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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました  作者: 歩人


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第48話: 子供たちは元気です

 認可の翌週。


 冬の終わりの底を吹く風の方角が、昨夜までの北のひと筋から、今朝はわずかに柔らかい別の一筋へ傾いていた。雪解けの上の空気には、まだ冷たいけれどもう少し含みを持った土の匂いが、細く昇っていた。


 学び舎の板の敷石の手前に、ブラント様の灰色のローブの裾が立っていた。昨夜は坂の下の半分傾いた屋根の下に一夜お泊まりになっていた。書類の最上行に「王立認可教育機関 辺境第一学び舎」と書き足されたその翌朝から、ご自身の意志でもうひと晩、滞在を延ばしておられたのだ。


 「——認可記念式、と申しますか。同席の許可を、本日正式にいただきにまいりました」


 カタリナ様が半歩、進まれた。褐色の瞳の奥が静かに据わっている。日焼けした腕には、白い麻の布の包みが深く抱えられていた。


 「——あたしが包んだ。粥の蜂蜜を薄く練り込んだ、平たい薄焼きだ。十八枚、きっちり焼いたよ」




 板の床の手前に、十八の椀の蜂蜜色の湯気の縁が昇っていた。


 公爵家の三人。辺境のトビアス、ドロテア、エーリク様。フリーダさんのヨハン君とヤン君、そのほか坂の下の小さな肩が並んでいた。


 レオン先生が板の卓のいちばん奥へ進まれた。迷いの出る癖の右手がひらかれかけて、——ひらかれなかった。


 「——俺の喉の底には、『ありがとうございます』の九つの言葉しか置けません。それを先に、置かせてください」


 「——ありがとうございます」


 ブラント様の胸章の銀の縁が、深く傾いた。


 「——報告書の最後のページの下に、『子供たちは元気です』と書き添えてまいります」


 その短い一文が、私の翡翠色の瞳の奥に深く届いた。まだ、この言葉を私自身の声では置いていなかった。




 トビアスが半歩、進まれた。


 赤毛の縁は、昨夜カタリナ様の屋根の下で櫛を通されていた。耳の後ろには、湯で丁寧に拭われた薄く温かい温度がまだ残っていた。


 日焼けした指が、板の床の手前の節のすぐ上へ下ろされた。頬の外側がわずかに朱に染まっている。石榴ざくろのいちばん外の一粒の色だった。


 「——……先生」


 「——……ありがとう」


 「くそ餓鬼が」「ぱんをはんぶん」という粗暴な呼び名の、遠い延長線の上から、今朝、別の形の言葉が外へ押し出された。


 点は打たれなかった。


 私は膝を折らなかった。翡翠色の瞳の奥を、トビアスの褐色の瞳のいちばん深いところへ静かに置いた。大人の目が、ちょうど合う高さで。


 「——ええ、トビアス。こちらこそ、ありがとうございます」


 「——半月前、冬の終わりの朝、あなたが半歩、足を運んでくださいました。そのひと筋の半歩のところから、今朝のぱんの薄焼きの蜂蜜色の湯気の手前まで、——届きました」


 トビアスの赤毛の縁が、わずかに下ろされた。頬の外側の朱の一粒が、もう少し深く湿った。




 拍。


 ルーカス様の、小さなふたつの拍。エミリア様の柔らかなふたつ。マティアス様の丸くやわらかなふたつ。坂の下の子供たちの、たくさんの小さな拍。カタリナ様のゆっくりとした深い拍がふたつ。ブラント様の深い拍がふたつ。


 レオン先生が、深い緑の瞳の手前を私の翡翠色の瞳の奥へ深く置かれた。星空の下の草の斜面で「——君のそばに、いたい」と置かれたあの同じ温度が、今朝は別の形で、十八の椀の蜂蜜色の湯気の手前に静かに並んでいた。




 昼近く。畑のすぐ外の、凍りの溶けかけた土の上。


 冬の終わりの薄く柔らかな陽の、いちばん低い一筋の方角で、エーリク様が半歩畑のほうへ進まれた。四歳の丸い頬に、飴色の温度が保たれている。先月まで人参の半粒を口に運ぶのに泣いていた、同じ子だ。


 「——せんせーい。エーリク、な、——ほしがたのにんじん、たべたい!」


 声の縁で跳ねた「!」の温度が、低い陽の一筋へふわりと昇った。


 半歩、マティアス様。


 五歳の丸く小さな手のひら。着任初日、子供部屋の油灯の橙のもとで半粒の人参を皿の縁へ押し返していた同じ手のひらだ。


 その同じ手のひらが、今朝は半歩、畑の方角へ運ばれた。


 「——エーリクくん! 僕が、教えてあげる!」


 「!」がふたつ。五歳の喉の底から飛び上がった、二つの熱の粒。


 エミリア様が半歩、並ばれた。


 「——わたくしも、土を掘るところを見せてさしあげます」


 ルーカス様の灰色がかったやわらかい瞳の縁に、深く湿った一筋が昇った。


 「——マティアス。僕も、隣で見ていていいですか」


 ひと呼吸の沈黙に、五年分の兄の初めての譲りの半歩が深く保たれていた。




 マティアス様の丸く小さな手のひらが、土の表面の少し下へ差し込まれた。日焼けしたトビアスの黒々とした指が、半歩隣で同じ深さに並んだ。


 「——マティ。ここはな、土の縁のいちばん内側がやわらかい。先にひと筋、指を入れて、それから種を縦にひと粒だけ落とすんだ」


 「——ほしがたのにんじんって、種のときから、ほしがたなの?」


 「——ちがうよ。種は普通の丸い粒。でもね、フィオナ先生の薄い輪切りの、板のかたちが——星、なの」


 五歳の口の奥から、説明がひと呼吸で運ばれた。着任初日には「……にんじん」と口に預けるだけでスプーンが皿の縁へ押し返されていた、同じ喉から。


 ドロテアが半歩、進まれた。灰緑の瞳の奥が、マティアス様の畑の半歩隣へ深く置かれた。


 「——せん、せい」


 認可の日に呼ばれた六音よりも深く柔らかく、わずかにはやく運ばれた別の形の呼びかけ。「……」のためらいの温度が、今朝はもう少し吸い込まれた先に薄く保たれていた。




 カタリナ様の掌が、エプロンの手前の縫い目に深く預けられた。


 「——……あたしのエーリクが、よその子の短い指と並んで、土に指を差し込んでる。三十年、鍬を握ってきた。こんなの、なかったよ」


 私は膝を折らなかった。半歩、その肩のすぐ外に並んだ。


 「——いえ。あなたがエーリク様の底にある一粒の温度を半月のあいだ保ち続けてこられたからこそ、今朝、五歳の指の縁が隣の八歳の指のすぐ外に添えられているのです」


 カタリナ様の褐色の瞳の底から、ひと粒が頬の外側のいちばん薄いところまで深く下ろされた。初めて。




 昼すぎ、ブラント様が半歩、板の敷石の手前へ進まれた。


 「——フィオナ先生。それでは、これにて失礼いたします。半年、あるいは一年。次の査察で、再び立たせていただきます」


 私は膝を折らなかった。頭も下げなかった。翡翠色の瞳の奥を、胸章の銀の縁へまっすぐに置いた。


 「——次の査察まで、この半月分の手前の縁を、十三の小さな呼吸と一緒に保ち続けます。どうかお気をつけて」




 夕刻。


 戸口の板の縁のすぐ外に、紋章の外された茶の外套の使いが届いた。若く痩せたその袖口に、細い別の色の封蝋のひと筋が預けられている。深緑でも黒でもない。薄く鈍い、翡翠の縁のような一粒の色だった。


 マルタが、わずかに頷かれた。


 「——奥様のご生前の書簡箱の、いちばん奥の封蝋の最後のひと筋でございます。旦那様が本日、ご自身でお取り出しになりました」


 茶色の瞳の底に、八ヶ月前の奥様の銀色の睫毛の最後の一筋の温度が深く昇った。


 封は静かにほどかれた。


 「——フィオナ・メルツ殿」


 横線は、引かれていなかった。


 「——過ぐる半月ののち、五年分の観察記録ノート三冊を、夜を徹して読ませていただいたそのあとに」


 「——貴殿の四冊目のノートの下に日々添えられてきた、子供たちの小さな一粒ずつの温度。その遠い延長線の上に、私自身の五年分の、朝の廊下の頭下げの乾いた温度の厚さを、今、深く下ろしている」


 「——あの子たちは、辺境に残る」


 「——ひと筋、お願いしたい。何通でもよい。いや、一行でもよい」


 ひと呼吸。


 「——子供たちの様子を、知らせてほしい」


 十四文字。


 書面のいちばん下に「エドワード・ヴェルナー」が、薄い黒い粒の形で運ばれていた。「公爵」の二字は、添えられていなかった。


 点は、打たれなかった。




 竃の赤い残り火の奥で、薄い橙の層がひと呼吸ぶん、深く傾いた。


 私は右の手のひらの第三関節の内側の腹に封書を深く預けた。五年のあいだ広間の空気の縁に置かれ続けていた「所詮、子守係にすぎない女だった」という乾いた温度の厚さ、その遠い延長線の最後の一筋が、もう少し薄くなった。


 薄くなったそこへ、今夜別の言葉の温度が深く重ねられた。頷きではなかった。了承でもなかった。——同じ大人の目の高さの別の預かりの温度の厚みだった。


 板の卓の手前で、薄く白い紙を一枚取り出した。


 五年のあいだ、ルーカス様の「ち、ち……」の三音をほどくために置き続けてきた同じ鉛筆の縁。半月のあいだ、四冊目の観察記録ノートの下に三行ずつ置き続けてきた同じ薄い粉の層。


 その同じ鉛筆の縁で、白い紙の手前にひと筋、静かに運んだ。


 「——エドワード様」


 ひと呼吸の、小さな空白。


 「——子供たちは、元気です」


 九文字。


 点は、打たなかった。


 五年。私自身の口の奥からは「子供たちのためなら、私はどれだけでも我慢できる」という形でしか運ばれたことのなかった言葉が、今夜初めて、「ためなら」でも「だから」でもなく、ただ「元気です」という、いちばん手前のひと粒の温度の形で、静かに置かれた。


 ——これで、十分。


 書面のいちばん下に「フィオナ・メルツ」が、薄い黒い粒の形で運ばれた。点は、打たなかった。




 夜。


 板張りの小部屋のいちばん低いところで、五人の寝息がひとつに均されたまま保たれていた。


 ルーカス様は、竃の端の椅子の半歩横で寝息を均されていた。その寝息の縁で、灰色がかったやわらかい目がひと呼吸ぶん、わずかにひらかれた。


 「——……お母さま」


 寝言ではなかった。ひと呼吸、眠りの縁の深いところから昇ったひと粒。


 五年のあいだ、広間の奥の漆喰の縁で、「ち、ち……」の三音が「ヴェルナー家の血」という乾いた温度の厚さの手前まで詰まり続けていた、同じ喉の底から、今夜、別の四音が深く運ばれた。


 奥様では、なかった。


 その四音が、私の翡翠色の瞳の奥へ深く届いた。


 私は膝を折った。栗色のまつげの薄い縁へ、翡翠色の瞳の奥のいちばん手前の一粒を静かに置いた。


 「——……ルーカス様。ここに、おります」


 点は、打たなかった。


 十二歳の右の掌が指の第三関節の内側の腹でひらかれて、私の左の手のひらの指の縁に深く重ねられた。冷たくは、なかった。




 翌朝。


 薄明のいちばん手前の一筋の方角に、冬の終わりのもう少し柔らかな陽の温度の一粒が学び舎の板の壁の上へ届いた。


 戸口の、板の敷石の手前。


 カタリナ様が、二人の小さな痩せぎすの肩を深く抱えて立たれていた。


 「——フィオナ先生。ハンスとイルゼだ。坂の下のいちばん奥の家の、二人。今朝から、学びに来る」


 七歳の痩せぎすの男の子と、五歳の痩せぎすの女の子。


 私は膝を折った。翡翠色の瞳の奥を、二人の小さな瞳の底のいちばん手前の一粒へ静かに置いた。


 「——おはようございます。ハンス。イルゼ。ここは、学び舎ですわ。中は温かくて、粥の湯気の手前の縁が昇っております。どうぞ、お入りなさいませ」


 点は、打った。ひとつずつ、静かに打った。


 半歩後ろに、ルーカス様が静かに立たれていた。左の手のひらの第三関節の内側の腹に四冊目の観察記録ノートが深く抱えられている。


 「——フィオナ先生。昨夜のノートの次の、白い一ページ。ここに新しい一行目を、僕が書かせていただいても、よろしいでしょうか」


 「ち、ち……」の三音の遠い延長線の最後の一筋から、深くほどけた別の形の言葉だった。


 私は浅く息を吸った。五年とひと月半、私自身の指が鉛筆を預け続けてきた。その同じ指が今朝、深くほどけた。


 鉛筆は、ルーカス様の右の指の第三関節の内側の腹に静かに渡した。


 「——ええ。ルーカス様。どうぞ」


 点は、打たなかった。




 ルーカス様の右の指が、ひと呼吸ぶん止まった。止まった先で、鉛筆の縁の薄い粉のいちばん細いひと筋が白い紙の手前に深く下ろされた。


 静かに、ひと筋ずつ、置かれていく。


 「今、日、、新、し、い、子、供、た、ち、が、来、た」


 十三文字。


 点は、打たれていた。「今日、」のひとつだけ。その「、」のいちばん外に、十二歳の手のわずかな震えの手前のひと筋の温度が、深く保たれていた。


 私は半歩、ルーカス様の肩のすぐ外に並んだ。


 「——ルーカス様。いちばんはじめの一行でございます。このノートは、これからあなたの側から書き続けていかれてください。私は半歩、隣のところから、別の形のひと筋の温度を深く並べさせていただきます」


 「——……はい。フィオナ先生。半歩、隣のところで、お願いいたします」




 戸口の板の敷石の手前に、二十の小さな朝の肩がひと呼吸ずつ均されていた。


 トビアスの赤毛の縁が、ハンスの痩せぎすの肩に深く添えられていた。エミリア様の栗色のリボンの結び目が、イルゼの小さな痩せぎすの手のひらの手前に並べられている。マティアス様の丸く小さな掌が、ハンスの痩せぎすの腕の外側に深く添えられていた。


 ドロテアの灰緑の瞳の奥が、イルゼの灰色の瞳の底へ深く置かれた。唇が、わずかにひらかれる。


 「——せん、せい」


 イルゼの灰色の瞳の底から、深く震えたひと呼吸のあと、同じ言葉が遅れて別の形の湿った一筋で昇った。


 「——……せん、せい」


 薄く細い、けれども確かなひと筋だった。




 竃の赤い残り火の奥で、薄い橙の層がもう少し深く、夜明けの方角へ傾いた。


 私は肩掛けの薄い麻の織りの縁に、両の手のひらの第三関節の内側の腹を深く預けた。


 五年のあいだ続いた「所詮、子守係にすぎない女だった」という乾いた温度の厚さ、その遠い延長線の最後の一筋が、今朝、深くほどかれた。ほどかれたそこへ、別の、私自身の一粒の温度が静かに並べ置かれた。


 ——子守では、ありません。


 九文字。


 ——育てて、いたのです。


 九文字。


 声にはしなかった。八ヶ月前、奥様の銀色の睫毛の最後の一筋の温度から深く授けられていた、同じ十八文字。半月前、エドワード様が五年分の観察記録ノートの最後のページの下で、ご自身の声から初めて置かれた、同じ十八文字。そして今朝、私自身のいちばん深い底から、初めて声の手前の形で深く保たれた、同じ十八文字だった。




 新しい朝。


 「子守係風情」では、なかった。


 「都合のいい女」でも、なかった。


 私自身の場所。私自身の名前。


 フィオナ・メルツ。


 王立認可教育機関、辺境第一学び舎の教師。


 二十の小さな温かい肩へ、ひと呼吸ずつ私の翡翠色の瞳の奥が静かに届いていた。


 土の匂いの立つところ。昨日マティアス様とエーリク様とドロテアが差し込んだ星型の薄い輪切りの、種の下ろし口の下に、まだ芽は出ていなかった。


 出ていないまま、半月後かひと月後、あるいはもう少し先で、柔らかな緑のひと筋の新しい温度の粒が昇るであろうという、ひと呼吸分の予感だけが静かに預けられていた。




 封書を、もう一枚取り出した。白い紙の手前に、昨夜と同じ九つの言葉を、もう一度深く運んだ。


 「——子供たちは、元気です」


 九文字。


 点は、打たなかった。


 封蝋の外の一粒に、冬の終わりの柔らかな陽のいちばん低い一筋の方角の薄い橙の温度が深く預けられた。明日の朝、薄明の一筋の方角へ、街道の手前の橋の板の上へと運ばれていく、別のひと筋の預かりの温度だった。


 子供たちは、元気です。


 九文字。


 点は、打たなかった。

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