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死んだはずの婚約者の名が、十年後の春に届いた。

作者: 冬月しるべ
掲載日:2026/03/16

死んだはずの婚約者の名が、十年後の春に届いた。


 春の終わりだった。


 窓を半分だけ開けた居間に、やわらかな風が入ってきていた。庭の白い薔薇が揺れ、薄いレースのカーテンをかすかに持ち上げる。帳簿を閉じ、冷めかけた紅茶に口をつけたところで、玄関の鐘が鳴った。


 応対に出た使用人が、どこか戸惑った顔で戻ってくる。


「お嬢さま、お届けものです」


「私に?」


「はい。ただ……差出人のお名前が」


 珍しく歯切れの悪い言い方に眉をひそめながら、私は差し出された木箱を受け取った。


 両手で抱えられるほどの、小さな箱だった。上等とは言えない木材で作られているのに、角だけは丁寧に磨かれている。長旅をしてきたのだろう。表面には細かな擦り傷がいくつも走り、金具も少しくすんでいた。


 けれど、そんなことは目に入らなかった。


 箱に括りつけられた送り状の文字を見た瞬間、私は息を止めた。


 エドガー・レーヴェン


 書かれていたのは、十年前に戦地で死んだと知らされた婚約者の名だった。


 そんなはずはないと思った。思ったのに、目を逸らすことができなかった。一文字たりとも見間違えようのない名前だった。彼自身の筆跡ではない。事務的な書類文字だ。それでも、その名はたしかにここにあった。


 エドガー・レーヴェン。


 もう、この世にいない人の名前。


「……誰が持ってきたの」


 自分でも驚くほど、声が掠れていた。


「旅商人を通じて届いたそうです。預かってきた者も、詳しいことは知らないと」


 私は曖昧に頷き、木箱を机の上へ置いた。


 十年。


 最初のうちは、待っていた。誤報かもしれない、どこかで生きているのではないかと、ありもしない望みに縋っていた。


 そのあと少しずつ、諦める練習をした。遺された手紙を箱にしまい、名前を口にする回数を減らし、季節が巡るたびに「もう昔のことだ」と自分に言い聞かせた。


 そうして気づけば十年が過ぎていた。


 痛みはもう、日々を穏やかに送るのに困らない程度には薄れている――そう信じていた。


 それなのに、たった一行の名前で、十年前の春が喉元までせり上がってくる。


 最後に彼を見送った日。

 曇った空。

 まだ若かった横顔。

 似合いもしないと私が笑った軍服姿。

 帰ったら、白い薔薇が咲くころに会おう、と言っていた声。


 帰らなかった人の記憶は、時が経つほど綺麗になる。

 それは慰めでもあり、残酷さでもあった。


 私はそっと箱の留め具に触れた。


 開けるべきではない気がした。中を見た瞬間、沈めてきたものがすべて浮かび上がってしまうようで怖かった。


 けれど、開けずにいられるはずもなかった。


 ゆっくりと金具を外す。蓋が、かすかな軋みを立てた。


 中には生成りの布が一枚かぶせられていた。

 それを持ち上げた瞬間、私は小さく息を呑んだ。


 いちばん上に入っていたのは、木の髪飾りだった。


 飴色に磨かれた、簡素な髪飾り。宝石も飾り彫りもない。町の露店で銀貨数枚もあれば買えるような、ささやかな品だ。


 けれど私は、それを知っていた。


 まだ婚約したばかりのころ、祭りの帰り道に、エドガーがひどく居心地の悪そうな顔で差し出してきたものと、よく似ていた。


 本当はもっと高価なものを用意したかったらしい。けれど持ち合わせが足りなかったのだと、あとから白状した。


 私はそのとき笑って、

 高いものより、似合うものの方が嬉しいわ、

 と答えた。


 すると彼は、目に見えてほっとした顔をしたのだ。


 その髪飾りは、戦に出る前に壊れてしまった。留め具が折れ、もう使えなくなっていた。捨てきれずに机の奥へしまい込み、それきり見ていなかった。


 なぜ今、ここに、同じものがあるのだろう。


 震える指でそれを持ち上げると、その下から白い布に包まれたものが現れた。


 包みをほどく。

 出てきたのは、少しだけ縁の欠けた白いカップだった。


 今度こそ、喉の奥が詰まった。


 あの日。

 まだ婚約前で、けれど互いの気持ちくらいは知っていたころ。

 屋敷の裏手の小さな物市で、エドガーがそのカップを二つ買ったのだ。


 いつか同じ家で暮らすことになったら、朝のお茶はこれで飲もう。


 そう言って、照れ隠しみたいに笑った。


 私は呆れて、

 気が早すぎるわ、

 と返した。

 でも本当は、ひどく嬉しかった。


 結局、その約束は叶わなかった。


 片方は私の手元に残ったけれど、もう片方は彼が持っていったきりだった。なぜ持っていくのかと聞いたとき、彼は少しだけ笑って、

 忘れないために、

 とだけ言った。


 私はカップを両手で包み込んだ。


 箱のいちばん奥には、小さな花袋が入っていた。布地は色褪せ、香りはほとんど抜けていたけれど、鼻を近づけると、かすかにラベンダーの名残がした。


 それを見た瞬間、私は目を閉じた。


 眠れない夜にいいのだと、昔、私がエドガーに話したことがある。私は緊張すると眠れなくなることが多くて、枕元にラベンダーの花袋を置いていた。


 彼はその話を聞いたとき、そんなもので本当に眠れるのかと、半信半疑な顔をしていた。


 けれど戦に出る前、彼の荷物の中に、同じような花袋が入っているのを見つけたことがある。


 まさか自分で使うつもりではありませんよね、と私がからかうと、

 君の話を思い出すために持っていくだけだ、

 と、彼はひどくばつの悪そうな顔で答えた。


 高価な品は何ひとつ入っていなかった。

 勲章も、宝石も、英雄の遺品らしいものは何もない。


 あるのは、私が口にしたこと。

 私が笑ったこと。

 私が好きだったもの。

 私たちのあいだにだけあった、小さな記憶ばかりだった。


 戦地で死んだはずの人が、最期までそれらを手放さなかったのだと、ようやくわかった。


 そして箱の底に、一通の封筒が残っているのを見つけた。


 今度こそ、私は手を止めた。


 この十年で、いちばん怖かった。


 この手紙を読めば、また失う気がした。

 今さら何を、と笑えればどんなに楽だっただろう。

 けれど封筒の表には、たった一行、見慣れた筆跡で私の名前が書かれていた。


 震える指で封を切る。


 便箋は一枚だった。

 ところどころ滲んだ文字に、遠い土地の湿気や寒さまで染み込んでいる気がした。


『リーゼへ


 これを君が読むころ、私はもう戻っていないのだと思う。

 こんなふうに書き始める手紙を、君は嫌うだろう。私も嫌だ。

 だから本当は書きたくなかった。


 けれど、何も残さずにいなくなるのはもっと嫌だった。


 何を残せばいいのか、最後までわからなかった。

 立派なものは持っていないし、君に見せられるような武勲もない。

 考えてみれば、私の手元に残っていたのは、君といた日の名残ばかりだった。


 木の髪飾りは、あの日の君の言葉を忘れないために取っておいた。

 ろくな贈り物もできない自分を、私は少し恥じていた。

 でも君は、似合うものの方が嬉しいと言って笑ってくれた。

 私はあの日、ずいぶん救われた。


 白いカップは、叶わなかった約束のために。

 持っていると、どこかへ帰れる気がした。

 同じ朝を君と迎えるはずだったことを、私は最後まで手放したくなかった。


 花袋は、君のためというより、私のためだったのかもしれない。

 君の話を思い出すと、不思議と次の朝まで生きようという気持ちになった。


 戦の中では、人は大きなものに支えられているように見える。

 名誉や忠誠や祖国のことだ。

 もちろんそれも嘘ではない。

 だが、本当に心をつないでくれるものは、案外もっと小さい。


 君が甘い紅茶を好んだこと。

 白い薔薇の咲く庭を好きだと言ったこと。

 眠れない夜は窓を少しだけ開ける癖があったこと。

 高価な贈り物より、自分に似合うものを選びたいと言ったこと。


 私はそういうことに、何度も助けられた。


 もし帰れたなら、私はそれをひとつずつ君に言い直したかった。

 君を愛していると。

 君といる人生を選んでよかったと。

 君のおかげで、私は最後まで自分がどこへ帰りたいのか知っていたと。


 でも帰れないのなら、せめてこれだけは知っていてほしい。


 私は君を忘れなかった。


 立派にではなく、毎日の形で。

 朝の茶の湯気や、花の匂いや、壊れた髪飾りの手触りのように。

 何度も、何度も思い出した。


 君には、新しい幸せを選んでほしい。

 そう願っている。

 けれどもし、ほんの一日だけでも私のことを思い出してくれるなら、その日だけは白いカップを窓辺に置いてほしい。

 私は帰れなかったが、帰るつもりで生きていたのだと、君にだけ知っていてもらえれば十分だ。


 エドガー』


 最後まで読み終えたとき、私はしばらく動けなかった。


 涙が止まらなかった。

 けれどそれは、十年前に流した涙とは少し違っていた。


 あのときの涙は、失ったことへの涙だった。

 今こぼれているのは、受け取ってしまったことへの涙だった。


 エドガーは戻らなかった。

 それは変わらない。

 どれだけ願っても、どれだけ手紙を読み返しても、時間は巻き戻らない。


 けれど彼は、帰るつもりで生きていた。


 私は立ち上がり、食器棚のいちばん奥を開けた。

 何年も使っていない白いカップが、布に包まれたまま残っている。

 彼が持っていたものと対になる、もう片方。


 それを取り出し、箱の中から出した欠けたカップと並べて窓辺に置いた。


 春の風が、かすかにカーテンを揺らした。


 庭では白い薔薇が咲き始めていた。

 あの日、彼が帰ったら会おうと言っていた花だ。


 十年も経ってから、ようやく私は声に出して彼の名を呼んだ。


「……おかえりなさい、エドガー」


 返事はない。


 私は新しい湯を沸かした。

 紅茶を淹れ、二つのカップに静かに注ぐ。


 片方は、もう誰も口をつけない。

 それでも、湯気は同じように立ちのぼった。


 窓の外で風が吹き、白い薔薇が揺れる。


 私はカップを両手で包んだ。


 十年前に止まったままだった時間が、

 ようやく、静かに動き出す気がした。

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