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第五章:閉ざされた温室の薬草と、もう一人の「観光客」

東の庭園の奥、鉄製の蔦に覆われた温室の前で、私は息を詰ませた。


「…本当に、入れてもらえるんですか?」


「朕が許可する」


レオンハルトが、重い錠を外した。軋む音と共に、ガラスの扉が開く。


中に入ると、湿った温かい空気がまとわりついた。そして、もの凄い数の「緑」が視界を埋め尽くした。


「わあ…」


言葉を失った。


見たこともない形の葉。妖しい光を放つ実。空中に根を下ろす蔓。どこからか微かな鈴の音のようなささやきが聞こえるような気がした。


「魔力に満ちた植物園だ」 レオンハルトが説明する。「学園創設期からある、薬学と魔術の研究施設だ」


「ルナが言ってた『珍しい薬草』って、これ全部…?」


「あの平民が、よくこんな場所を知っていたな」


彼の声に、わずかな警戒が混じる。


「彼女、図書室の古い記録を読み漁ってるんです。すごいでしょ?」


「…ふん」


彼は不承不承そうだったが、もう止めはしなかった。


私はそっと一歩踏み出し、一番近くの植物に手を伸ばした。銀色の脈が走る葉が、触れる前にそっと揺れた。


「…先日月見草で感じたように、魔力を感じてみろ」


レオンハルトの声が背中から聞こえる。


目を閉じ、深呼吸。体内の微かな温もりを意識し、そっと指先へ。


葉が、ぱあっと柔らかい銀色の光を放った。


「…できた」


「感覚を掴むのが早いな」


「先生がいいからです」


ふと、口から出た言葉に、自分で驚いた。


レオンハルトも一瞬黙り、咳払いを一つ。


「…先生ではない。監視官だ」


「はいはい」


私はにっこり笑い、次の植物へと歩み寄った。


しばらく、無言の「授業」が続く。彼が植物の名前と性質を簡潔に教え、私がそっと魔力で触れてみる。失敗することもあれば、予想外の反応を見せることもある。


「…これは『夢見る乙女の涙』。少量で強力な鎮静作用があるが、触れすぎると幻覚を見る」


「わあ…でも、名前は可憐ですね」


「外見に騙されるな。毒も薬も、紙一重だ」


彼の言葉は冷たいが、その内容は確かに私を守るためのものだった。


温室の奥へ進むにつれ、植物はより異様で、美しいものばかりになっていった。


「…ここは」


突然、レオンハルトが足を止めた。


小さな池を囲むように、透き通るような青い花が咲いていた。花びらからは、微かな冷気が漂っている。


「『冬将軍の息吹』…こんな所にあったのか」


「珍しいんですか?」


「滅多に見られない。極寒の地にしか咲かぬ花だ。なぜここで育っている…」


彼が警戒して周囲を見渡す。その時—


「—あらあら、ついに見つけちゃった?」


甘く、くすぐるような声が、温室の影から響いた。


私たちが振り向くと、そこに立っていたのは—


「シオン…君?」


そう、銀髪の青年だった。だが、いつもの柔和な微笑みではない。どこか狡猾で、好奇心に満ちた、見知らぬ表情を浮かべている。


「こんにちは、クローディア様。そしてレオン様」


「シオン…お前、何をしている?」


レオンハルトの声は鋭くなった。


「私ですか? まあ…『観光』、とでも言いましょうか」


シオンは軽く肩をすくめた。彼の目は、青い花に向けられている。


「この温室、実は私の隠れ家的スポットなんです。誰も来ないので、静かに本が読めるんですよ」


「…観光?」


私が繰り返した。


「ええ。クローディア様の言葉、とても気に入りまして。この世界を、役割から離れて見てみる…確かに、新鮮な発見がありますね」


彼は一歩近づき、『冬将軍の息吹』に手を伸ばした。花が、彼の触れると同時に強く青く輝いた。


「…お前の魔力では、あの花は危険だ」


レオンハルトが警告する。


「ご心配なく。私はただの『観察者』ですから」


シオンは手を引っ込め、私たちを見た。


「それより、お二人が一緒にいるとは。しかも、こんな秘密の場所で。これは…興味深い」


その目は、学者が珍しい標本を見るように、私たちを行き来した。


「監視だ」


レオンハルトが短く言った。


「ええ、もちろん。『監視』ですね」


シオンの口元が、ほんのりと上がった。まるで、面白い冗談を聞いたように。


「…シオン君も、ここを訪れるんですね」


私が声をかけた。


「はい。ここは、役割から離れられる数少ない場所です。宰相の息子としての顔も、優等生としての顔も、ここでは必要ありませんから」


彼の言葉に、私ははっとした。


(彼も…感じてたんだ)


「…お前の『観光』は、どこへ向かっている?」


レオンハルトが問う。彼の目は、シオンを真っ直ぐに見据えている。


「さあ? まだ決めていません。ただ…」


シオンの視線が、私に向く。


「クローディア様のように、自由に動き回る『観光客』は、やはり羨ましい。私はいつも、一定の距離を保った『観察者』でしかありませんから」


「距離を保つのは、賢明だ」


「ええ、そうですね。でも時々、その距離が…少し寂しく感じることもあります」


その言葉は、あまりに素直で、シオンらしくなかった。


沈黙が流れた。三人だけの、秘密の温室で。


「…シオン君」


私が声をかけた。


「もしよかったら…一緒に観光しませんか?」


次の瞬間、二人の男性が同時に私を見た。


「…何?」


「…おや?」


「だって、せっかく同じ『観光客』なんだから。一人で回るより、誰かと回った方が楽しいし、新しい発見もあると思うんです」


私は、無邪気に、しかし確信を持って笑った。


「ルナも誘おうかな。彼女なら、また面白い場所を知ってるはずだし」


「…平民まで巻き込む気か」


レオンハルトの眉がひそんだ。


「巻き込むんじゃありません。誘うんです。観光ツアーは、人数が多いほど賑やかで楽しいですよ!」


「…朕は、監視役だ。騒がしい集まりには付き合えん」


「えー? でも、監視するなら全員まとめて監視した方が効率的じゃないですか?」


レオンハルトが言葉に詰まった。私の論理の方が正しいと、彼も気づいているようだった。


その時、シオンがふっと笑った。


「…面白い提案ですね。私は…乗ってもいいですか?」


「シオン!」


「だって、レオン様。クローディア様の言う通り、『監視』ならまとめての方が効率的です。そして…」


彼の目が、いたずらっぽく輝いた。


「このまま彼女を野放しにするより、目が届く範囲に置いた方が安全だと思いませんか?」


レオンハルトは、深いため息をついた。彼は、シオンの真意を測りかねているようだった。


「…わかった」


彼がようやく口を開いた。


「だが、条件がある。朕が決めた範囲内でのみだ。そして、秩序を乱す行動は一切認めぬ」


「はい! 約束します!」


「…私も、楽しまさせていただきます」


シオンは優雅にお辞儀をした。


その時、温室の入口から慌ただしい足音が聞こえた。


「クローディア様!? ここにいらしたんですか!?」


エリザが、息を切らして現れた。彼女の顔は蒼白だ。


「エリザ? どうしたの?」


「大変です! 学園中で噂が広まっていて…」


彼女は一呼吸置き、悲痛な声で言った。


「…クローディア様が、レオンハルト第一皇子に、無理やり温室に連れ込まれた、と!」


一瞬、時間が止まった。


「…何?」


レオンハルトの声は、氷のように冷たくなった。


「そんな…そんな馬鹿な!」


私が叫んだ。


「誰がそんな…」


「平民の少女、ルナ・エヴァンスが、他の生徒たちに話しているようです。『クローディア様が無理やり連れて行かれるのを見た』と…」


ルナが?


私の頭が混乱した。ルナが? あの優しい、真面目なルナが?


「…面白い」


シオンが呟いた。彼の目は、冷静に状況を分析している。


「情報の伝達経路における歪み…あるいは、意図的な操作か」


「どちらにせよ、朕の名誉に関わる」


レオンハルトの目が危険な光を帯びた。


「すぐに鎮めなければならない」


「でも、どうやって?」


私が聞いた。心臓が高鳴っている。


「真実を話す」


彼はきっぱりと言った。


「朕とお前がここにいた理由を」


「…監視のため、ですか?」


「そうだ」


彼の答えは、確信に満ちていた。だが、私の中に小さな違和感が生まれた。


(…それで、みんな納得する?)


「まずは、あの平民の少女からだ。彼女に直接聞く」


レオンハルトは歩き出した。その背中は、怒りで硬直している。


私は後を追おうとしたが、シオンがそっと私の腕を掴んだ。


「…クローディア様」


彼の声は、とても低かった。


「ご注意を。今の状況は、『役割』が求める展開と符合しすぎています」


「…どういうこと?」


「悪役令嬢が、皇子に無理やり連れ込まれる。平民の主人公がそれを目撃し、告発する」


彼の言葉に、私は凍り付いた。


(…ゲームの…シナリオ?)


「たとえ本人たちに意図がなくても、周囲の『期待』が、事実をその形に歪めることがあります。特に…」


彼は一瞬間を置いた。


「…あなたが、最近あまりにも『役割』から外れた行動を取っているからこそ、なおさらです」


「…私は、ただ観光してただけなのに」


声が震えた。


「ええ。だからこそ、危険なのです。『役割』は、逸脱した者を元の場所に戻そうと力を発動することがあります」


シオンの目は、悲しみと理解に満ちていた。


「私も…時折、そんな力を感じることがありますから」


私は、唇を噛みしめた。


(…観光してはいけないの?)


(自由でいることが、こんなに…)


「行こう」


レオンハルトの声が、入口から響いた。彼は振り返り、私を見ている。


その目は、確かに怒っている。だが、その奥には…別の何かがあった。私を信じる、という意志のようなものが。


「お前の『観光』が招いた混乱だ。お前自身で、片付けに行く」


彼の言葉は厳しい。でも、なぜかそれが、私を勇気づけた。


(…そうだ。逃げちゃダメだ)


私は、深く息を吸った。


「はい。行きましょう」


エリザが心配そうに私を見つめる。シオンが、わずかにうなずく。


温室の扉を出た。外の光が、眩しかった。


学園の中心へ向かう道で、私は心の中で誓った。


(私は…観光をやめない)


たとえ、役割が引き戻そうとしても。


たとえ、周りが歪めようとしても。


この世界を、心から楽しむことを、やめない。


さあ、行こう。


最初の、本当の難関へ。

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