18話:藤の娘と武人の舞踊
舞台披露の日がやってきた。
振り付けも完璧、舞台装置も整い、チケットは無事完売。
舞台裏で三途は青ざめていた。舞台開演直前はいつもこうなのだ。
「こわい?」
武人の衣装に身を包んだ神流が、優しく聞いてくる。
「少しな」
対する三途は、華やかな衣装で身をまとう。武人の寵愛を一身に受ける花の精、という役だ。化粧もばっちり、衣装で細くも筋肉質な体は隠してある。誰もが女と見まがうことだろう。
女の役を演じるのはこの街にくる前にも何度か経験した。むしろそちらの役を演じる方が神流よりも上手いほどなのである。
だが三途は、この時間が苦手であり克服もままならなかった。
舞台に上がってしまえば緊張も恐怖も不安もすべて忘れて全力を出しきれるのだが、どうしても直前という雰囲気には慣れることができない。
「三途はいつもこの時が怖いもんね」
「慣れなきゃな、とはわかってるんだけど」
「仕方ないよ、人には乗り越えられる試練と乗り越えられない理不尽があるんだから」
「かもな」
表舞台の裏に位置する楽屋。ここには三途と神流だけが残っている。顔なじみの月華やマデュラたちはすでに客席へ待機していた。
女装姿でいる素の自分をみせるのをかたくなに拒んだ三途のしわざである。演じている時の自分を見るのは存分にかまわないが、舞台を降りた自分は見せたくないのである。
「きみなら、すぐにすべて忘れて、花の精になれるよ」
「ありがと。神流もな。俺をしっかり口説いてくれるだろ。武人として」
「もちろん。
だって僕らは、舞台の上でなら何にだってなれるんだから。武人でも戦士でも、人形でも精霊でも幽霊でも、何にだってね」
「……そうだったな」
「うん。さあ、いこ」
神流の手を三途が受け取った。素の神流と会話しているうちに、緊張は消えた。
舞台が開演された。
街の中央広場を陣取り、移動式の中型舞台を設置してある。観客はおよそ100人ほど。この舞台にしてはそこそこ集まった方だ。
天気は晴れ。風一つ吹かず、日常の喧噪もいつの間にか静まりかえっている。最高の舞台日和だ。
りん、と鈴の音が、舞台袖からかすかに鳴った。観客の耳と視線がそちらに集中する。
袖から、藤色を基調とした装束の者が現れる。花の精に扮した三途だった。
編み笠を目深にかぶって、赤色の髪と黄金の目をもったいぶって隠している。その手には藤の枝。一歩一歩丁寧に、控えめな歩調で舞台中央まで進んでいく。
舞台裏から、鈴の音と琴の音が流れてくる。花の精の動きに合わせて音が強くも弱くも鳴る。観客はその音と花の精の仕草一つに釘付けになる。
花の精が首を傾げるように、空のむこうを見上げる。ああ、ここはどこだ、と視線を泳がせ、果てには己の姿に戸惑う。まるで自分が人の姿であることが奇妙であるかのよう。
手にしていた藤の花の枝を軽く振ったり枝を指でなでたり、その表情こそ見えないが、唇はかすかに端をあげている。愛おしげに枝を握りしめ、それでも拭えぬ不安を抱えている。
花の精はーー三途は言葉一つとして紡がない。だが彼の演じる花の精の感情は愛情と不安二つを行ったり来たりと豊かに変わっていた。
藤の枝を頼りに、舞台の端から端を右往左往。
上手にいつの間にか現れていた藤の大木を見つけた花の精は、食い入るようにそれを見つめる。枝から垂れた藤の花を指でつついた。
何かを悟るように動きが一瞬だけとまる。
自分が、この木に宿っていたことを知った。いつの間にか、自分は人間の姿になって、藤の樹から離れていたのだ。
自分の出生に衝撃を受けた花の精ーー藤の娘。このまま樹に帰れなかったら? という一つの可能性を見つけだしてしまったから大変。
樹にすがりついて戻ろうとするもそれはかなわず。
樹へ祈りを捧げても、得意の舞踊を奉納しても戻れない。しまいには樹を小さな拳で叩いたり、白いつま先で蹴ったり。それでも何も変わらない。
途方に暮れた藤の娘はくったりと、その場に座り込んでしまう。
傘からのぞける唇には落胆の色。今の娘の支えになっているのは、いつの間にか手にしていた藤の枝だけだ。
すると。
鈴と琴の音に混じって、軽快な太鼓の音が合わさってきた。
太鼓の拍がだんだん短くなって、それに乗って勇ましい笛の音までもが並んだ。
藤の娘の後ろ姿を見つけたのは、武人だった。熟練の手練れというにはまだ初々しく、武人になりたてというにはそのたたずまいには強い自覚と自信が合わさるその男。
そろそろと、藤の娘へと近寄ってくる。泣いているのかそうでないのか、娘は背後の武人に気づかない。
武人はそっと手を伸ばす。割れ物を扱うように、指先には優しさがこもっていた。
おそるおそる藤の娘の肩にふれた。
気づいた娘が、一瞬肩をふるわす。そっとそちらをに顔を向けると、知らない男が立っていた。傘で顔を隠しながらではあったが、ふたりの目が合わさった。
武人の目が衝撃に変わる。今まで剣をふるってばかりいた武人には、その娘の美しさが際だってみえた。
武人を見つめる藤の娘には恐怖がまじっている。武器を持ってしかめっ面をしていた男が自分にふれてきたら、そう感じるのも無理はない。
惚けた武人とおびえる娘。ふたりは長く目を合わせていた。
永遠ともいえる時間を断ち切ったのは、太鼓の音だった。ふたりしてはっとする。ふたりだけのこの空間で、雨が降る。
ひとまず武人は娘の手を取った。すぐ近くの自分の屋敷に連れて行く。
娘は手を引かれながら、そそくさとついていく。
場面が切り替わって武人の屋敷。簡素で涼やかな畳部屋。
室内に入っても編み笠をとらない娘に武人は首を傾げた。
半ば無理矢理、そっと 編み笠をほどいた。いやいやする娘はかたくなに袖で顔を隠す。
たまらなくなった武人は強引に娘の手首をつかみあげる。細い細い腕は間単ににぎりつぶせる。
武人はやっと娘の顔をみることができた。
そして娘が笠をずっとかぶったままだったのも、何となく察しがついた。
娘の髪は炎のように赤かった。藤の精である娘にとっては、これが何よりの重荷になる。藤の樹から生まれたのにどうして髪は赤いのか。
娘は恥じらいに顔を赤らめ、笠を奪い取った。自分のコンプレックスをさらしてしまったことへの苦しさが、手のかすかなふるえに現れる。
だが武人はそんな髪に惹かれた。赤い髪と黄金の目。藤の精にとってはあまりに不似合いな姿であっても、武人にとっては何も奇妙だとは思わなかった。
武人が、笠を優しく奪い取る。
いやいやと娘はそれを取り返そうと手をのばした。だが華奢な娘の手では武人の手を捕まえることはできず。逆にとっつかまえられる始末である。
今にも暴れて泣きそうな娘と、武人の男。
武人は娘の髪を優しくなでる。指を通して愛おしげにくちづけた。
娘は驚いて袖で口を隠す。藤から生まれた精の自分が、藤とは似ても似つかぬ髪色をしているというのに。この男は気にもとめず、それどころか慈しむ。
優しげに髪をなでる武人に、柔和な微笑が生まれた。さっきまでの堅い表情は消え、切なげに娘をじっと見つめる。
みられている、と気づいた娘の顔がぼっと赤くなる。目をそらそうと顔をそむけるが、武人の手が熱くなった娘の頬をやんわりつかまえた。
とんとん、と穏やかな太鼓に合わせて琴が鳴る。琴に寄り添うように笛の音が流れてくる。穏やかな風が吹き込んだ。
武人の、娘を必死に求める表情が舞台で映えた。
恥ずかしさに耐えられない娘は、目をそらせない。黄金の瞳が潤んだ。
武人がそっと手を娘の頬から肩へと移す。
ゆっくり時間をかけて抱き寄せようとしたが、娘が我に返って拒んだ。
娘が笠をかぶって屋敷から立ち去っていく。
止めようとのばした武人の手が、むなしく空をつかむ。
泳がせていた手を胸に寄せる。その手には何も残らなかった。
シーンが切り替わって、最初の藤の樹木の下。
娘は藤の樹木にすがりつく。樹を撫でつけ華奢な腕で抱きしめるも変化はない。
樹は娘に何の反応も示さなかった。樹から娘が生まれたというのに。
藤の精である娘は、必死に樹を呼び起こそうとした。
ああそうだ、と一つ思いついた顔。
笠をはずして扇子を握る。きっとこの舞いを奉納すれば、樹は自分の存在に気づいてくれるはず。
そうして娘は一心不乱に、自分の思い浮かびうる限りの足取りで地を踏みしめる。
どうか気づいて、どうか。そんな気持ちでいっぱいの娘には何の余裕も見あたらない。
だがその必死な姿は妖艶であり清楚であり。子供にも見え大人にも思え。
手の指先はぴんと張りつめ、赤い髪咲きが舞うごとに空気に揺れる。
着物の裾がなびき、衣擦れの音が生まれていく。
ひとしきり舞った。娘の息が少しあがっている。肩で呼吸しつつ、笠を拾い上げた。
ところが、藤の樹木はずっと動かない。荘厳にたたずんで、じっと娘を見下ろしているだけだった。
樹にぺたっと手をおいてみても、いっこうに変化は生じない。
娘の落胆は大きかった。
空をあおいで、声にならない慟哭が響く。自分は藤の樹の一部だったのに。藤の花の一部であったのに。
まるで樹に拒まれたかのように、娘はいつまでも人間の姿のままだった。
泣く気力さえ失った娘は、樹の陰にぺったりと座り込む。うずくまって笠に顔を隠す。顔をかたくなにさらそうとしなかった。
そして追いついていた武人の男。
声をかけようとしたがためらっていた。武人は、娘が舞いを奉納する直前にはすでに追いついていたのだ。
だが娘の演舞を目の当たりにし、声も出ず足を動かすこともできなかった。
娘の舞は、ただ美しかった。あれほど妖しく澄み切ったひとつひとつのステップに、武人は心を完全に奪われたのだ。
娘が気の済むまで舞うのをじっと待っていた。突っ立っているだけだったが、不思議と足に痛みはない。それどころか、娘の奉納演舞に心を強く揺り動かされた。胸元を思わずぎゅっとつかむ。
自分は、あの娘に強い思いを抱いていた。




