第9話 邂逅 - 12.27.1595
これは奇跡だ。奇跡以外の何ものでもない。
その女の子は、今度は逃げなかった。怖がっている様子ではあったけれども、立ち止まって、こちらをしっかりと見た。
「こんにちは…」
「……は、はい」
目が合う。綺麗な瞳だ。背は少しばかり低い。あと、ちょっと、大きい。
「この前は……逃げてしまって、ごめんなさい」
「いやいや、こちらこそぶつかってしまって……」
女の子はハルをちらっと見て、再び視線を自分の方に移した。
「…あなたたちの、お名前は?」
「俺はロブ。こっちがハル。どうぞよろしく」
「なるほど…、わたしは、ソフィア・キャロルといいます……よろしく」
ソフィアはうつむいた。キャロルという姓は聞いたことがあったが、何の家か、その時はパッと思い出せなかった。
「…………―――」
「…………―――」
当然ながら会話はそこで止まった。お互いに黙りこくって、よそよそしく顔を見合わせていた。
「…………―――」
「…………―――」
「あ、あの」
沈黙を破ったのはハルだった。見かねたのか。
「もしよければ、皆でどこかでお話をしませんか?」
まさかのお誘いだ。いや、自分もできるならそうしたいけれども。やっぱりこいつは強い。
「あ…その……はい」
少し考えてから、ソフィアは小さく頷いた。
「じゃあ、どこがいいだろう――あっ、この近くに公園がありましたっけ?」
「……あっ、はい、あそこに――」
ソフィアの視線の先に、小さめの広場があった。
「じゃあ、あそこで」
ハルが言うなり、そちら一直線にすたすたと歩いていく。自分とソフィアも後を追う。
公園とはいっても、雑草を抜いた空き地に所々花を植えて小綺麗にしているだけのような場所だった。ベンチたるものが設けられていたので、皆でそこに座った。自分が真ん中で、右手にハル、左手にソフィアという位置だ。他に人はいなかった。
ハルはそっぽを向いて、何も言わない。自分の心の内を見透かされているような気がした。ソフィアは少し不安げにこちらを見ている。
「……あなたたち二人は、お友達?」
「まあ、一応…」
あまり身分は明かさない方が良いと思った。当分はただの庶民でいよう。向こうに気遣いさせてはいけない。
「その、あなたは…いくつ?」
「俺? 14だけど…」
「あら、本当に? わたしもだわ。あの子も?」
「いや、ハルは12だよ。あいつの方が大人っぽく見えるけど」
「そう? うーん…でも、そう言われたらあなたの方がお兄さんに見えるわ」
「そんなことないよ、俺なんか全然…」
女の子にこんなことを言われるのは初めてだった。悪口を叩かれることについては慣れていたが、こっち方面の耐性はなかった。顔が勝手に緩むし、やけに暑かった。
「あなた――ロブ、だったかしら?」
「お、おう、そうだけど」
顔を覗きこまれる。くすぐられているような気分だ。いつものようにあまり見られたくない、というよりは、とにかく恥ずかしかった。普段は前髪がある程度隠してくれていたけれども、今日もこの前も変装のためにきっちり分けて丸見えに近かった。
「綺麗な目をしているのね」
耳を疑った。ソフィアは確かに、俺を見て、それを言った。綺麗な碧い目のハルはずっと、どこか別の場所に顔を向けている。
「え、俺が?」
「ええ。とても澄んでいるわ」
こんな濁った色の目を褒めてくれるのも、想定外だった。
「そんな、こいつの方が綺麗だって。ハル、こっち向いて」
ハルが自分たちの方を見てくれた。片目だけでも十分だ。
「あら、あの子の目も綺麗ね。あなたたち二人とも、素敵な人なのね、きっと」
「…ありがとう、ございます」
ハルはそれだけぎこちなく言って、またそっぽを向いた。
「恥ずかしがり屋さんなのね、あの子」
「いやぁ、いつもはあんなのじゃないんだけどな…」
「うふふ、どうしたのかしらね」
これはハルの気遣いだろう。自分とソフィアの会話は聞いているようであった。
「あっ」
「ん?」
「髪の毛にホコリが付いているわ」
「えっ、どの辺?」
「後ろの方よ。取ってあげる」
ここで“大丈夫、自分で取るから”とかを言えなかった。ソフィアは俺のうなじ辺りの髪を、少し引っ張った。隠していた長い髪が服の中からスルスルと抜けて、それに伴って前髪も落ちてきた。後ろを束ねていなかったので、余計ボサボサになった。
「…………―――」
ソフィアが固まった。こうなることを一番に恐れていた。誤魔化すと余計に気を悪くさせそうだったから、こちらはできるだけ作った顔はせず、何も余計なことは言わないようにした。ハルは少し驚いた顔をしてこっちを見ていた。
「その…ごめん……」
怖くてソフィアの目が見られなかった。また怖がらせてしまった。
「――あの、大丈夫よ」
優しい声が耳を撫でた。おそるおそるソフィアの顔色を窺う。
「ごめんなさい、隠していたのね…。でも――」
ソフィアは、微笑んでいた。
ますます怖くなった。ソフィアが改めて俺の頭に手を伸ばし、撫でるようにして埃を取ってくれた。
「もう、取れたわ。髪の毛、元に戻す?」
「…………」
どうしてここまで優しいのか、分からなかった。首を縦にも横にも振れなかった。視界が徐々に滲んできた。せっかく話す機会をハルが作ってくれたのに、こんなところで――
「――――っ、…………」
鼻をすすり上げた。自分で自分のことをコントロールできなくなった。ちゃんとした理由はない。自然に溢れてきたのだ。ハルもソフィアも、背中をさすってくれた。落ち着くまで、少し時間がかかった。
***
ロブが突然泣き出したことにはビックリした。泣いているところ自体初めて見たけれども、いつも強がっているのを見ていたせいか、どういうわけか、安心した。しばらくして泣き止んだと思ったら、こんな見た目だから疎んじられるとか、自信がないとか、その他もろもろ本音らしきものが口からボロボロと零れた。それでも身分のことには触れなかった。
僕はただ、ロブが彼女――ソフィアさんのことを気に留めていたようだったから、この機会に、どうせなら少しだけでも、二人が親しくなればいいのではないかと考えただけだ。
そのうちにロブが我に返って、また顔をぐしゃぐしゃにした。とても取り乱している。ソフィアさんの様子次第でよっぽど引き上げようと考えたけれども、この状況でソフィアさんは微塵も離れようとはしなかった。
「大丈夫。彼は彼、あなたはあなたよ。気にすることないわ」
「――――」
むしろいい感じなのではなのか。見守ることにした。やがて疲れたのだろう、おとなしくなった。それどころか一言も喋らなくなった。魂が抜けたみたいに、無の表情でぐったりとしていた。
「あ、あら……」
「ごめんなさい、いつもはこんなのじゃないんですけどね」
さすがにこれにはソフィアさんも困っていたので、助けた。
「普段あまり女の子と話したりしないので……」
「ほんとに? とても気さくに話してくれるから、意外だわ」
今、ロブを挟んで喋っている。半分聞かせているようなものだ。これ以上ロブのメンツが潰れないように、気を付けたつもりである。
「――でも、まあ、とてもいいヤツなので、今度また会った時も仲良くしてくれたら、嬉しい
と思います」
二人のやり取りが見ていて面白かったから、また会うこと前提だ。ロブの手を引くと、ひょいと簡単に立ち上がった。同時にソフィアさんも立った。
「それでは失礼します。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう……」
「…………」
ソフィアさんはにっこり笑って、ゆっくりとした足取りで立ち去っていく。ロブは顔面が死んでいる。回復するまで、またまた長くなりそうだ。姿が見えなくなったら、ロブの髪を元通りきっちりと整えてあげようと考えていた。
「――あっ」
と、ソフィアさんが立ち止まり、振り返った。
「あの……」
「…どうしましたか?」
数歩こちらに近づいて、ロブの顔を覗く。
「わたし、またここに来るわ。もしよければ、その時もお話しましょう」
「…………」
きっと、ロブにとってはこの上なく嬉しい言葉だろう。表情は変わらずに目だけソフィアさんの方を向いた。ソフィアさんはひとときロブに目を合わせ、微笑んで今度こそいなくなってしまった。だいぶ時間が経っていたが、やはり他に人の出入りは見かけなかった。
「ロブ、髪の毛元に戻してあげる」
「…………いい」
感情のないぼやけた声で、ロブは答えた。決して怒ってはいなかった。でも、むやみに構うのもどうかと思ったので、そのまま人目を避けながら帰った。
***
やらかした。
早速やらかした。
最悪だ。
今日はなんて日だ。
ソフィアの目の前で、醜い姿をこれでもかというほどに見せてしまった。せめてソフィアが自分のことを忘れる頃まで、消えてしまいたい。
ソフィアに優しい言葉をかけられただけで、心の奥底がほっこり温かくなった。他人にあんな風に褒められるのは初めてだったからだろう。
そして、長い赤毛があらわになった時、ソフィアは驚いたものの、怖がったり逃げたりしなかった。前にぶつかった時は単純にビックリしただけだったのかもしれない。でも、今日のは――。
あの微笑みに、胸が熱くなった。何より辛かった。今までハルの前でさえも我慢していたものが、ソフィアの前で爆発した。どうしてこんなことになったのだろう。しばらく考えていた。ある結論を除外して。
「ロブ、おーい」
ハルが自室の外からドアを叩いていることに気付いた。躊躇したけれども、ハルに無駄に心配させたくなかったから開けた。化粧はキレイに落としてあった。
「どうぞ」
ハルを部屋の中に入れようとした。そういえば、帰ってから髪を束ねるのを忘れていた。あと、ハルが前で立ち止まっているので、不思議に思った。
「晩ごはんできたって」
「あ…そっちか」
言われてみれば、もうそんな時間だった。とにかく、今日はどうかしている。髪を束ねてから、ハルと一緒に晩餐の場へ向かった。
ハルが言っていた通り、街で食った飯の方が美味かったかもしれない。後妻の子は笑みを浮かべていた。普段から笑顔だけれども、いつもよりも澄ました顔に見えた。何故だろうか、思わず目を逸らした。見ているとなんだか嫌な気持ちになった。
今夜何を食ったのかは覚えていない。風呂の後、改めて自室にハルを呼んだ。
「あのさ――今日は、いろいろ、ありがとう」
感謝しなければならない。ハルは、自分とソフィアが会話する機会を作ってくれた。自分がそれを有効に利用できたかは疑問に残るけれども。
「いえいえ。途中だいぶビックリしたけど、また会いたいって言ってくれてたし、良かったんじゃないの?」
食事の時にいろいろ他のことを考えていて、先程よりも少し気が晴れていた。
「でも、まあ、そうだな――また会いに行こうとか考えてるのか?」
「ああ、近いうちに行こうよ」
「即答だな」
「今度は、一人で、喋りに行ってね。僕は近くの見えないところに隠れておくから」
「え?」
どういうことだ。というか、まだ早いだろう、それは。
いや、もしかして、ハルも……?
「僕は違うよ。でも、ロブの選択は、間違いないと思う」
心の声も丸聞こえなのだろうか。勘が鋭くなっている。
「だって、顔に書いてあるじゃないか。一昨日から、ずっと。それも、今日のでくっきりした」
間を空けて、とどめの一発だ。
「――いい加減、認めなよ?」
他人からこうはっきり言われて、腹が立つ人もいるかもしれない。でも、自分にとっては、かえって助かる。もやもやしていることを白黒させようとしてくれるから、気が楽になる。
「でも、早すぎる気がするんだ。喋ったのは今日が初めてで…」
「そういうのに早い遅いはないよ、たぶん」
ハルは確信を持っているようだ。
「分かった、じゃあ――認めるよ」
俺は――――。
しかしこれは叶わぬ願いである。キャロル家のことを思い出した。クレメンス家は魔力のある家で、向こうは名門とはいえ、ない家だ。ある者とない者の間の子は、ないことが多いと聞いたことがある。それではここの家にとって、話にならないのだ。
いずれ会えなくなるとしても、彼女とのひとときを大切にしよう。心の中で言い聞かせるように、そう宣言した。