13 林檎パイ
ユハ視点です。
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カールの家の玄関を開けると、中から甘いいい匂いがした。
俺は甘いものが好きだ。
男のくせにと言われるが、非番の日には、城下町の菓子店で新作菓子を買い求めるのが一番の楽しみだ。
漂ってくるのは、林檎とバターの香り。
カールの奥方が、菓子でも焼いたのか。なんの菓子だろう。
鼻を利かせていると、奥から人影が現れた。
「おかえりなさい、カー・・・あ、こ、こんばんは。
はじめまして、ルチノーと言います。いつも夫がお世話になります。
送ってくださったんですね。すみません。ありがとうございました」
居間に案内され、カールをソファに寝かせる。
深々と頭を下げた彼女は、印象的な強い瞳をしていた。
なるほど、これはカールが隠したがるわけだ。
様々な人種が集まる王都でも珍しい、銀とも見まごう白髪と、紅玉のような瞳。
透き通るような白い肌は、生まれてこの方、日の光を浴びたことがないかのようだ。
・・・体が弱いと言っていたから、本当に外に出たことが少ないのかもしれない。
「どうも、夜分遅くにすみません。少し飲ませすぎてしまったようで・・・。
ブルクハルト国親衛隊、ユハ=アウノ=テラストです。噂の奥方に会えて光栄です」
「噂の?」
小首をかしげて、きょとんと俺を見る。
そういえば18と言っていたな。小柄なせいか、もう少し下にも見える。幼さの残る動作がかわいらしい。
「えぇ。俺たちがいくら連れて来いっていっても一向に連れて来ないから、どんな女性なんだろうと噂になってたんですよ。こんなかわいらしい方だったとは。カールが見せたがらないのも納得です」
「そんな・・・」
女性と話すのは苦手が俺だが、酒のせいかすらすらと言葉がでる。
カールの奥方は、白い頬を染めてはにかんだ。
これで本当に人妻だろうか。カールの奴、実はあまりの歳の差に、まだ手を出していないのではないか?
それほどに彼女は初々しい。
ところが、その時俺は、気付かなくていいものに気付いてしまった。
ショールで隠された胸元に覗く、赤い跡。
カールに愛された証だった。どんなに清純そうに見えても、彼女も所詮女か。
まぁ、当然だよな。結婚しているのだから。
そうは思ったが、不意に黒い感情が芽生えた。
「奴はモテるせいか一人に執着しなかったもんでね。女といえば、遊びの相手。
いつでもとっかえひっかえで、まさか結婚するとは・・・あ、失礼」
俺の言葉で、彼女の表情が曇る。
何を言っているんだ俺は。飲みの席の、男同士の会話じゃないんだぞ。
「少し・・・聞いてはいますけど・・・。
今は違いますよね・・・?」
胸の前で合された両手が、わずかに震えている。
必死の瞳が、俺をじっと見つめてきた。
罪悪感が胸をえぐる。
「ももも、もちろんです。今俺が言ったのは、同僚のマルリってのがいるんですが、こいつがすごくおしゃべりで、あることないこと言いふらしてるんですよ。そんな奴の根も葉もない噂話です。
カールがあまりに可愛らしい奥方をもらったものだから、つい羨ましくなって口が滑りました。
俺は近衛騎士時代からずっとカールと一緒に勤めてますが、こいつの女関係の話なんてほとんどでまかせです。あの容姿ですから、女性に人気があるのは当然ですけど、生真面目なこいつはちっとも相手にしなくって。
だからそんなカールが結婚したって聞いて、みんな驚いたんですよ。今日の飲み会もそうですが、隊でも毎日惚気話を聞かされててね。若くてかわいらしい奥方だっていうから、一度お会いしてみたかったんです」
俺は冷や汗をかきながら、必死に言い訳をした。
いまだかつて、女性相手にこんなに饒舌になったことはない。
「まぁ、そうだったんですか。あ、私ったらお茶もお出しせずにすみません。もしよかったら、パイもあるんですけど、いかがですか。こんな時間に食べるのはいけないかしら」
ぱっと笑顔になった彼女が椅子を勧める。
玄関で感じた匂いは、パイだったのか。
「いえ、いただきます。甘いものには目がないんです。実は、お邪魔したときから家中に漂う甘い香りが気になってました」
「くすくす。そうだったんですか。昼間林檎のパイを焼いたものですから。お口に合うといいんですけど」
そう言って彼女は、きれいな焼き色のついたパイと、花の香りのお茶を出してくれた。
「あ、うまい。ほどよい甘さで、林檎の食感もしっかりあって、うまいです」
「ありがとうございます」
向かいに座る彼女も、同じお茶を飲んでいる。
椅子が2つしかないところを見ると、今俺が座っている席に、カールがいつも腰かけているのだろう。
そして、こんなふうに彼女の手料理を食べている―
「菓子作りはどこかで勉強を?」
「そんな、とんでもない。ただの趣味です。知り合いに作り方を聞いたり、自分の好みで分量を調整したりするだけです」
「へえ。いや、ほんと、うまいですよ。
んん、あそこの味に似ています。城下町にあるアドルフ菓子店。人気の老舗なんですよ。
同じ系列の店の知り合いでもいらっしゃるんですか?」
「ええ? そんなんじゃないです。そんなに似てますか?」
「そうですね。味付けのバランスといい、生地の感じといい、そっくりです。砂糖だけじゃなくて少し蜂蜜を入れてますか?」
「入れてます。あと干し葡萄」
「ああ、なるほど。この甘さは干し葡萄か。アドルフもそうなのかな」
中身の林檎を取り出して、小さくちぎって口に運ぶ。
舌に乗せて味わうと、深みのある甘さが感じられた。
「ユハさん、お詳しいんですね」
「あ・・・すみません。つい夢中になって」
初対面の女性の前で、何をやっているんだ、俺は。
思いがけず好みの味に出会って、家で新作菓子の分析をするように味わってしまった。
「ううん、嬉しいです。カールもおいしいって言って食べてはくれるけど、そんなに甘いものが好きなわけじゃないから。
このパイ、自分ではうまくできたと思ってるんですけど、ちょっと作りすぎちゃって、どうしようかと思ってたんです。おいしそうに食べてもらえてよかった」
「そうなんですか? たくさんあるなら、いただいてもいいですか?」
「もちろんです。ご家族はいらっしゃいますか? お一人? じゃぁ切ったものを箱に入れますね」
台所に立った彼女は、ほどなくして箱にいれたパイと茶葉を持って戻ってきた。
「このお茶は前の赴任先の特産品なんです。香りはいいけど味はあっさりしてるので、お菓子に合うかと思って。
よろしかったらご一緒にどうぞ」
「ありがとうございます。お茶もおいしかったです」
そういえば辺境で出会ったと言っていたか。
カールめ、左遷先でこんな出会いがあるとは、運のいい奴。
「ユハさん?」
「あ! いえ、うちで大事にいただきます」
差し出された箱を、受け取る途中だった。
小首をかしげた彼女が、俺を見ている。
癖なのだろうか。さらりとゆれる髪に目を奪われる。
「くすくす。本当に甘いものがお好きなんですね」
口元に手を当て、おかしそうに笑う。
もっと笑ってほしい、その笑顔をずっと見ていたいと思う。
こんな感情、どんな女性にも抱いたことはなかった。
なんてことだ。カールの奥方だぞ。人妻だ。
動揺しつつ帰りの支度をしていると、彼女がカールに声をかけにいった。
「カール、寝室で寝よう? ここじゃ風邪をひくわ」
「ん・・・」
酔い潰れたカールに、起きる気配はない。
「よければ、俺が運びます。おいしいお菓子のお礼に」
遠慮する彼女を手で制し、もらった菓子の箱を置いて、半ば強引にカールを担ぎ上げた。
俺の心中を知らない同僚は、呑気に寝息を立てていた。
二階だという寝室に足を運ぶ。大きな寝台が目に入る。
ここで二人は毎日眠っているのだ。
くそっ
降ろし方が多少乱暴になったのは仕方あるまい。
「では、帰ります。ご馳走さまでした」
「いえ、ありがとうございました。ぜひまた遊びに来てください」
「・・・いいんですか?」
「え? えぇ、もちろん。さっきも言いましたけど、カールはお菓子あんまり食べないから、ユハさんがおいしそうに食べてくれて嬉しかったです。そうだ。また何か作ったら、彼に持って行ってもらいますね」
「職場に持ってきたら、味のわからない輩に食い尽くされます。
そんなもったいないことしたくないな。食べに来ます。いつでも呼んでください」
「やだ、ユハさんったら」
ころころと笑う彼女。
伸ばしかけた手を押さえるのに苦労した。
「あいつ、どうせ二日酔いだと思うので、明日は午後からでいいって言っておいてください。
上司には俺から話しておきます」
「わかりました。何から何まで、ありがとうございます。おやすみなさい、お気をつけて」
「はい、失礼します」
ぱたんと閉じられる扉。
内側から鍵がかけられる音が、寝静まった通りに響く。
ほどなくして家の明かりが消えるのを、俺は路地に立って見つめていた。
宿舎に帰り、自分の部屋の寝台に横になる。
独り身の俺は、一軒家は面倒で、近衛時代からの宿舎にずっと住んでいる。
机の上には、彼女にもらったパイの箱。
頭の上で手を組んで、ルチノー、と口の中で呟いてみた。
それだけで、心にじんわりと温かなものがこみあげてきた。
まいったな。これは本物だ。
女なんて面倒だと、これまで言い寄ってきた奴らは相手にもしなかったのに。
よりによって、親友ともいえる同僚の妻に一目惚れするとは。
若すぎる嫁だと、マルリたちと共にカールをからかっていたが、人のことなど言えないではないか。
また遊びに来てください、と彼女は言っていた。
社交辞令だろうが、誘われたのは事実だから、これを口実にまた行ってみよう。
カールは嫌がるだろうな。
普段彼女を独り占めしているんだから、たまのお茶くらい許してもらおう。
さて、他にどんな手を使えば彼女に会えるだろう。
食材を持って行って、菓子を作ってくれというのはどうか。
図々しいだろうか。
アドルフ菓子店の菓子を持っていくのもいいかもしれない。
あのパイは、本当にそっくりだった。
独学でプロの味を出せるというのはすごい。
あとは・・・。
彼女を想うほどに目が冴えてくる。
空が白み始めても、一向に眠気は訪れなかった。




