6 ルゥのいない日
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「隊長! お茶! お茶! こぼれてますって」
「あ・・・すまん・・・・」
口に付ける前に傾けられたお茶は、そのまま机上にそそがれていた。
すっかり文字が滲んだ書類。書き直しだ。
「書類はもういいっすから、国境の見回りでも行ってきてください。
あ、シャツも後ろ前じゃないすか。着替えてから行ったほうがいいっすよ」
ギュンターが手際よくお茶を拭いてくれる。
「補佐官ってば、そんなにかいがいしいとは知らなかっただ」
「まるで世話女房っす」
「お2人はそういう仲だったんですね! 村の娘たちが悲しむっす」
背後で騒ぐ隊員たち。
いつもならそんな軽口は一喝していた。
でも今日は睨む気力さえない。
「あいつらには写本の作業を1時間増やしときますから。
顔洗って、見回りの後直帰でいいっすよ。家でゆっくり休んでください」
ん・・・と返事をして、ギュンターの言うとおり家に帰ることにした。
「補佐官、隊長どうしたんすか」
「まるで辺境に来た頃みたいに押し黙っちまって」
「あんな隊長、いじりがいがないっす」
「おまえら、写本2時間追加。一字でも間違えてみろ、明日の朝まで書かせるからな」
「ひでぇ!」
「横暴!」
「さっき1時間っていってたのに!!」
「ただいま・・・」
返事があるはずがないのに、つい習慣で言ってしまう。
ルゥがいない。
昨日は冷たい寝台がなじまなくて、一睡もできなかった。
ルゥ。
おまえの存在がこんなに大きくなっていたなんて。
棚から取り出した葡萄酒をグラスにそそぐ。
新年に飲んだときには、向かい側にルゥがいた。
舐めさせてみれば、顔をしかめてまずそうにしていた。
なぜおまえは行ってしまったのか。
俺より、エメとかいう魔術士のほうが良かったのか?
いままで2人でうまくやってると思ってた。
おまえはそうじゃなかったのか。
すぐに帰ってくる・・・はずだ。
でも別れ際、俺を一瞥すらしなかった。
俺よりエメの側のほうがよくなったら?
もう戻ってこないかもしれない。
床の上に、からっぽのルゥの皿が置いてある。
暖炉の前にはお気に入りのクッション。
新しくしたばかりの爪とぎ用の板は、まだ何の跡もついていなかった。
冷えてきた。
暖炉に火を入れないと。
夕飯、は、どうするか。
何も食う気がしないな。
ふと見ると、脱ぎもしなかった外套の肩に、ルゥの毛がついていた。
真っ白でふわふわの毛。
喉元を撫でると、ゴロゴロと鳴らして気持ちよさそうに目を細めた。
「ルゥ・・・」
たった一日しかたっていないのに、服についた毛すら懐かしく、俺は葡萄酒をあおり続けた。
*****
空を飛ぶこと一日。
孤児院のある街を過ぎ、夕方、王都に着いた。
「院長先生は王都にいるの?」
「えぇ。昨日は言わなかったけど、かなりお悪いの。親戚の人が高名な医者を探して王都まで連れて来たのよ」
そうだったのか。
院長先生はもうかなりのお年だった。
この冬の寒さも堪えたことだろう。
「猫のままじゃだめよね。私の家に寄って行きましょう。着替えも貸してあげるわ」
「ありがとう」
王都の一画。
住宅街から少し離れた場所に、エメさんの家はあった。
ここだけではなく、各地に家というか隠れ家のようなものがあるという。
「これ・・・着るの?」
エメさんに渡されたのは、淡い水色のドレス。
頭からかぶるだけの衣服しか着たことのない私には、触るだけでも怖いくらいだ。
「そうよ。コタルディっていう意匠でね、今王都で流行ってるのよ!」
手首から二の腕にかけては、ぴったりとした袖。
腰は体に沿うように絞られていて、裾はふんわり広がっている。
問題は襟ぐり。
「こ、こんなに開いてていいの?」
「いいのよ~。鎖骨のラインを見せるのが、色っぽくていいんじゃない!
ほら人間に戻って! 自分でできるわよね?」
エメさんに追い立てられて、衝立の影に隠れて目をつぶり、人に戻るよう強く念じた。
月齢に関係なく、ある程度調整できるようになっていた。
「ルチノーちゃん、あなた・・・・。孤児院に来たのは何歳ですって?」
なんとか自力で着て、衝立から出た私を見たエメさんの第一声がこれだった。
何か変かな。
胸が見えそうなほど襟が開いていて、落ち着かない。
「たぶん2歳くらいだと思う」
「そう。お父さんやお母さんの名前は憶えてる?」
「ううん。自分の、ルチノーと言う呼び名しか覚えてなかった」
「ふうん・・・」
「あの、変ですか?」
着方を間違えたかと、裾や背中を確かめる。
「そんなことないわ! カールが見たらびっくりするでしょうね!」
「似合わないから?」
「その逆よ! とっても素敵! お肌きれいねぇ。鎖骨もいい感じ!
胸もハリがあってうらやましいわぁ」
ぷにぷに。
いつのまにか結構育った胸を、エメさんがつつく。
「あの、ちょっ・・やめて・・・」
「いやぁん、かわいい! 飼い主に見せたら速攻襲われそうだわ」
「おそ・・・?」
「いえいえ、こっちのは・な・し」
こっちってどっちだろう。
「エメさんは着替えないの?」
「私は規則で万年魔術士服よ~」
「え、でもこの服は?」
「着られないけど好きなのっ つい集めちゃうのっ いっぱいあるから、王都にいる間毎日着せ替えしましょうね!」
「イエ、イイデス・・・・」
院長先生のいる治療院を訪ねる前、エメさんが両側の髪を編み込みにしてくれた。
「この赤いリボンは?」
「それはとらないで」
「くす、そういえば猫の尻尾についてたわね。
カールがくれたの?」
「うん」
なんだろう。
エメさんからカールの話をふられるたびに、頬が熱くなる。
こんなふうに他の人とカールの話をしたことがなかったからかな。
「よし、できたわ。今からいけば面会時間にぎりぎり間に合うから、急いでいきましょう」
「時間決まってたの? じゃぁこんな凝った髪型しなくても・・・」
「つれないわねぇ。久しぶりに会うお義母さんに、きれいな格好をみてもらいましょうよ」
「うーん・・・。まぁいっか・・・」