第18話 清閑 - 6.20~7.3.1605
5月に入ってから、ついにハルと会えなくなった。
以来、食事に誘われて行っても、重い空気が漂っていた。メグも父親に会えないからか、表情が少し暗かった。
確か、6月から7月と言っていた。あと数十日で、ハルは――
ハルには苦しんでほしくないけれども、一日でも長く生きていてほしかった。最後に会ったときに、ハルは百合の花が好きだと教えてくれた。だから、少しでも癒しになるようにと、毎週のように花をエイリー家に届けた。毎回決まって五本。俺とソフィア、そして三人の子供の分だ。
それでも良い知らせはない。日々衰弱していくハルの様子を、ただ家の人から聞くばかりだった。
――なんとか、22回目の誕生日を迎えることはできたみたいだ。 去年は盛大に祝われて、恥ずかしそうに笑っていたハル。今年は病床で、独りで何を考えているのだろう。
その日も いつもより豪華な花束を持って行っただけで、直接会うことはできなかった。ハルは喜んでいたという。
一目 会いたい。特に大した話題はなかったけれども、また二人で話をしたかった。
そんなとき、再びハルと会うことができた。
これが最期の、面会だった。
ハルは か細い息を立てながら、ベッドに横たわっていた。
***
部屋に入ると、お腹の大きいエマとその両親がいた。メグは別室にいるということで、俺たちも子供をメイドに預けた。
「ロブ……ソフィアさん……」
その虚ろな瞳が、出逢って間もない頃のハルを思い出させた。でも、そのときとは意味合いが大きく違う。あの頃の瞳には、ぼやけていても力があった。しかし今は――
「ありがとう……来て、くれて」
ハルは確かにこちらを見ている。なのに…なぜか、目線が合わない。
「ハル……」
俺は両手で、ハルの右手を覆った。握り返す力はあまりにも弱く、手首が異常に痩せ細っていた。
「…………―――」
向かいで、エマは肩を震わせて泣いていた。それにつられて、俺も目が潤んできた。
「泣かないで……」
ハルが かすかに、優しい笑みを浮かべる。全てを包み込む天使のような、そして今にも消えてしまいそうな切ない微笑みだった。我慢できなくなって、ボロボロと涙が零れた。
時間の問題だ。どのような言葉をかけようか。
「…………ハル、」
と、横に並んでいたソフィアが口を開いた。
「ありがとう」
「――――!」
「もしあなたがいなかったら、わたしたちは結ばれなかったもの」
「……ソフィア」
ハッとさせられた。ハルも少しだけ、目を見開いた。ソフィアは涙目になりながら、なんとか堪えていた。
「…そうだな。ハル――今まで、ありがとう」
「…………お二人とも、こちらこそ――」
ハルはまた、儚げに笑った。
……そうだ。やはり最期は、エマに看取られた方が望ましいだろう。
「エマ、前に……」
俺とソフィアは一歩下がり、エマに譲った。
「あの、メグを――」
「いいよ…エマ。こんなところ――見せたら、メグ…傷つくかも、しれない」
「でも……」
「お願い」
ハルは拒んだ。エマだけでなく、俺たちにとっても辛いことだった。
エマはハルの左手をぎゅっと握った。二人の薬指には、お揃いの指輪がはめられている。
「……エマ」
「貴方に逢えて、良かった……」
「…僕もだよ、エマ……」
気がつくと、ハルも目に涙を溜めていた。エマのお腹に目を向けたのと同時に、はらりと零れた。
「大きくなったね……」
エマはハルの左手を取り、そっと自分のお腹に触れさせた。俺はソフィアに、まだ使っていなかったハンカチを渡した。
「ねぇ、エマ」
「貴方…」
「僕のこと……忘れないで」
「ええ、絶対忘れないわ」
「……死にたくないよ」
「――――っ」
エマは身を埋めるようにして、ハルに顔を近づけた。それを受け入れるかのように、ハルはゆっくりと目を閉じた。
まだ、ハルの唇や胸元は動いていた。俺たちも近づいて、二人の様子をじっと見つめていた。
「愛してるよ……エマ」
「私も…貴方のこと、愛してるわ――」
「子供のこと、頼んだよ……エマも、いい人見つけて――」
「そんな……貴方ほど、私たちを愛してくれる人なんて…」
「――きっと、いるよ。僕は、信じてる」
とても小さな声で、このような言葉を交わしていた。
それからどれくらい時間が経ったか、分からなかった。
エマはそのまま、眠っていた。しかし両親と俺たちは、その瞬間を見逃さなかった。
ハルの手が、力なく滑り落ちるときを。
ハルの唇が何かを呟いて、動きを止めるときを。
花瓶に生けられた白百合が一つ、花びらを落とした。
もう、涙は流れなかった。全ての苦しみから解き放たれて、ハルは安らかに眠りについた。静かな、穏やかな死だった。
両親は、エマを起こそうとはしなかった。俺たちも黙って、ただ二人を見ていた。この後も、少なくともジョーとビリーには、この光景を見せずに終わった。
6月20日。7年前の夜、あの街を抜け出した日だった。
***
葬式は家族と俺たちだけで、ささやかに行われた。
あれからもエイリーの主人は、俺たち一家を食事に呼んでくれた。メグは、エマに上手いこと言われたせいか、割と晴れ晴れした表情だった。
そして7月3日、俺も24歳の誕生日を迎えた。その日は付き人同伴でエマ親子が来てくれたが、ハルがいない誕生会は、どこか虚しかった。
エマたちが帰った後、子供を寝かせてから、ソフィアと二人でハルについて話し合っていた。
「――あのお腹の子のことも、抱いてほしかったわね」
「そうだな……あと、この子もできれば」
ソフィアも、日ごとにお腹が大きくなってきた。ジョーやビリーのときと同じように、二人でお腹を撫でたり、話しかけたりしていた。
「そう……そういえば」
「そういえば?」
「あなたは知っているかもしれないけど…ハルがまだ元気なときにね、エマがこんな話をしてくれたの」
「おう、どんな話?」
気になった。元気なときの話なら、落ち込んだ気分から少し立ち直れそうな気がした。
「ハルって、とても不思議な人だって言ってたわ」
「あ~、確かに。例えば、どんなこと?」
「うーんとね…いつも近くにいるのに、目を離したら、そこから忽然といなくなってしまったように感じるんですって」
「忽然と……」
「ええ」
思い出してみた。確かに、ハルはとても綺麗で周りの人を惹き付けたけど、視界にないときの存在感は本当に薄かった。
「……言われてみればそうだったな。やっぱり鏡に映らないからか――あ」
口が滑った。正しくは、別に秘密ではなかったけれども、今まで言っていなかっただけである。
「そう! それもあったわ」
「――えっ?」
意外なところで、ソフィアが声を高くした。
「婚約する少し前に、言ってたんですって。ハルは“気持ち悪がられるかも…”って思ってたみたいだけど、むしろ面白かったって、エマが言ってたわ」
「面白かったのか、あれ……」
エマもそんな不思議なものに心惹かれるのか。似た者同士だ。そう思うと、自然と口元が緩んだ。
「あいつは良い弟だっ――――!?」
そのときだった。
「うっ…………ああぁぁ……っ」
一瞬、俺自身も、何が起こったのか分からなかった。
「あなた……!?」
張り裂けそうなほどの激しい頭痛が突如、俺を襲った。身体を起こしているのにも耐えきれず、床に身を投げ出した。
「あなた…………!!」
すぐにソフィアがしゃがみ、俺の背中をさすってくれた。でも、それさえ忘れるほど、痛みに侵された。もはや、声も出なかった。
次第に、意識が遠退いてきた。ソフィアの声が、どこかへ行ってしまう。
こんなところで、俺も……死ぬのだろうか。まぶたの裏に、親父の顔が浮かび上がった。これは――
***
「…………?」
“目”を覚ました。ここは――“ベッド”の中だ。
「ロバート」
壮齢の“男”に、声をかけられた。見たことのない人だった。“ロバート”とは、“誰”のことだろうか。
「お前のことだ、ロバート」
……自分の、ことだった。“俺”は、“ロバート”なのか。自分というものさえ、“何”なのか把握できていなかった。
「よくやった」
男はこちらを見て、笑っている。でも、あまり嬉しくない。 それどころか、危険を感じた。
「あなたは……誰?」
「私は、お前の“お父様”だ」
“父親”だという男は、俺の頭を撫でた。妙に優しくて、かえって怖かった。
「そしてお前は――我がクレメンス侯爵家の、長男だ」
周りを見渡す。俺が寝ているベッドはとても大きく、部屋も広くて、何かと豪華だった。俺はこんな家の、坊っちゃんということか。
「今日はゆっくりしろ。何かあれば、うろついている使用人でも取っ捕まえて私に言うように。廊下はともかく、勝手に別の部屋に入ってはならんぞ」
そう言って、父親は部屋から出て行った。
一気に情報が入り込んできて、少し頭が痛くなった。でも、これらが全てだった。今 父親から与えられたものと、今 俺自身が目に映しているもの、耳に聞こえてくるもの、鼻で嗅いでいるもの、肌で感じるもの、これら以外のことは知る由もない。“ない”ものを知ることはできない。
煩わしく頭から垂れ下がっているものがあった。長くて波打った、赤い“髪の毛”だった。
そうだ――せめて自分の“顔”だけでも、今すぐ知っておきたい。何だったかは思い出せないけど、そんな“道具”が、確かあったはずだ。
ベッドから出て、辺りを見ると、壁に“鏡”が掛けられていた。これだ。そちらに歩み寄った。
真っ先に映ったのは……長い前髪から覗く、ギョロっとした灰色の瞳だった。
「…………」
特別、驚かなかった。これが“俺”なんだと、すぐに受け入れられた。
少しだけなら部屋に出ても良さそうだったが、その気にもなれなかったので、もう一度ベッドに潜り込んだ。
***
「……あなた!」
ハッと、目を覚ました。ここは――
「あなた……良かった」
ソフィアが俺の頬を撫でた。俺は倒れた場所にそのままいた。良かった…生きていた。
「ソフィア……ごめん」
「謝らなくて良いのよ。あなた…大丈夫?」
「おう、一応……」
もう頭痛は消えていた。ゆっくりと、身体を起こした。ソフィアも同時に立ち上がる。
「ジョーとビリーは…起きてない?」
「ええ、きっと――あまり大きな声じゃなかったから」
「そうか…なら」
良かった、とソフィアに笑いかけた。ソフィアが目にうっすら涙を溜めていたので、指で拭ってあげた。
「ありがとう、ソフィア」
「いえいえ……ああ、良かった……」
「遅くなったな…寝る? それとも、もう少し――」
「いえ、寝ましょう。あなたは休んだ方が良いわ」
「よし」
原因は分からないままだけども、とりあえず治まったから良いことにしよう。ベッドの中で、ソフィアが俺の方を向いて左手を伸ばしてきた。俺も左手で、それを握った。二人とも、お揃いの指輪を身に着けていた。




