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作者: 高草木喬

日々生きていると、どうしようもなく焦燥に駆られてしまう。

それが何処からくるものなのかはわからないし、知ろうと思ったところで知れるものでもないだろう。

毎日なんでもない日々を生活している、ただそれだけでさえ言いようのない不安に襲われる。

横断歩道で立ち止まった時。ベッドから起き上がる時。電車に揺られている時。始業を待っている時。

今ままで歩んできた道、これから歩んでいく道について意味もない思索に耽ってしまう。

小難しく考えこんだところで歩んできた道程が変わるはずもなく、これから歩む道は定まらない。

それなのに、考えが止むことはない。


毎日毎日、流れ去っていく日々の速さに驚くことがある。

ついこの間まで小学校ではしゃぎ回っていた無垢な少年は今、大学の隅で講義を受けている。

これが次に目を開いた時には、自分はしわくちゃの老人になり、また次に目を見開けば何も為せずに死んでいるのではないかとさえ思える。


中国の古詩に曰く、<少年易老學難成>、また<一寸光陰不可輕>という。

受験の漢文参考書で、嫌というほど見たこれらの言葉が、改めて身に染みる。

無為に過ごした時間の多さを悔い、またその悔いていた時間を悔いる。

為せば成る、為さねば成らぬとは日本の藩主の言葉だが、まったくもってその通りでしかなく、先人の言葉の大きさ、偉大さには恐れ入ってしまう。


人に流され、局面に流されてきた我が人生を想う。

それもまた運命、善き哉、などと、さもそれが自分の選択の一部であるかのような考えを抱いてきた。

しかし、仏教の徒でもあるまいに、そのような処世をする意味などあったのか。

ただ過ぎ去っていく世の中を目の前にして、いかに自らが主体性を持って関わっていくか。

<僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る>高村光太郎。

近代日本の精神を現した詩の一節だが、蓋し名文だろう。

人の道を往く人でなく、自ら道を切り拓き往く者でありたい。

それが十代を最後にした私の、想いである。

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― 新着の感想 ―
[一言] 久しぶりに聞きました。 少年易老學難成、一寸光陰不可輕 少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずるべからず。 その立場の刻は、ふつう気がつかぬものです、 ふと、振り返ると無駄だと思って…
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