あいうえおホラー
夏のホラー2010投稿作品
朝、目が覚めて起き上がろうとすると、手足が金縛りにあったように動かすことが出来ず固まっており、体はベッドの上で横になっている状態のまま微動だにすることができなかった。
痛い所は無くただ体が動かせないだけのようだったが口や目は動かせるので、自分が昨晩自室で愛用のベッドの上で眠った時と、金縛りにあっている事と今が早朝である事を除いては、同じ状況だということは直ぐに分かり、異世界には来ていないようで多少ではあるが安心する。
上を見詰めると天井がいつもより低く感じるがしかしそれは錯覚だ、と余計な事を考えることでさっきから感じる嫌な予感を遠ざけようとしたが、遠くから感じる嫌な予感の根源は徐々にこちらに近づいてきているようで、思案とは裏腹に嫌な予感がどんどんと大きくなってくる。
絵空事だと思っていた様々な事――例えば巨大な怪獣の侵攻や未確認飛行物体の来襲、あるいは宇宙からやってきた侵略者の暴虐や異世界からやってきた凶悪魔法犯罪者といったものなどのフィクション――が頭をよぎり、もしかしたらという思いと、やはり有り得ないという思いが大戦争を始めようとしていたが、しかし大きくなる嫌な予感を双方が強大な敵と認識した事で互いに手を取り合ってその敵に立ち向かうことになり衝突は避けられたようだ。
音が聞こえない事に気付いて五感の全てを総動員してその予感が何なのかを感じ取ろうとまずは耳を澄ませたが、外から聞こえるはずの車の音も鳥の囁き声も一切聞こえてくることがなく、まるで世界にたった一人自分だけが生きているような気がして怖気がし、ここに至ってようやく自分の状況が甚だ異常であることに気付いて唾を飲み込んだ。
カーーンッ、と金属パイプのようなものが倒れる音がどこか遠くから聞こえてきた事で、体が金縛りから解放されて自分の意思で動かすことができるようになり、直ぐに立ち上がってジャージ姿のまま一応携帯電話と財布を持って両親のいる部屋を覗き、そこには矢張というか案の定というか誰もいない事を確認してから家から外に飛び出した。
気味の悪い風が外に出た途端に自分を撫でつけまるで外に出るなと言っているようで、その見えない意思に反抗するように駆け出して自分の足音と風の醸し出す不協和音だけしか聞こえないこの状況で焦る心を少しでも落ち着かせようとしたが、走れば走るほど生活感があるのに生活者がいないという矛盾が心に染み渡り更なる焦りを誘うばかりだった。
黒い点、始めその嫌な予感の根源を目にした時はそんな印象でしかなかったが、いくら歩いてもその大きさが変わったように感じられない事からその根源は非常に遠くにいる巨大物体であると分かり、興味半分恐怖半分でその根源に近付こうと歩を進めた。
結構な距離を相当な時間をかけて歩いたにも拘らず一向に小さいままのその物体だったが、同様に雲間に隠れた地平線にほど近い所にいる太陽の位置がさっきから一切変わっていない事が気になって携帯の時計を確認すると、深夜の4時丁度で止まっていた。
殺すのか、と聞こえないと思いながらも嫌な予感の根源に小声で問い掛けたのだが、意外にも否という答えが返ってきて二重の意味で、つまり答えが返ってきたこととその答えが否定的だったことに驚いて黒い点を見たが、特にその姿が変わることは無かった。
さっきから嫌な予感は何故かほとんど感じられなくなり、今の質問の答えも相俟ってその根源に近付こうとする意欲が失われたが、ここがどこか、あるいはどうなっているのか分からない以上は歩き回って何かしらのヒントを探して、早く元々のような状態に戻りたい。
しばらく歩くとあまり見慣れない白くて光沢のない、大きさは直径が1cmから大きいものだと20cmくらいもある球状の物体が山積みにされている場所を見付け、慎重にその中から平均的な大きさの物を一つ取り上げてみるとそれが石のような重さと硬さである事が分かった。
少しその辺りを歩いたが、特異な物はその球体のみでそれ以外にこれといって見つけることはできなく、戻ってきてもう一度白い石のような物体を見るとどこか見覚えがあるような気がして、少し頭の中を探ってみると一つの可能性に辿り着いた。
背中から手先足先にかけて震えが伝播して恐怖が全身を駆け回り、人が見当たらないことと白い石のような物体を考えた時に導き出されるその可能性が妙にはっきりと現実味を持ち、その場合の製造過程をリアルに思い浮かべてしまい、開いた口が塞がらなくなる。
その白い石が“人間の骨”であると、そして押し寿司のように固められた残骸だと認識した途端、黒い点でしかなかった物体の輪郭が徐々に曖昧になりいつの間にか空を覆い尽す程の大きさに変わって、その黒い体を白く見せる程の大量の眼球が一瞬にして現れた。
助けて、と心の底から思ったが、今度は返事が返ってくることもなく、朝起きた時に金縛りにあっていたのと同じように体が言うことを聞かないで固まったまま、その異形という表現が異様に陳腐に感じられる程の化け物を、目を反らすこともできずにただ震えながら恐怖を宿した瞳でじっと見つめていた。
血。
露のように空から血が降ってきて、それと同時に化け物から悲鳴が発せられ、自分はその音の圧力に押されて固いアスファルトの上に尻餅を突き、耳が痛くなるのを感じながらいつの間にか雨となっていた血をただぼんやりと眺めていた。
手前にある眼が突然潰れて黒くなり、それをきっかけにドミノ倒しのように他の眼にも伝波していき化け物は再び黒に戻ると、一回の音の無い咆哮の後その姿を霞のように消し去り、同時に降っていた、あるいは地面に溜っていた血も蒸発したように消えていた。
突然が連続して、忽然と消えた化け物に安堵していいのかどうか直ぐには判断できなかったが、再びどこからか聞こえてきたカーーンッという金属パイプが倒れたような音がきっかけとなって自分が硬直していることに気付き、深呼吸をして全身の筋肉を弛めてから立ち上がった。
何もかも、化け物も血も嫌な予感も白い石も、有り得てはいけない全てのものが無くなった事を、冷静さを取り戻した頭で再度認識して一息を吐き、何事もなく終わった事にあの化け物が殺さないと言ったのは本当だったんだな、と今更ながら思い出した。
人間でない生き物だったが何かしらの生物――例えそれが化け物であってもいなくなってしまえば同じことだ――がいることに小さな喜びを覚え、他にもいるのではないかという探求心を、もしかしたら自分の発する音以外が再び聞こえなくなった孤独感からかもしれないが、ともかく芽生えさせて大胆な行動を可能にしていた。
抜き足差し足と一種の興奮状態なのか特に意味のない歩き方をしながら無人であろう近くの民家に入ると、案の定誰もおらず、更には何故か電気や水道は通っており冷蔵庫にはこれでもかという程の食料が詰め込んであり、自分一人ならば半月は暮らしていけそうだった。
ネコ缶が混じっていた事には脱力したが、これでまず間違いなく他にも人間かそれと同等またはより高い知能を持った生物がどこかにいることが確実になり、その生物を探すというはっきりとした目標ができたことで安堵の溜め息を吐いた。
飲み物を見つけてそれを飲み今まで感じていなかった喉の渇きを潤し、いくつか日持ちのしそうな食料を持ちながらこそこそと泥棒のように家を出て、自分以外の生物を探すためにこのどこか空虚な世界を歩き始めた。
始めは、電気が通っているのだから発電所が動いているのだろう、ということで電線を辿って色々な所を見ながら発電所に向かうことに決め、一旦自分の家に戻ってTシャツとジーパンに着替え、履き慣れた運動靴を履いて軽くストレッチをしてリュックをしょってから外に出た。
一人旅というものは慣れてはいないが、必要だと思われる水と食料とナイフとロープと着替えを詰め込んだそれなりの重さのあるリュックをしょいこんでしばらく歩いたにも拘らず、ほとんど疲れていない自身の体に感心しつつも首を傾げた。
不思議には思いながらも悪いことではないので気にしないことにし、空に見えてきた高圧電線の山側に向かうように進路を変え、遠くに見える山の向こうにあるだろう原子力発電所を思い浮かべて、歩調を速くした。
減ることのないお腹や疲れることのない体、更に動くことのない時計と太陽のお陰で時間の感覚が既に無くなっており、起きてからどれくらいの時間が経っているのか一切分からないままに発電所まで辿りつき、なかば予想はしていたが人のいない雰囲気を感じて落胆しながら中に入った。
ほとんどの所を見てまわったが、収穫はコンピューターがまるで自分の意思を持っているかのように動いているお陰で電気の流れが止まることがないらしいことと、生死を問わずに生き物という存在が矢張見付からなかったことの二つだけで、どちらもこのまるで虚構のような状況を全く説明することができない。
まだ残っている気がする生き物の残滓のまとわりつくような感覚から逃げるように建物の外に出て、気分を変えるために体を伸ばしたり振ったりして軽くストレッチをしていると、突然どこか遠くから監視されているような視線を感じた。
見ている、というよりは全く興味が無さそうにただなんとなく傍観しているといった様子で、起きた時に感じたような嫌な感じも、当たり前かもしれないがそれとは逆の良い感じも無く、完全な無の視線が注がれている。
無の感情ならば無視をしても問題が無いだろうということで意識から外に出し、さっきから気になり始めた以前の自分にはなかった生物の雰囲気や視線を敏感に感じとることができる能力は一体何だろうかと考えたが何も思い付かず、ふと『注文の多い料理店』を思い出してそっと自分の手を見た。
目を疑いたくなるほどに骨と皮だけになった手を見て、これで食べられることはないと安心する気持を追いやり、慌てて全身を眺めると手と同じ様に肉がほとんど無くなって骨格がありありと分かる程に痩せほそった自分が映った。
もう筋肉ではなくただ骨と皮の絶妙なバランスでしか立っていなかったことを意識した途端、カーーンッというあの金属パイプが倒れたような音がなり、そしてバランスを失った体はどうすることもできずにうつ伏せに倒れ、それ以上はどうやっても動かすことができなくなった。
火傷をしたような幅の広い痛みが全身を襲い、僅かな思考の狭間で何故誰もいないのか何故時間が止まっているのか何故お腹が空かないのか何故電気が通っていたのか、何故骨だけが塊になっていたのか何故自分は痩せているのか、それらすべてから一つの事実に辿り着こうとしていたのだが、しかしその都度に答えに辿り着かせないような意志があるかのように痛みを感じて、のた打ち回ることもできずにただ痛みに耐えざるを得なかった。
夕陽のような、もしかしたら朝陽かもしれない、太陽の光が体の皮膚を溶かし始めたような錯覚を覚え自分の体に目線を落とすと、実際に皮膚が徐々に流れ落ち始めておりその部分から白い骨が見えていることに気付いたが、それ以外は何もできずに自分の体の異常な変遷をただ果てしない痛みと共に眺めることしかできなかった。
ようやく痛みが消えたころには、自分の体から皮と肉が消え去り、骨と血管と神経とそれらを繋ぐ僅かな筋が残るのみで、朦朧としはじめた意識では何も考えられずにただそんな自分を恐怖を感じることもなく、ただただじっと眺めていた。
楽になり色々と推理をしていつしか面倒になりどれくらいの時間が経ったのか、一年かもしれないし、もしかしたら一瞬だったのかもしれないが、あのカーーンッという音が聞こえてきたことで自分の体を動かすことができることに気付いてゆっくりと立ち上がった。
理解することを放棄してただ歩き、さっきまで傍観していた視線は捕食しようとする視線に変わっていることすら無視して、カクカクとまるで生まれたばかりのロボットのような緩慢でデジタルな動きで、しな垂れ落ちた血管が地面を這うことも気にせずに進み続けた。
類推した様々なこと――例えば無理矢理体力を消耗させることで肉を削ぎ落すだとか、骨になった人を玩具のように丸めて遊ぶのだとか――はもうどうでもよく、どうしようもできないこの状況に抗うこともせずに自分は流れに身を任せ、引き寄せられるように視線の方向に歩みを変える。
連動するように端の方から徐々に世界が崩壊していき、その奥から顔を覗かせたよく分からない模様が周りを完全に取り囲むと同時にいつの間にか自分は視線の下に辿りついていて、そしてあっと言う間も無く小さく丸められて彼方に投げ飛ばされた。
老獪な視線の根源はその軌跡を追うこともなく、新たな遊びを捜すために再び視線を外へと移し次の獲物を捜し始めたが、同時に首を傾げて人間の行動は論理的なのか非論理的なのかよく分からないことに疑問を感じたが、そこが面白いとも思った。
分からないことが一つ増えたが、それはまた無限に湧き続ける人間で試してみればいいと思い、新たな享楽が増えたことに喜びを感じていた。