じたので、現在から見える事を書いておく。


 まず、村上春樹に関しては、人々の「なんだかんだ言っても村上春樹は全世界にヒットしたから凄い」という意見があって、自分もそういうコメントを貰った事がある。


 で、自分は常にそういうものが「終わった」地点から話を始めるのだが、いくら話した所で、最終的には人はそこに話を戻す。何故なら、人々(「人々」というのは哲学概念のように使っている)にとっては正にそれこそが判断基準であり、それが「終わった地点から話す」という事の意味がわからないからだ。


 だとすると、お(ヤマダヒフミ)は一体、誰に向かって語っているのか、という話になるが、これは一旦置いておく。


 さて、今言った事は前置きだが、これは村上春樹という作家の本質にも繋がっていく。村上春樹が「自分には作家の才能がある」と見て取るポイントは、村上春樹が「売れた」「ヒットした」という事と関係していて、それはまた今の消費社会の肯定と繋がっている。そう見る。


 村上春樹の小説というのは、大きく言えば消費社会肯定の小説であるし、村上春樹の悲劇が本格的なものに伸びていかないのは、彼が自分の中の深い核について意識し得ていない部分があり、その核は今の消費社会と一致して、前方に伸びているからだ。村上春樹の小説がなんとなくポジティブな方向に伸びていくのが可能なのは、彼が売れているという事と、彼を評価した消費社会との方向性の一致というものが考えられる。


 で、人と話すと、この「一致」に関しては疑わない、という事が前提としたゲームが常に展開されるので、僕などは孤立と疎外を感じる。そして、例えば僕の孤立と疎外も、それはそのようなゲームにおいていかなる位置を占めるか、という風に人々には見られる。例えば、僕が自分の孤立と疎外について書き連ねたものが百万部売れたら、人はそれを評価するだろう。すると、僕の孤立と疎外については、もはや全く見えないものとなってしまうだろう。


 さて、現代の状況はこのようなもので、そうした人々のゲームが行われている。このゲームの中ではウィトゲンシュタインであろうとニーチェであろうとアインシュタインであろうと、彼らの中核にあった天才性(それは世界からの疎外と見る)もまた、消失してしまう。彼らは我々のゲームの中に入ると、「天才」のレッテルを貼られつつも、巧妙にその天才性は除外され、我々の嗜好に合うものに変化させられる。


 村上春樹がかつての古典作家を引用したり、影響を受けたりするのも、こうしたものによく似ていて、彼は古典的なものを絶えず自分の基準にまで押し下げつつ利用する。その利用は今の社会の方向性とある程度は一致している。


 結局、今の社会では文学であろうとなんであろうと「面白いかどうか」という事が基準であり、「なんか好きじゃない」とネットに書き込めば、それだけで否定の作用を持つと信じられている。では、百万の人間が「なんか好きじゃない」と言えば、それは客観になるのかという問いにイエスと答えるのが、現在の大衆社会であり、民主主義的な世界であると思う。

 

 そのような世界において、村上春樹が自分には「作家の才能がある」と信じて小説を書く事ができるのは、彼が「面白い作品」を作る事、そして広範な読者を獲得した事と連携しており、それゆえに彼の自己肯定は、多くの人々の自己肯定とも繋がっていく。またこの社会でなんとなく生きていく事とも繋がっていく。


 また、不況の文学業界が村上春樹を取り扱うという事も、例え村上春樹を批判しようとも、結局はこの大衆社会のゲームを前提とする上で成立するものであって、その事が村上春樹本人と一致したある方向を示唆している。


 この社会のゲームにおいては、人はそれ以外の基準が理解不能であるために、だからこそ、「なんだかんだ言っても村上春樹は凄い」という評価になり、「村上春樹はファッションでしょ」という人もただその人が別のファッションを好んでいるという結果にしかならない。


 ここまで書くと、おそらく人はじゃあ「面白いか面白くないか以外」の基準で行われるゲームは存在するのか、と問うであろう。僕はそれを、例えばカフカに見出し、アルチュール・ランボーに見出し、ドストエフスキーに見出す事は可能であると思う。だが、それもまた言及した途端に、この世界のゲームに参加させられる事になり、そこでまた、村上春樹が彼らを読むような読み方以上の読み方はされないであろうと想定できる。


 ここまで書いてきて、何が言いたいのかと言うと、村上春樹というのは結局の所「そういう作家」であるという事で、彼が「そういう作家」である事を望む人が大勢いる以上、そういう作家であり続けるだろうというそれだけだ。カフカが自分の運命を覗き込んだ時、人々が「お前は将来多くの人々に評価されるよ」と声を掛け、それによって問題が解決するのか否かという事。またゴッホが、将来的に自分の絵が何十億という値段で取引されるであろう事を知って、救われるのかという事。世界によっては救われない自己の物語を見つめるからこそ、彼らは偉大になったと僕は信じるが、村上春樹にはそのようには見えないだろう。村上春樹が自分もまた「総合小説」を書きたいと思った時、何故総合小説を書かねばならないのか、という問いは彼の頭に浮かばなかったであろう事。

 

 …そうした事はこんな風にも言い換えられる。優れた作家は、作品によって世界と争闘するが、普通の作家は世界に認めてもらおうとする。現在では、世界を超越するのではなく、世界に従う作品という作品形式以外にどのような作品も考えられない。そんな時に、我々にとって「傑作」が形式としてしか見えてこないのは必然だろう。そしてこの必然を破るとはどのようなゲームであるのかというのは、「この」世界のゲーム内では示されない。もし、村上春樹が真に天才であれば、彼は今のような安楽な表情はしていなかったし、今のような取り扱い方はされていなかっただろう。そしてドストエフスキーやカフカは常に、「我々」にとっては未知なものに留まるだろう。


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― 新着の感想 ―
[良い点] なにか凄いことを書いているように読めるエッセイであること。 [気になる点] 「村上春樹」論になっていないように思いました。エッセイ中の「村上春樹」を同時代で、知名度もある「村上龍」と読み替…
[一言] まず、価値は売れていることとは端的に関係がないと思います。売れた小説が凄い小説だというわけではまったくない(小説が「売れたこと」自体は当然ながら大きな効果を持ちますが)。文学状況に対する把握…
[一言] 一言のみで失礼します。特に気になる所は無かったので、作品として、しっかりと読む事が出来ました。 一つだけ掴んだ人のイメージが、村上春樹さんにはあります。一瞬の時代だったのか、一瞬の風だった…
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