第三章:王都市場は異世界グルメの宝庫、そして小さな事件と獅子皇子の謎
「お嬢様、本当にここでよろしいのですか!?」
エリザの声が、背後で悲痛に響いた。
目の前には、王都中央市場の喧騒が広がっている。色とりどりのテント、甘い果物の山、唸り声を上げる商人たち。生活の匂いが、濃厚に立ち込めている。
「もちろん! こここそが、異世界…この国の『リアル』を味わえる絶好のスポットだよ!」
私は、軽いウールの外套の裾をからげ、目を輝かせた。学園の制服は目立つので、わざわざ地味な私服に着替えてきた。
「でも、ここは平民の…」
「観光客に身分は関係ない。ねえ、エリザも楽しもうよ。ほら、あの焼き菓子の匂い、すごくいいじゃない!」
私は彼女の腕を引っ張り、人混みの中へと消え込んだ。
(よし…ルナに教えてもらった『隠れ家的パイ屋』は、確かこの辺…)
***
市場の路地裏。小さな看板がぶら下がったパイ屋の前で、私は足を止めた。
オーブンの甘い香りが、あたり一帯を包んでいる。
「すみませーん! りんごパイと、きのこのパイ、一つずつ!」
「おお、かしこまりました!」
頬に焼け跡のあるおばさんが、にこにこ笑いながら、紙包みを渡してくれた。パイは、熱々で、手の中でほんのり温かい。
一口かじる。
「…はふっ!」
中のりんごが、とろけるような甘さで、シナモンの香りが鼻孔をくすぐる。生地はサクサクで、バターの風味が濃厚。
(ああ…これぞ異世界グルメ…!)
幸せすぎて、目頭が熱くなりそうだった。
「エリザも食べる? 半分こしよう」
「い、いえ! お嬢様、路上で食べるなんて…」
「大丈夫、観光客はみんなそうするんだから」
私がにっこり笑うと、エリザの表情が少し緩んだ。彼女も、ここ数日で随分と「観光客」という概念に免疫ができてきたようだ。
ふと、市場の反対側で、小さなざわめきが起こった。
「…あんた、また来たのか! 代金を払えずに商品を取るなんて、泥棒だ!」
怒鳴る肉屋の声。そして、小さな声で何か詫びている子供の声。
私は、パイを包み直し、そちらへと歩き始めた。
「お嬢様?」
「ちょっと見てくる」
***
肉屋の店先には、痩せた少年が、ボロボロの帽子を手に、うつむいていた。彼の足元には、小さなパンと、ソーセージが一つ落ちている。
「すみません…母が病気で…働けなくて…」
「病気が何だ! みんながみんな、そんな言い訳したら商売にならん!」
周りには、じっと見守る人々の視線。中には気の毒そうな顔もあったが、誰も口を出さない。
ゲームの知識が、頭をよぎる。この市場は、確か…
(…そうだ。ここは、クローディアがわざわざ嫌がらせに来るエリアの一つ。貧しい人々を虐める『悪役の舞台』)
本来なら、私が悪役として登場し、少年をさらに追い詰める場面だ。
私は、静かに息を吐いた。
(観光客の心得その一:地元のトラブルには不用意に首を突っ込まない…けど)
少年のうつむいた肩が、小さく震えている。
(…観光客の心得その二:でも、見て見ぬふりは、もっと良くない)
「あのー」
私は、一歩前に出た。
肉屋も少年も、周りの人々も、私を見た。質素な服だが、肌や手のきれいさが、明らかに平民ではないと分かる。
「そのソーセージとパン、いくらですか?」
肉屋は、怪訝そうに私を見た。
「…銀貨一枚だ。だが嬢さん、この小僧は…」
「じゃあ、これで」
私は、小さな革袋から銀貨を一枚取り出し、肉屋の手に置いた。ルナに聞いた相場なので、多すぎず少なすぎず、ちょうどいい金額だ。
肉屋は、銀貨を見つめ、そして私を見た。
「…嬢さん、知り合いか?」
「いいえ、今日初めて。でも」
私は少年の方を向き、屈んで彼の目線の高さに合わせた。
「君、お母さんのために買おうとしてたんだね。えらいよ」
少年の目が、驚きで見開かれた。涙が、ぼろぼろと頬を伝い落ちる。
「…あ、ありがとう…ございます…」
「ううん。でもね」
私は、優しく、しかしはっきりと言った。
「次からは、ちゃんとお店の人に事情を話してからにしよう。黙って取っちゃだめだよ。約束できる?」
少年は、涙をぬぐいながら、強くうなずいた。
「は、はい…!」
「よし」
私は立ち上がり、肉屋に軽く会釈した。
「ご迷惑おかけしました。この子、きっと次からは大丈夫です」
肉屋は、複雑な顔をしたが、小さくうなずいた。
「…まあ、いいわい。でもな、小僧、次はな」
「はい…! 本当にすみませんでした…!」
少年は、深々と頭を下げ、それから私にもお辞儀をすると、小さな包みを抱えて走り去った。
私はほっと胸を撫で下ろした。
(…ふう。観光客が地元のトラブルに巻き込まれるパターン、まさにこれか)
しかし、周囲の視線が、まだ私に集まっている。好奇と、警戒と、そして…どこか温かいものも混じっている。
「…嬢さん、いい心がけだ」
野菜を売る老婆が、にっこり笑って声をかけてきた。
「あ、いえ…ただの通りすがりです」
「通りすがりが、あんないいことするかねえ。どこかのお坊ちゃま、お嬢ちゃまかと思ったが…」
老婆の目が、私の手元に止まった。貴族の令嬢にはありえない、パイの紙包みを持っている。
「…観光中なんです」
私は、思わず本音を零した。
「観光?」
「ええ。この街の、素敵なところをたくさん見たくて」
老婆の目が、細くなった。そして、ふっ、と笑った。
「ははっ! 面白いお嬢さんだ。ほら、これ、あげよう。うちの畑のりんごだ。甘いぞ」
「えっ、いいんですか?」
「お礼だよ。さっきの一件で、あの肉屋のオッサンも少しは丸くなるだろうからな」
りんごを受け取り、私は心から笑った。
「ありがとうございます!」
市場の空気が、少し柔らかくなったように感じた。
***
その日の夕方、学園の中庭。
私は、市場で買ったもう一つのパイを楽しんでいた。中庭のベンチに座り、小鳥のさえずりをBGMに。
「…ここにいたか」
突然、影が差した。
振り上げると、そこにはレオンハルト第一皇子が立っていた。彼の碧眼は、いつも以上に鋭く、私をじっと見下ろしている。
「あ、レオンハルト殿下。こんばんは。パイ、食べます?」
「…いらない。聞きたいことがある」
彼の声は、低く、重たい。
「今日、市場に行ったな」
(…速報だな)
内心で呟きながら、私は平静を装った。
「ええ。とても楽しいところでした。特にパイ屋さん、おすすめですよ」
「ふん。楽しい、か」
彼が一歩近づいた。威圧的な気配が、周囲の空気を震わせる。
「そこで、銀貨を投げて、子供を助けたそうだな」
「…はい。ただの観光客の、ささやかな親切です」
「観光客」
彼が、その言葉を噛みしめるように繰り返した。
「それで、その後だ。市場の者たちが、妙な噂を流し始めた」
「噂?」
「『金髪の、気高いけれど優しいお嬢様が、身分を隠して市場を訪れ、貧しい子を助けた』と」
ああ、と私は思った。情報は、いつだって歪んで伝わる。
「それは大げさです。私はただ…」
「黙れ」
彼の声が、冷たく響いた。
「お前が何を考えているのか、朕にはわからん。だが、この行動が何を招くか、考えたことはあるか?」
私は、パイの包みを膝の上に置き、ゆっくりと立ち上がった。彼の目をまっすぐに見つめて。
「招く、って?」
「貴族の令嬢が、無闇に平民に情けをかける。それは、期待を生み、やがては依存を生む。秩序を乱す種だ」
彼の言葉は、確かに一理あった。ゲーム中のレオンハルトは、合理主義者で、厳格な秩序を重んじる人物だった。
でも。
「…レオンハルト殿下は、あの子が泥棒になるのを見過ごす方が、秩序にとって良かったとお考えですか?」
彼の眉が、かすかに動いた。
「違う。だが、お前のやり方は…」
「私の『やり方』は、ただの観光客のそれです」
私は、少し強めに言った。
「困っている人がいれば助ける。美味しいものがあれば食べる。美しいものがあれば見つめる。それだけです」
「…それだけ、か」
彼の目が、私の瞳の奥を探るように見つめてきた。今までにない、真剣な眼差しだった。
「朕は聞いている。お前は最近、平民の少女と図書室で魔法を論じ、市場では子供を助け、学園ではスイーツに夢中だと。まるで…」
彼は、言葉を切った。
「まるで?」
「…まるで、別人のようだ」
風が吹き、彼の金色の前髪が揺れた。
私は、静かに微笑んだ。
「そうかもしれません。だって、私は最近やっと気づいたんです」
「何を?」
「この世界は、役割を演じるだけの舞台じゃなくて、実際に生きる場所だって」
レオンハルトは、一言も返さなかった。ただ、私を見つめ続ける。
その沈黙が、何かを物語っているように感じた。
「…朕は、お前を監視する」
突然、彼が言った。
「え?」
「お前の行動は、あまりにも予測不能だ。学園の、ひいては王国の秩序を乱す可能性がある。だから、朕が直接、お前の『観光』を見届ける」
私は、目をぱちくりさせた。
「…それって、つまり?」
「明日の放課後、朕について来い。お前がどんな『観光』をしているのか、朕が確かめる」
「ええっ!? でも、それは…」
「拒否は認めん。これも、『秩序』のためだ」
そう言い残すと、彼はくるりと背を向け、歩き去った。
私は、ベンチにへたり込んだ。
(…なんですって?)
獅子皇子が、私の観光に付き合う?
それは、最も厳格で、最も観光に向いていない人物では…?
でも。
(…もしかして、彼も少しは興味があるのかな)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
私は、残ったパイを一口かじり、空を見上げた。
夕焼けが、学園を茜色に染めていた。
(…まあ、いいか。最強のガイドが付くなら、逆にアクセス不能エリアにも行けるかもしれない)
小さく笑い、私はパイの最後の一切れを口に放り込んだ。
さて、明日はどんな観光になるやら。
獅子皇子を従えての、異世界観光ツアー。
なんだか、思いがけなく豪華なプランになってきた。




