第四章:獅子皇子付き観光ツアー、そして彼が知らない世界
「…遅い」
中庭の噴水前で、レオンハルト第一皇子が腕を組んで立っていた。夕陽が彼の金髪を溶かし、まるで彫刻のように美しい、そして冷たい。
「ごめんなさい! 図書室でルナと話してたら、つい!」
私は小さく喘ぎながら駆け寄った。今日は動きやすいように、シンプルなワンピースに着替えていた。
「平民の少女と、またか」
「彼女の名前はルナです。それに、彼女が教えてくれたんです、今夜が月見草の満開の日だって!」
私の目はきらきらと輝いていた。
「月見草?」
「ええ、学園の北の森に、秘密の群生地があるんですって。夜になると、魔力を帯びて光る花が咲くんです。絶対に見たい!」
レオンハルトの眉がわずかに動いた。彼の知らない「学園の秘密」があること自体、彼を苛立たせているようだった。
「…そんなものに何の価値が?」
「価値? 美しいものを見て感動するのに、理由はいりません。観光の基本ですよ」
私は、にっこり笑って彼の横に立った。
「さあ、行きましょう! ガイドさん!」
「…ふん。朕がガイドではない。監視だ」
彼はそう言いながらも、歩き出した。長い足なので、わざわざ歩調を緩めてくれているのが分かる。
(意外と…気が利く?)
***
学園の北門を抜け、森の小道に入る。木々の間を夕闇が染め始めていた。
「…ここは、生徒の立ち入りが制限されている区域だ」
「えっ、本当? でもルナが…」
「平民の特待生が、どこでそんな情報を仕入れたかは知らん。だが、ここには危険な魔獣が棲むこともある」
「ええーっ!? でも、ルナは安全だって…」
私は一瞬ひるんだ。ゲームの知識では、この森は「ロマンチックなイベント発生場所」でしかなかった。でも、現実は違うかもしれない。
「…朕がいる限り、無事には済ませる」
彼の言葉は、冷たいが、確かに頼もしかった。
「ありがとうございます、監視官様」
「…ふん」
しばらく、沈黙が続いた。木の葉を踏む音と、遠くの鳥の声だけが響く。
「…なんだ?」
突然、レオンハルトが立ち止まり、警戒して前方を見つめた。
「何かが来る」
私も息を呑んだ。藪の中から、ごそごそという音が近づいてくる。
(まさか、本当に魔獣…!?)
次の瞬間、藪を分けて現れたのは…
「…子鹿?」
小さな、まだ角の生えていない鹿の子どもが、きょとんとした目で私たちを見ていた。
「ああ…かわいい…」
思わず声が漏れた。
レオンハルトは、わずかに緊張を解いたが、まだ警戒を緩めていない。
「親が近くにいるかもしれん。近づくのは危険だ」
「でも、怖がってないみたい」
子鹿は、ふらふらと私たちに近づいてきた。そして、私の足元にある小さな野いちごに鼻を近づけた。
「…あら、食べたいの? どうぞ」
私が一歩下がると、子鹿は嬉しそうにいちごを食べ始めた。
その様子を見て、レオンハルトの表情が、ほんの少し、柔らかくなったように見えた。
「…お前は、本当に恐れを知らんのか」
「え?」
「魔獣かもしれぬ生き物に、平然と近づく。市場では見ず知らずの子供を助ける。朕には理解できん」
彼は真剣な目で私を見た。
「お前の中の、何が変わった?」
風が吹き、木の葉がさらさらと揺れた。
私は、ゆっくりと答えた。
「…変わったんじゃないんです。ただ、見えるようになっただけ」
「何が?」
「この世界が、ただの『舞台』じゃなくて、本当に命が息づいている場所だってこと」
子鹿は満足したのか、くるりと向きを変え、森の奥へと走り去った。
私たちは再び歩き始めた。
「…舞台、か」
レオンハルトが、低く呟いた。
「朕も、時にそう感じることはある」
意外な告白に、私は彼を見た。
「殿下も?」
「王族としての役割。皇子としての振る舞い。全てが、決められた脚本のように感じられる時が」
彼の横顔は、夕闇の中で、どこか孤独に見えた。
「…でも、殿下はその脚本を、立派に演じていますよね」
「演じることは、得意だ」
彼の声には、ほんのわずか、自嘲の色が混じっていた。
「でも、お前は違う。脚本を破り捨て、自分だけの台本を書き始めた」
「それは、褒め言葉ですか?」
「…わからん」
彼はそう言い、再び口を閉ざした。
***
森の奥深く、突然視界が開けた。
「…あっ」
息を呑んだ。
小さな泉の周りに、無数の花が咲き乱れていた。青白い、優しい光を放つ花びらが、ゆっくりと脈動している。まるで、地面に落ちた星々のようだった。
「月見草…」
声が震えた。ゲームの画面では、ただの美しい背景でしかなかった。でも、今目の前にあるのは、微かな魔力のざわめきを感じる、生きている光の絨毯だった。
「…確かに、美しい」
隣で、レオンハルトが呟いた。彼の碧眼にも、花の光が反射して、いつもと違う柔らかい輝きを帯びている。
「ねえ、もっと近くで見よう!」
私は泉の縁に近づき、しゃがみ込んだ。花のすぐ傍まで顔を近づけると、ほのかな甘い香りがした。
「魔力を帯びた花は、触れると危険かもしれん」
「大丈夫、優しい花だよ。ほら、見て」
私はそっと指先を近づけた。花びらが、触れる前に微かに光を強めた。
「…魔力に反応しているな」
「私、魔力はほぼゼロみたいなのに、面白いね」
レオンハルトも、私の隣にしゃがみ込んだ。彼の大きな体が、私のすぐ傍にある。普段なら威圧感を感じる距離なのに、今はなぜか安心感があった。
「お前の魔力は、ゼロではない」
「え?」
「制御できないだけで、量そのものは…変わらず高いままだ。朕には、それが見える」
彼の指が、そっと一輪の月見草の上にかざされた。花が、私に反応した時よりも、はるかに強く輝いた。
「…わあ」
「朕の魔力に触れて、活性化している。お前の魔力も、同じように花に影響を与えている。ただ、お前はその『触れ方』を知らないだけだ」
彼の言葉に、私は自分の手を見つめた。
(…私にも、こんな世界と『触れ合う』力があるんだ)
「…教えてくれますか?」
ふと、聞いてしまった。
レオンハルトが、私を見た。
「何を?」
「魔力の…『触れ方』を」
沈黙が流れた。彼の目が、私の瞳の奥を探る。
「…なぜだ?」
「だって、この世界をもっと深く知りたいから。観光は、表面だけ見て回るだけじゃない。その土地の息吹を感じてこそ、本当の観光だと思う」
彼は、長いため息をついた。
「…お前は、本当に朕を混乱させる」
「ごめんなさい」
「謝るな」
彼は立ち上がり、私の方を向いた。
「教えよう。ただし、一つ条件だ」
「はい!」
「朕の言うことを、一言一句守れ。魔力は、扱いを誤れば己を傷つける刃にもなる」
「約束します!」
彼はわずかにうなずき、手のひらを上に向けた。
「まずは、感じることからだ。魔力は、心臓の鼓動のように、体内を流れている。それを、意識的に感じてみろ」
私は目を閉じた。自分の体の内側に意識を向ける。
(心臓の鼓動は感じるけど…魔力って…)
「焦るな。魔力は、感情に近い。落ち着いた状態で、そっと内側を見つめるのだ」
彼の声が、低く響く。不思議と、その声に導かれるように、私は深く息を吸った。
そして…感じた。
ほのかな、温かな流れが、確かに体内を巡っているのを。
「…感じた」
「そうか。では、次はその流れを、そっと指先に集めてみる」
「どうやって…?」
「イメージだ。温かい水が、ゆっくりと手の方へ流れていくように」
私はイメージした。温泉が、ゆっくりと腕を伝って、指先に集まっていく様子を。
すると、ほんのりと指先が温かくなった。
「…できたかも」
「目を開けろ。そして、その指を月見草に近づけてみる」
言われた通りにすると…
ぱあ、っと、一輪の花が柔らかく輝いた。私が触れた時よりも、確かに明るい。
「…わあっ!」
思わず声が上がった。
「…お前は、確かに才能がある」
レオンハルトが、驚きを隠し切れない声で言った。
「才能?」
「魔力の『感受性』が高い。制御技術が伴わなければ無意味だが…感じること自体は、既にできている」
彼の言葉に、私は胸が熱くなった。
(私にも、この世界と対話する方法があるんだ)
「…ありがとうございます、殿下」
「…ふん。まだ始まったばかりだ」
彼はそう言いながらも、口元がほんのり緩んでいるように見えた。
その時、遠くで鐘の音が響いた。学園の門限の合図だ。
「…時間だな」
「ええ…でも、今日はたくさん学びました」
私たちは立ち上がり、来た道を戻り始めた。
月明かりが、森の小道を照らしている。
「…陛下」
ふと、私が声をかけた。
「何だ?」
「殿下も、時々『観光』してみたらどうですか?」
「…朕に?」
「ええ。役割から少し離れて、ただこの世界を楽しむって。きっと、新しい発見があると思います」
彼はしばらく黙っていた。
「…馬鹿げた提案だ」
「でも、少しは興味が湧きました?」
「…わからん」
彼はそう言ったが、その後ずっと、何かを考え込んでいるようだった。
学園の門が見えてきた時、彼が突然言った。
「…次は、どこへ行くつもりだ?」
私は、少し驚いて彼を見た。
「…次は、東の庭園の『古い温室』なんてどうでしょう? ルナが、珍しい薬草が育っているって言ってました」
「…ふん。それも、生徒の立ち入り制限区域だ」
「ええ、だからこそ! ガイド…いえ、監視官がいてくれたら、安心して行けます!」
彼は、深いため息をついた。
「…朕は、お前に付き合っているだけだ。楽しむためではない」
「はいはい、監視のためですね」
私はにっこり笑った。
門の前で、彼は立ち止まった。
「…今日のことは、誰にも言うな。朕がお前に魔力を教えたことなど、尚更だ」
「秘密ってことですね。わかりました」
彼は一瞬、私の無邪気な笑顔を見つめ、それからくるりと背を向けた。
「…明日の放課後、同じ場所で待て」
そう言い残すと、彼は闇の中へと消えていった。
私は一人、門の前に立ち尽くし、少し笑った。
(…彼も、楽しんでるかもしれない)
月明かりが、私の影を長く伸ばしていた。
さて、明日の温室観光、楽しみだ。
秘密の共犯者と、秘密の場所へ。
なんだか、的な観光になってきた。




