第六章:真実は檻の外に、あるいは三人の証言
学園本部棟へ向かう道は、異様なまでの静けさに包まれていた。
生徒たちが、窓から、柱の陰から、私たちを見つめる。その目は好奇と不安でいっぱいだ。噂は、確かに学園中を駆け巡っていた。
「…しっかりしろ」
横を歩くレオンハルトが、低く言った。彼の歩幅は、私に合わせてわざと小さくしてくれている。
「あなたを信じているのは朕だけではない。あの平民の少女が、わざと嘘をついているとは思えん」
「でも、なぜ…」
「わからん。だからこそ、直接聞く」
彼の言葉は、確固としていた。
本部棟の執務室前で、シオンが合流した。
「…状況は悪化していますね」
彼の目は、周囲を警戒しながらも冷静だった。
「生徒たちの間では、もう『クローディア様監禁説』と『皇子の横暴説』が定着しつつあります」
「…ばかげている」
レオンハルトの声に、怒りの響きが増した。
「シオン君、あなたは?」
私が聞いた。
「私は、中立の観察者として付き添います。宰相の息子として、皇子の行動に疑念が持たれる事態を、見過ごすわけにはいきませんから」
彼の言葉は形式的だが、目は私に向けられていた。その瞳は「心配している」とささやいているようだった。
ドアが開いた。
中には、学園長と、数人の教員。そして—ルナが、うつむいて立っていた。
「レオンハルト殿下、クローディア様、よくいらっしゃいました」
学園長の声は、緊張をはらんでいる。
「早速ですが、この問題について…」
「まず、彼女から聞く」
レオンハルトは、ルナを一瞥もせずに言った。
「朕がクローディアを無理やり連れ去った、と証言したのはお前か?」
ルナの肩が、ぴくっと震えた。彼女はゆっくりと顔を上げた。
その目は、真っ赤に腫れていた。
「…はい」
声はかすれていた。
「どこで、どのように?」
「…東の庭園の近くで。クローディア様が、殿下に腕を掴まれ、温室の方へ連れて行かれるのを…」
「嘘をつけ」
レオンハルトの声が、鋭く響いた。
「朕が彼女の腕を掴んだ事実はない」
「でも…でも私は…」
ルナの声が詰まった。涙が、また溢れ出そうとしている。
「待って」
私が一歩前に出た。全員の視線が集まる。
「ルナ、あなたが目撃したのは、確かに私たち二人が一緒に温室へ向かうところ?」
「…はい」
「私が、嫌がっているように見えた? 抵抗していた?」
ルナは、一瞬目を泳がせた。
「…見えませんでした。距離があったので…」
「では、なぜ『無理やり』だと?」
「…だって…」
彼女の声が、さらに小さくなる。
「…だって、ヴァンデルート様は、レオンハルト殿下を…嫌っているはずだから…」
一瞬、室内の空気が凍り付いた。
(…ああ)
私は、はっとした。
(そうか…彼女は、知っている)
ゲームの知識を。悪役令嬢クローディアが、皇子レオンハルトに執着し、彼に嫌われ、最終的に破滅する運命を。
「…何故、朕を嫌っている『はず』なのだ?」
レオンハルトが、ゆっくりと問いかける。その声は、危険なほど静かだった。
「それは…それは…」
ルナは言葉に詰まった。彼女は、ゲームの知識を、口にできない。
「あなたは、私が以前、殿下に嫌がらせをしていたのを知っているの?」
私がそっと尋ねた。
ルナの目が、驚きで見開かれた。彼女はうなずくことも、否定することもできずに、ただ固まっていた。
「…知っているな」
レオンハルトが呟いた。
「では、聞こう。朕がクローディアを嫌っている、と誰が言った?」
「…誰も…ですが…皆、そう言っています…」
「『皆』とは?」
「学園中の…誰もが…」
ルナの声は、もうほとんど聞こえない。
「『皆』の意見が、事実だとでも?」
「…違います…でも…」
「では、なぜ朕の行動を、『無理やり』と決めつけた?」
レオンハルトの問いかけは、容赦なかった。しかし、彼の目はルナを責めているのではなく、この『噂』の構造そのものを突こうとしているようだった。
「…私は…」
ルナの涙が、ぽたりと床に落ちた。
「…クローディア様を、助けたかったんです」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「助ける?」
「はい…殿下に逆らえば、きっとひどい目に…そんな未来が、見えてしまって…」
彼女は、顔を上げた。その目には、恐怖と、確信に近い悲しみがあった。
(…彼女も、知ってる)
(私の破滅の未来を)
「…面白い」
シオンが、静かに口を開いた。全ての視線が彼に集まる。
「エヴァンスさん。あなたは、『未来が見える』と?」
「…いいえ、そんな…ただの…予感です」
「しかし、その『予感』は、過去の事実—クローディア様が殿下に執着していた事実—に基づいている。そして、現在の状況—二人が共にいる姿—に、過去の解釈を当てはめた」
シオンの分析は、冷徹ながらも正確だった。
「人間の認識とは、往々にしてそうしたものですね。過去のパターンで、現在を裁く」
「シオン、何が言いたい?」
レオハルトが問う。
「つまり、エヴァンスさんは嘘をついているわけではない、ということです。彼女は、心からクローディア様を心配し、『あり得る最悪の未来』を防ごうとした。ただ…」
彼は、私を見た。
「…その『未来』の前提が、既に古くなっている可能性がある、ということです」
長い沈黙が流れた。
私は、ゆっくりとルナに近づいた。
「ルナ」
「…はい」
「私と殿下が温室に行ったのは、監視のためです」
「…監視?」
「ええ。私が学園の規則を破って危険な場所に入らないように、殿下が付き添ってくれてたんです」
それは、真実の半分だった。でも、今はそれで十分だ。
「私が嫌がっていたように見えた?」
「…いいえ」
「腕を掴まれていた?」
「…見えませんでした」
「じゃあ、なぜ『無理やり』だと思ったの?」
ルナは、唇を噛みしめた。
「…だって、ヴァンデルート様は…最近、変わったから…」
「変わった?」
「はい。以前の様子なら…殿下と二人きりになるなんて、考えられないから…」
彼女の言葉に、私はほっとした。彼女は、私の「変化」に気づいていた。
「私が変わったのは、本当よ。でも、それは悪いことじゃない。だって…」
私は、ルナの目をまっすぐに見つめた。
「あなたと図書室で話した時、楽しかった。私が変わったからこそ、あなたと友達になれた」
ルナの瞳が、潤んだ。
「…私も…楽しかったです」
「それなら、信じてほしい。殿下は、私に何も悪いことはしていない。ただ…厳しい監視官みたいなものだよ」
背後で、レオンハルトが小さく咳払いをした。
「…では、なぜ一緒に?」
ルナが尋ねた。
「それは…」
私は振り向き、レオンハルトを見た。
彼は一瞬目を伏せ、それから重々しくうなずいた。
「…朕が許可した。学園の秩序を守るためにも、彼女の行動には目を光らせておく必要があると判断した」
それは、立派な公式見解だった。
「…本当に、そうですか?」
ルナの目は、まだ疑いを拭いきれていない。
「本当だよ」
私は笑顔を作った。
「それに、もし本当に無理やりだったら…シオン君だって、見逃さないでしょ?」
シオンが、優雅にうなずいた。
「ええ、その通りです。私は二人が温室に入るのを目撃しましたが、クローディア様が抵抗する様子は一切ありませんでした」
「…そう、ですか」
ルナの肩の力が、少し抜けた。
「…ごめんなさい。私は…勝手に勘違いして、大騒ぎを…」
「気にしないで。あなたは私を心配してくれたんだから」
私は、ルナの手をそっと握った。
「でも、次からは…直接私に聞いてくれる? 噂ではなくて」
「…はい。約束します」
その時、学園長が口を開いた。
「…では、これは全て誤解だった、ということですね」
「そうだ」
レオンハルトが断言した。
「朕とクローディア・ヴァンデルートの間に、問題は一切ない。これ以上、無用な噂を流す者は、学園の規則に照らして処分する」
その宣言は、威厳に満ちていた。部屋の空気が、一気に緊張から解放された。
教員たちが安堵の息をつく。
「では、これにて…」
「—待ってください」
私が声を上げた。
「この誤解を解くために、一つ提案があります」
全員が私を見た。
「…何だ?」
レオンハルトが警戒しながら聞く。
「公開観光ツアーを開催する、ってのはどうですか?」
一瞬、誰も理解できない沈黙が流れた。
「…は?」
ルナが、ぼんやりと聞き返した。
「つまり、みんなで一緒に、学園の面白い場所を巡るんです。殿下も、シオン君も、ルナも、そして…希望する他の生徒たちも」
私は、笑顔を広げた。
「そうすれば、みんなが私たちの関係を直接目にできる。噂なんかより、実際に見たものの方が、ずっと確かでしょ?」
レオンハルトの顔が、目に見えて曇った。
「…朕が、そんなものに付き合うと思うか?」
「監視の延長ですよ! 私一人を監視するより、大勢をまとめて監視した方が効率的だって、シオン君も言ってましたよね?」
私はシオンに助けを求めるように見た。
シオンの口元が、ゆっくりと上がった。
「…確かに、そう言いました。そして、皇子のご威光を広く示す機会にもなります。『噂を退けるために自ら行動する公正な皇子』というイメージは、悪くありません」
レオンハルトは、シオンを睨みつけた。しかし、シオンは涼しい顔のままだった。
「…ルナは?」
私が尋ねた。
「私…ですか?」
「あなたも参加して。あなたが目撃者なら、あなたが実際に見て、みんなに伝えてくれるのが一番でしょ?」
ルナの目が、きらりと光った。
「…はい! ぜひ!」
「学園長、どうですか?」
学園長は、レオンハルトの顔色を窺いながら、うなずいた。
「…学びの一環として、校外学習的な位置づけなら…」
「よし、決まり!」
私は手を打った。
レオンハルトは、深いため息をついた。
「…朕の許可を得たわけではない」
「でも、反対する理由もないでしょ? 秩序のため、監視のため、そして…」
私は、彼にだけ聞こえるようにささやいた。
「…殿下自身の『観光』のためにも」
彼の碧眼が、一瞬大きく見開かれた。
「…ふん」
彼は背を向けた。
「…好きにしろ。だが、計画の全てを朕に報告し、承認を得よ。一歩でも規則から外れたら、即中止だ」
「了解です! 監視官様!」
私はにっこり笑い、ルナにウインクした。
彼女は、まだ少し不安そうだったが、小さく笑い返してくれた。
シオンが、私のそばに寄って来て、低く言った。
「…また、面白いことを思いつきましたね」
「あなたも楽しみでしょ?」
「ええ。三人の『観光客』に、平民の少女を加えた混合ツアー。どんな化学反応が起きるか…観察する価値はありそうです」
彼の目は、確かに楽しげに輝いていた。
執務室を出る時、ルナが私を引き止めた。
「…クローディア様」
「うん?」
「…本当に、何もなくて…よかったです」
彼女の目には、心からの安堵があった。
「私もよ。あなたが嘘をついていないってわかって」
ルナは、小さくうなずいた。
「…これからも、友達でいてくれますか?」
「もちろん! 図書室で魔法陣の話、続きをしようね」
「はい!」
彼女の笑顔が、やっと本来の柔らかさを取り戻した。
廊下に出ると、レオンハルトが待っていた。
「…お前は、本当に厄介な女だ」
「ありがとうございます!」
「褒めてない」
彼はそう言いながらも、歩き出した。
私はその後を追い、シオンが少し離れて続く。
外の光が、廊下に長く差し込んでいた。
(…よし)
心の中でほっとした。
最初の難関は、乗り越えた。
でも、これで終わりじゃない。
公開観光ツアー…それは、新たな挑戦の始まりだ。
役割からの解放を、みんなで試す、最初の一歩に。
さあ、計画を立てよう。
みんなで、この世界をしための。




