第四章 結 節三 夏休み
八月二十六日。
「えっと、水着と服とサンダル‥あと日焼け止め、他には‥」
「買う気満々だな、侑芽」
二人は立川駅ビルに来ていた。
「だって久々の旅行だし、気合い入るわよ」
侑芽に駅ビルの中を連れ回され、ランチを食べてマンションに帰ってきたのは夕方だった。
「九月一日出発かぁ。来週が待ち遠しいなぁ」
「そうだな。一年以上潜ってなかったから、器材チェックもしておかないとな」
それからも公園へ行ったり、映画を見たり、ゲームセンターで遊んだりと、二人だけの時間を過ごしていく。
また一日が終わっちまった‥固有領域みたいにカレンダーが進まなきゃいいのに‥。
ベッドの中、隣で寝息を立てる侑芽の髪を、剛は静かに撫でていた。
九月一日。
「ねぇーー剛は飛行機乗ったことあるの?」
「あるよ。大学時代にショップのダイビングツアーで沖縄に行ったから」
「そう‥今更だけど、本当に飛ぶのよね、これ」
「当たり前だろーーははぁ侑芽。初フライトで怖いんだな〜」
「違うわよ。別に‥ただ聞いただけよ」
窓際に座る侑芽が顔を背け、窓に目線を移す。
機内にキャビンアテンダントの声で挨拶と乗務員紹介が始まる。
『本機は間も無く出発いたします。シートベルトを腰の低い位置で、しっかりとお締めくださいーー那覇空港までの飛行時間は‥』
空港ロビーではワイワイと騒いでいた侑芽だが、搭乗してからは口数が減っていた。
シートベルトを締め終えた剛が侑芽の手を握ると、侑芽がその手をギュッと握り返してくる。
ジェットエンジンが吸気音から噴射音に変わり、機体は徐々に速度を上げると、滑走路から離れて高度を上げていった。
「何よ!笑い過ぎよ」
「いやだってお前ーー離陸した瞬間、どんな顔してたか見せてやりてぇ」
暫くムスッとしていた侑芽だったが、翼下に太平洋が見え始めるとそれを珍しそうに窓から見ていた。
那覇空港でランチを済ませ、飛行機を乗り変えた二人が宮古空港に降りたのは午後三時過ぎ。
タクシーでホテルへ向かいチェックイン後、オーシャンウィング三階の部屋に入ったのは四時だった。
「見て見て剛!海がすっごい綺麗。普通の青じゃないわーーなんかプールの色と同じよ」
「ビーチも東洋一のパウダーサンドらしいーー荷物の片付けは後にして、早速ビーチ行くか?」
「賛成!」
与那覇前浜はホテルの正面にあって、プライベートビーチのような砂浜である。
「買う時から気にはなっていたんだがーーその水着、かなり大胆だよな」
「へへっ、宮古島に行くんなら、ちょっと大胆でもいいかなってーーどう私の黒T?」
「どうって聞かれてもなーーいや似合ってるよ、お前スタイルはいいもんな」
「ん?なんか引っかかる言い方ね」
遠浅で真っ白な砂、少し陽の傾き始めた浜で二人は久々の海を満喫していた。
ビーチから戻った二人は、荷物の片付けを済ませると、剛がハーフパンツとラッシュパーカー、侑芽がサマードレスに着替えてディナーへ向かう。
「うわぁ‥何かどうしていいか分からなくなるくらい豪華な料理だわ」
「すげぇ。贅沢感半端ないな」
松明を照明にしたプールサイドのテーブルへ肉、海鮮、サラダなどの料理が次々と運ばれてくる。
「私もうだめーーこれ以上食べられない‥」
部屋に戻った侑芽がベッドにダイブする。
「大丈夫か侑芽ーー明日はガイドを頼んだダイビングショップに行って潜るんだからな」
夜、ルームサービスで頼んだカクテルを飲みながら、二人してバルコニーから階下に見えるライトアップされたプールサイドを眺めていた。
「なんか剛と一緒にーー夢みたい」
侑芽が体を寄せてくる。
「俺もだーーいろいろありがとうな侑芽。ずっと愛してる」
「それは私のセリフよ、剛ーー今は私だけを愛してね」
「侑芽‥‥‥そんなの当たり前だろ」
九月二日。
ベッドが軋むほど愛し合った二人が朝になって目覚めると、どちらも髪がぐしゃぐしゃだった。
「あはははっ!何よ剛の頭。ウケるんだけど」
「お前こそ鏡見てこいよ」
シャワーを浴び、髪を直してからレストランで朝食を食べる。
ホテルに手配してもらったレンタカーで二人は宮古島の中心、平良市へ向かう。
「25ノース。あそこだ」
カーナビに案内されて到着したのはダイビングショップ『25NORTH』だった。
そこからショップのワンボックス車三台で、他のツアー客と共に島の北部にある港へ向かい、そこでウェットスーツに着替えてからボートに乗り換え、八重干瀬というダイビングスポットへ行く。
Tシャツの上から袖の無いロングジョンと呼ばれるウェットスーツを着た二人の目にエメラルドブルーの海面が広がる。
ツアーガイドからダイビングコースと潮流や危険生物など注意ポイントの説明を受けた後、船上でバディチェックを済ませたダイバー達が、ボンベを背負ってボートの縁に海を背にして腰掛けていく。
ツアーガイドがハンドサインを出し、バックロールでエントリーすると、次々と順番にダイバー達がエントリーを開始した。
マスクを下ろし、レギュレーターを咥えた剛が侑芽にハンドサインを送ると、ボートの縁からバックロールで海面に背中から落ちていく。
落ちた直後に目の前で水面が煌めく、剛が最も好きなエントリー方法である。
続けて侑芽がエントリーし、水面で潜行のハンドサインを確認した二人がゆっくり沈んでいく。
太陽光が揺らめくエメラルドブルーの海中に、先行したダイバー達の吐き出す気泡が列になって続いている。
進行方向を侑芽に示し、並んで泳ぎながら深度を深くしていく。
水深五メートルから珊瑚礁が始まり、十五メートルくらいまでなだらかな岩礁が続き、およそ魚屋では見かけない紋様の魚達がひしめいている。
音の無い世界、自分の呼吸音だけ、それはSF映画『スペースウォーズ』に登場する敵ボスの呼吸音のようだった。
水深十八メートルか‥侑芽と潜るのはこれで何本目だったかな‥。
時々、横を泳ぐ侑芽の空気残量を残圧計でチェックする。
大丈夫、安定してるなーー最初の頃、バカみたいに空気吸う女だったのが嘘みたいだ‥。
ツアーガイドの指示で潜水時間は四十分、二本潜ることを想定して保険をかけた制限時間である。
浅瀬の方に侑芽が好きそうな魚が見え、侑芽にサインを出す。
侑芽が浅瀬に向かい、剛も後ろから追っていく。
クマノミ、スズメダイ、チョウチョウウオからウメイロモドキまで、関東の海では見られない彩りに侑芽は目を奪われていた。
「お魚、可愛かったなぁ。さすが宮古島って感じよね」
「魅力はここだけじゃないぞ。池間とか来間とかブルーホールやケーブという神秘スポットも多いんだ。ただ今はちょっと季節外だし、上級ライセンスも必要だから、また来‥‥‥」
言いかけた剛が言葉を結ぶ。
「ーーうん、そうだね。また来た時はそっち潜りたいね」
侑芽が剛を見て微笑んでいた。
二本目は一本目より外洋へ出て、ドロップオフでは深度も二十メートルを超えている。
深度と侑芽の空気残量をチェックしながら降りていく。
侑芽はまだオープンウォーター。レスキューまで取っている俺が、こいつをちゃんと見てないとな。
透明度があって光も届いてはいるが、それでも断崖の先を見れば、深淵に吸い込まれそうな神秘感がある。
ーー死後の世界ってこんな感じをイメージしてたけど、あの黄泉は違ったな‥。
ふと、剛の脳裏を黄泉で見た風景が過ぎっていった。
二人がホテルに戻ったのは午後五時前。
「あ〜久々のダイビング、面白かったぁ」
侑芽がまたベッドにダイブする。
「侑芽、まだ終わってないぞ。器材の塩を落としとかないと」
「はぁ〜い」
バスルームでシャワーを浴びながら、器材とバッグもシャワーの水で洗い、バルコニーに干す。
部屋に備え付けの琉球柄甚平のような室内着を着て、ディナーへ向かう。
二日目はホテル内のレストランでステーキだった。
「もう無理、食べられないーーこれ帰ったらダイエット確定だ〜」
「そりゃそうだろうよ。デザートのスイーツ制覇なんてするからだよ」
「だって、あんなの並べられたら食わねば女子の恥よ」
「何だ、それはーー朱鷺が言いそうなセリフだな」
剛は笑いながら冷蔵庫からオリオンビールを取り出し、栓を開けた。
「侑芽、泡盛も入ってるぞ」
「呑む!」
「お前、すごいなーー俺はそれ匂いが苦手なんだよな」
言いながらビールを呑む剛の横で、侑芽が泡盛をコクコクと呑んでいる。
「明日は車でショップの人からお勧めされた東平安名岬近くのスポットでシュノーケリングだからね」
「うん。吉野海岸だっけ」
剛がスマホで吉野海岸を調べているうちに、泡盛を空にした侑芽が椅子で寝落ちしていた。
なんだよアイツーー久々のダイビングで疲れたか‥。
椅子から侑芽を抱き上げた剛がベッドに運んで寝かせていく。
「‥ん‥つよし‥すき‥」
剛が振り向くと、侑芽の寝言だった。
九月三日。
「ちょっと売店に寄って行こう」
「何か買うの?」
「クロックスみたいなサンダルをねーー吉野海岸はかなり斜面を歩いて降りるみたいだから、こんなビーチサンダルじゃ危なそうだ」
売店でサンダルと一緒に昼の弁当と飲み物も買って、二人はレンタカーでホテルを出発していく。
「ここか」
カーナビに従って東へかなり進んだ先、吉野海岸の無料駐車場はあった。
「本当にこの先にあるの〜」
吉野海岸へ降りる道は整備されたものではなく、未舗装の細い道を腰近くまである雑草を踏み分けながら進んでいくものだった。
「サンダルーー役に立ったな」
「はぁはぁ‥こんな坂ーー無用の長物になった方が良かったよ〜」
そこは真っ白な砂浜で、左右を断崖に挟まれた、まさにプライベートビーチそのものだった。
「ここなら裸でもOKそうねーー私、裸になっちゃおうかなぁーーチラっ」
「何がチラっだーーお前の裸は見慣れてるよ。それに誰か来る可能性はあるんだから水着は着ておけ」
「ふ〜ん、そんなこと言って本当は私の裸、他人に見られたくないんでしょう、可愛い」
「なんとでも言え」
水着に着替えて波打ち際へ進む。
「すごい‥ねぇこれ、ほとんど真水みたい?塩っぱいのかな?ーーあっ、やっぱ塩っぱい」
「ああ、とても海の色じゃないなーーショップの人が勧めるわけだ」
そこは清流で川底を見るのと似て、水底の砂も魚も珊瑚も全て透けて見えるような透明な海だった。
マスクにシュノーケル、グローブをはめ、ブーツを履いてからフィンをつける。
「侑芽もTシャツは脱がない方がいいぞ。全力で背中が焼けるから」
「うん、わかってる」
水深も一メートル程度の遠浅な海で、そこに珊瑚や岩があり、クマノミやミスジリュウキュウスズメが至る所で泳いでいた。
水中ではわらわらと魚達が寄ってくる。
侑芽の方を見ると、剛よりも魚達に取り囲まれていた。
ーー俺さっき、裸は見慣れてるとか言ったけどーーこういうシチュエーションで見るとアイツ、水着でもエロいな‥。
太陽と透明な海水のせいで、より白く見える肌が黒いTバックを際立たせている。
一旦上がって、砂浜で買っておいた弁当を食べる。
「すごいね、ここーー最初は許せない場所だって思ったけど、だからこそなのね」
「これじゃホイホイと人は来ないだろうからな」
「クマノミとかたくさんいて可愛いし」
「そうだなーーでも岩には触るなよ。オニヒトデが結構貼り付いているから」
「わかったよ」
その後、存分にシュノーケリングを楽しんだ二人は東平安名岬へと向かった。
駐車場に車を止め、細長く続く岬を歩いていく。
岬の両側には見事なコバルトブルーの海が広がっている。
「こんな色の海ーー私、見たことない」
「俺もない。写真で見てた以上に実際の方が圧巻だ」
岬の先には灯台があって、上に登ることができ、展望デッキに出た二人は言葉を失っていた。
見渡す限りをコバルトブルーの海に囲まれ、澄んだ空が無限に広がっている。
侑芽は呆然となって景色に見惚れていた。
「侑芽」
後ろから剛の声が聞こえ、振り向いた侑芽の息が止まる。
ナイトのように剛が跪いて侑芽を見上げ、小さなケースを手にしていた。
「侑芽ーー結婚しよう」
剛が開いたケースの中で銀の指輪が輝いていた。
「えっ‥えっ‥」
両手で口を塞ぐ侑芽の目からボロボロと涙がこぼれ落ちていく。
「だって私は‥‥‥私がお嫁さんでいいの‥」
「いいんだ。それでもお前がいいんだ」
頷きながら侑芽が剛の前に左手を伸ばしていく。
ケースから取り出した指輪を、剛が侑芽の薬指にそっと嵌めていった。
「もう言っちゃうけどーー私ね、剛のお嫁さんになるのが夢だったの」
「そうか、嬉しいよ。俺は試験に合格したらプロポーズしようとずっと思っていたーー今日、フライングしちゃったけどな」
侑芽が剛に飛びつき、抱きついてくる。
そのまま剛も侑芽を抱き締め、唇を重ねていった。
東平安名岬を見て回り、二人がホテルに戻ったのは午後五時過ぎ。
和食ダイニングで宮古牛の和食コース料理を食べ、ホテル最終日の夜を二人で静かに過ごしていく。
海からバルコニーに吹く風は誰にも等しく、二人の頬にも優しかった。
九月七日。
「婚姻届。市役所で不備なく受理されたーー今日から染井侑芽じゃなく神谷侑芽だよ」
「剛‥」
市役所から帰ってきた剛の胸に侑芽が顔を埋める。
「これからも宜しく、侑芽」
「うん。宜しくね、あなたーー待って、やっぱダメ、剛でいい?」
「好きに呼べばいいじゃん」
二人で笑い合う。
「するとアレか、今夜が新婚初夜か」
「バカ。えっち」
その日、二人の部屋は夜遅くまで明かりが灯ったままだった。




