第十一章:静かな革命の始まり、あるいは図書室の夜の告白
職人街ツアーから一週間が経ち、学園には目に見えない変化が訪れていた。
「…ねえ、聞いた? 三年のウィリアム君、家の鍛冶屋を継ぐって決めたんだって」
「え、あの侯爵家の? でも、貴族が職人なんて…」
「本人が『ものづくりが好きだ』って言ってるらしいよ」
廊下で囁かれる会話。
「図書室の北側書架、最近混んでるよね」
「平民の子たちが、実用的な技術書を借りてるんだ。昨日は皮革加工の本で盛り上がってた」
「…なんだか、学園の空気が変わった気がする」
私が教室に入ると、いつもの光景が少し違っていた。
ルナの机の周りには、相変わらず人が集まっているが、今回は貴族と平民が入り混じっている。話題は魔法陣ではなく、織物の染め方だった。
「…だから、この植物の根っこを砕いて、熱湯に漬けると…」
「でも、それじゃ色が定着しないよ。アルム鉱石の粉を少し加えるんだ」
「え、それって『古式染色大全』に書いてあった?」
「うん! でも、分量が難しいから…」
彼らは、まるで同じ工房の職人のように話し合っていた。
「…おはよう」
私が声をかけると、一同が振り向いた。
「あ、クローディア様! おはようございます!」
「おはよう。随分と専門的な話してるね」
「はい! 実はね…」
一人の女子生徒が目を輝かせて話し始めた。
「職人街で見た藍染め、家でも試してみようと思って。でも、魔法じゃない方法がわからなくて…」
「それでルナさんに相談したら、古い記録を教えてくれて!」
「そしたら私も興味が出てきて…」
「僕は金属加工の本を探してるんだ」
会話が次々に飛び出す。彼らの目は、純粋な好奇心に満ちていた。
私はルナを見た。彼女は少し照れくさそうにしていたが、確かに嬉しそうだった。
「…大変だね、先生役は」
「いえ! むしろ…楽しいです。私が知ってることで、誰かの役に立てるなんて…」
彼女の目が、きらりと光った。
「…そうか」
後ろから声がした。
振り向くと、レオンハルトが立っていた。彼の視線は、ルナと生徒たちの輪を一瞥する。
「ますます、学園の秩序は変わっていく」
「悪い変化ですか?」
「…まだ、判断できない」
彼はそう言い、自分の席へと向かった。しかし、その歩みは、以前よりも少しゆっくりだった。
***
放課後、私はシオンに呼び出された。場所は、あの温室。
「…なんだか、懐かしいね」
扉を開けながら、私は言った。
温室は相変わらず、多様な緑と妖しい輝きに満ちていた。
「ええ。ここが全ての始まりでしたから」
シオンは、『冬将軍の息吹』の前に立っていた。青い花は、今日も冷たい光を放っている。
「何か用?」
「報告があります。ツアー後の、参加者たちの動向について」
彼は羊皮紙を手に取り、読み上げた。
「まず、マリエッタ・ローズ子爵令嬢。彼女は現在、図書室で染色技術の記録を体系的に整理しています」
「まさか…」
「ええ。『役に立つ知識は、探しやすくあるべきだ』と言って。既に、三冊の手製の索引を作り上げました」
私は驚いた。あの、クローディアの取り巻きだった少女が。
「次に、アレックス・ベルフォード男爵息子。彼は家の領地で、職人支援の小さな市場を開く計画を立てています」
「それは…すごい」
「彼の言葉です。『優れた技術が、ただ安いという理由で廃れていくのは間違っている』と」
シオンの目が、羊皮紙から私に向けられた。
「そして、他の参加者たちも、それぞれの形で動き始めています。情報の共有、技術の記録、小さな支援の輪…」
「…みんな、変わったんだ」
「ええ。あなたの『観光』が、彼らに新しい視点を与えました。そして今、彼らはその視点を、行動に移し始めています」
シオンは一歩近づいた。
「これは…静かな革命です。学園から始まり、やがては王国全体に広がる可能性を秘めた」
「革命って…大げさじゃない?」
「大げさではありません。権威ではなく実力が、身分ではなく意志が、ものを言い始めています。それは、確かに秩序の変容です」
彼の銀の瞳が、真剣に輝いていた。
「…怖いですか?」
私が尋ねた。
シオンは、一瞬目を伏せた。
「…正直に言えば、はい。変化は、常に不安を伴います。私のような、現状の中で一定の地位を得ている者にとっては、特に」
「でも…」
「でも」
彼は顔を上げた。
「この変化が、どこか…美しくもある。凍り付いた湖に、春の風が吹き始めたように」
その時、温室の入口が開いた。
「…ここにいたか」
レオンハルトが入ってきた。彼の表情は、いつもより硬い。
「殿下。どうなさいました?」
「朕は、先刻、父王に呼ばれた」
その一言に、空気が張り詰めた。
「…陛下が?」
「ええ。ツアーのこと、そして学園の変化について、報告を求められた」
「そして?」
私が息を詰めて聞いた。
レオンハルトは、しばらく沈黙した。
「…父王は、興味深く聞いていた。そして、一言言った」
「何と?」
「『若き芽は、摘むよりも育てる方が良い。ただし、嵐に耐えられるだけの強さを持つように』と」
「…それは…」
「認めた、ということだ。ただし、監視の下で、と」
私はほっと息を吐いた。
「…よかった」
「良し悪しは、まだわからん」
レオンハルトは、私をじっと見た。
「お前の行動が、王家の目に留まった。これからは、より慎重に行動せねばならぬ」
「…はい」
「しかし」
彼の口調が、ほんの少し柔らかくなった。
「…朕も、父王と同じ意見だ。この変化を、摘み取る必要はない」
「殿下…」
「ただし」
彼の目が鋭く光った。
「お前が嵐に耐えられるかは、まだわからん。これから、より大きな圧力がかかるかもしれぬ。覚悟はあるか?」
「…あります」
私は、胸を張って答えた。
「私は一人じゃないから。殿下も、シオン君も、ルナも、みんなが一緒に歩いてくれるから」
レオンハルトは、私の言葉を咀嚼するように黙り込んだ。
シオンが、そっと口を開いた。
「…その『みんな』に、私も含まれているのですか?」
「もちろん。あなたは、私たちの変化を一番よく観察して、記録してくれてるんだから」
「…観察者として、ですか」
「それだけじゃない」
私は、シオンの目をまっすぐに見た。
「あなたも、変わろうとしている。鎖を壊そうとしている。それも、一緒に歩いてる証拠だよ」
シオンの瞳が、一瞬潤んだように見えた。
「…そう、ですね」
彼は、うつむいた。
「…私は、まだ臆病です。観察者としての安全な距離を、捨てきれない」
「それでいいんだよ。急がなくても。それぞれのペースで、変わっていけばいい」
私が笑うと、シオンもほんのり微笑んだ。
「…ありがとうございます」
その時、レオンハルトが言った。
「…朕も、変わった」
「え?」
「以前の朕なら、こんな『無秩序』を許さなかった。しかし今…」
彼は、自分の手のひらを見つめた。
「…この変化が、何をもたらすのか。朕自身も、知りたいと思っている」
温室の中が、静かな熱気に包まれた。
三人の、それぞれの決意が、言葉にならないまま交錯する。
***
夜。図書室で、私は一人で本を読んでいた。
今日の出来事を整理するために。
(王家が認めた…それって、すごいことなんだろうな)
(でも、プレッシャーも大きくなる)
ぱたり、と本を閉じた。
窓の外には、満月が浮かんでいる。学園は静かに眠りにつこうとしていた。
その時、扉が開く音がした。
「…まだいたか」
レオンハルトだった。彼は、いつもの制服ではなく、簡素な私服を着ていた。
「殿下? どうして…」
「寝付けぬ。散歩をしていたら、灯りがついているのに気づいた」
彼は、そっと近づき、私の向かいに座った。
「…今日の話、続きがある」
「続き?」
「父王が、もう一つ言っていた。『その変化の中心にいる少女を、朕にも会わせろ』と」
「…え?」
「つまり、お前を王宮に招きたい、ということだ」
私は、息を呑んだ。
「…王宮に?」
「ええ。公式な場ではない。私的な茶会として。だが、それだけに…」
「…逆に、緊張する」
「当然だ。王族の前では、今以上に慎重に振る舞わねばならぬ」
レオンハルトは、じっと私を見た。
「…断ってもよい。朕が断れば、それで済む」
「…でも、それは…」
「お前の意志だ。朕は、強制しない」
月明かりが、彼の横顔を柔らかく照らしていた。
「…行きます」
「…そうか」
「だって、せっかくのチャンスでしょ? 王宮だよ! めったに行けない、最高の観光スポットじゃないですか!」
思わず、本音が飛び出た。
レオンハルトは、一瞬目を見開き、そして…笑った。
静かに、ほんのりと。
「…お前は、本当に変わらぬな」
「え?」
「どこへ行っても、何があっても…お前の核心は、変わらない。この無邪気な好奇心が」
彼の笑顔は、私が今まで見たことのない、柔らかいものだった。
「…殿下、笑うの、初めて見た」
「…そうか」
彼は、すぐに真面目な顔に戻した。
「…茶会は、一週間後だ。それまでに、礼儀作法を学ばねばならぬ。朕が教える」
「え? 殿下が?」
「朕以外に、王宮の作法を詳細に知り、かつお前に教えることができる者があるか?」
「…確かに」
「では、明日の放課後からだ。遅刻は許さん」
「はい…」
沈黙が流れた。月明かりの中で、二人だけの時間が過ぎていく。
「…クローディア」
突然、彼が私の名前を呼んだ。
「はい?」
「…お前が王宮で何を言おうとも、朕は守る」
その言葉は、静かだが、確かな決意に満ちていた。
「…なぜですか?」
「なぜ…か」
彼は、窓の外の月を見つめた。
「…朕も、この変化の一部だ。お前が巻き起こした波紋の、中心に立っている。ならば、その責任を取るのも朕の務めだ」
「でも、それは…」
「それに…」
彼は、私の方を見た。碧眼が、月明かりの中で宝石のように輝いていた。
「…朕は、お前の『観光』をもっと見ていたい。この先、どこへ向かうのか。何を変えていくのか」
「殿下…」
「…そして」
声が、さらに低くなった。
「…お前という人間を、もっと知りたいと思っている」
心臓が、高鳴った。
「…私なんて、ただの…」
「ただの観光客、ではないな」
彼は、少し口元を上げた。
「お前は、既にこの世界の住人だ。そして、変わろうとする者たちの、希望の灯だ」
「そんな大げさな…」
「大げさではない。朕は、自分の目で見た。お前が、周囲をどう変えていくかを」
彼は立ち上がった。
「…では、今夜はここまでだ。早く寮に戻れ。明日から、厳しい稽古が始まる」
「はい…」
私も立ち上がり、本を片付けた。
扉の前で、レオンハルトが振り返った。
「…一つ、言い忘れていた」
「なんですか?」
「今日の温室で、お前が言ったことだ。『みんなが一緒に歩いてくれる』と」
「…はい」
「…朕も、その『みんな』に含まれているのか?」
その問いかけは、どこか脆く聞こえた。
「もちろんです」
私は、にっこり笑った。
「一番の監視官で、一番厳しい先生で…でも、一番頼りになる味方です」
レオンハルトは、一瞬言葉を失ったように見えた。
「…愚かな」
彼はそう呟き、扉を開けた。
「…おやすみ、クローディア」
「おやすみなさい、殿下」
扉が閉まった。図書室には、再び静けさが訪れた。
私は、胸に手を当てた。
ドキドキが、まだ収まらない。
(…まずいな)
(これ、もしかして…)
月明かりが、机の上の本を照らしていた。
明日から、王宮の作法を学ぶ。
一週間後には、王様にお会いする。
緊張するけど…なんだか、楽しみでもある。
だって、最高の観光スポットだもの。
しかも、最高のガイド付きで。
窓の外、月が雲の間から顔を出した。
静かな革命は、確かに進行している。
そして、その中心で…
何かが、芽吹きいる。




