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第九章:ツアー後の小さな波紋、そして図書室での予期せぬ告白

ツアーから三日後。


学園の空気が、ほんのりと変わっていた。


廊下ですれ違う生徒たちが、私に軽く会釈する。以前なら、畏怖か軽蔑の目で見られていたのに。


「…おはようございます、クローディア様」


「あ、おはよう」


マリエッタ子爵令嬢が、珍しく一人で歩いてきた。彼女は少しためらい、歩みを緩めた。


「…ルナさんとは、昨日図書室でお会いしました」


「ええ、聞いてる。レシピの話、盛り上がったみたいね」


「はい。彼女、本当に詳しいですね。記録を調べるのが、趣味だなんて…」


マリエッタの目が、遠くを見るようになった。


「私は…いつも『子爵令嬢としての趣味』しか許されていませんでした。お茶やお花や舞踏会の話ばかり。図書室で古いレシピを漁るなんて、『ふさわしくない』って」


その声には、どこか寂しげな響きがあった。


「でも、もう気にしなくていいんだよ」


私は笑った。


「観光客に、身分も役割も関係ない。好きなものは好き、でいいんだから」


「…そうですね」


彼女の口元が、ほんのり緩んだ。


「…では、失礼します。また、ツアーがあれば…ぜひ」


「うん! 次はもっと面白い場所を探さなきゃ」


マリエッタが去っていく背中を見送りながら、私はほくそ笑んだ。


(少しずつ、変わってる)


教室に入ると、いつもと違う光景が目に入った。


ルナの机の周りに、数人の生徒が集まっているのだ。


「…だから、この魔法陣のこの部分が効率悪いんだよね」


「え? でも、ここ変えると全体のバランスが…」


「いや、ルナの言う通りだ。こっちの線を太くすれば…」


議論している。しかも、平民のルナを中心に、貴族の子女たちが。


「おはよう」


私が声をかけると、彼らは振り向いた。


「あ、クローディア様! おはようございます!」


ルナの顔が、嬉しそうに輝いている。


「魔法陣の話?」


「はい! ツアーで一緒だったアレックス君が、授業でわからないところがあって…それで聞きに来てくれて」


「そしたら、僕も気になって」「私も!」


他の生徒たちが口々に言う。


「ルナさん、説明がわかりやすいんだよね」


「そうそう。先生の言ってることより、すっきりする時ある」


ルナは、照れくさそうにうつむいた。


「そ、そんなことないですよ…」


「いや、本当だよ」


私は彼女の肩をポンと叩いた。


「君はすごいんだから、もっと自信持って」


「…はい!」


その時、教室の後ろから声がかかった。


「…賑やかだな」


レオンハルトが立っていた。彼の碧眼が、ルナの机を囲む集団を一瞥する。


「お、おはようございます、殿下!」


生徒たちが慌てて礼をする。


「…授業はまだか」


「は、はい! すぐに席に…」


彼らは散り散りに自分の席へ戻っていった。


ルナは、こっそりと胸をなでおろす。


レオンハルトが、私の席の傍を通り過ぎた時、かすかに言った。


「…お前のせいで、学園の秩序が変わっていく」


「悪い変化ですか?」


「…まだ、わからん」


彼はそう言い、窓際の自分の席へと歩いていった。


***


放課後。図書室で、私は約束の「ツアー反省会」を開いていた。


四人が、あの日の小さな机を囲む。


「まずは、報告から」


シオンが羊皮紙を広げた。


「参加者十名の事後アンケートです。『非常に満足』が八名、『満足』が二名。批判的な意見はありませんでした」


「やった!」


「次に、学園内でのツアーに対する評判。概ね好意的です。『またやってほしい』という声も複数」


「すごい…」


ルナが目を輝かせた。


「でも」


シオンの声が、少し低くなる。


「一部の教員や、古い家柄の保護者からは、懸念の声も上がっています」


「…何が?」


レオンハルトが問う。


「『身分を超えた交流は、秩序を乱す』『平民の生徒が貴族に講釈するのはけしからん』といった意見です」


図書室の空気が、少し重くなった。


「…やっぱり、来たか」


レオンハルトが呟いた。


「想定内のことです。しかし、懸念の声が行動に移る前に、対策を考える必要があります」


シオンは冷静だった。


「どうすればいい?」


私が聞いた。


「いくつか案があります。一つは、ツアーを『学園公認の教育プログラム』として正式に位置づけること。もう一つは…」


彼は少し間を置いた。


「…より『身分が高い』者を、表向きの主催者に立てることです」


「つまり、朕か?」


レオンハルトが鋭く指摘する。


「そうです。殿下が主催者となれば、批判も和らぎます」


「…朕は、監視役だ」


「表向きは、そうです。でも、文書上は…」


シオンの目が、意味深に光った。


「…わかった」


レオハルトは、短くうなずいた。


「それで批判が収まるなら、朕の名を使うがいい」


「え、でも、殿下に迷惑じゃ…」


ルナが心配そうに言った。


「迷惑ではない。これも、秩序維持の一環だ」


彼の言葉は、事務的だった。だが、その中に、このツアーを守る意思を感じた。


「…ありがとうございます」


ルナが深く頭を下げた。


「では、次のツアーの計画に移りましょう」


私が、新たな羊皮紙を広げた。


「次は…王都の市場、どうですか?」


「市場?」


三人が同時に聞き返した。


「ええ。あの市場、とっても活気があって、美味しいものもたくさんある。学園の外の『普通の世界』を見るのも、観光の醍醐味だと思う」


「…それは、難しい」


レオンハルトが即座に言った。


「なぜ?」


「十人の生徒を、王都の市場に連れて行く。警備上の問題が大きすぎる。朕一人では監視しきれん」


「じゃあ、警備の人を増やせば…」


「学園の外での公式行事となれば、騎士団の護衛が必要になる。そうなれば、もはや『観光』ではなくなる」


「…確かに」


私も納得せざるを得なかった。楽しいツアーが、大行列の公式視察になってしまう。


「…では、代案を」


シオンが口を開いた。


「市場ではなく、学園に近い『職人街』はどうでしょう? そこなら範囲も限られ、警備も手配しやすい」


「職人街?」


「ええ。陶器や織物、小さな工房が並ぶ区域です。実際にものづくりを見学できるかもしれません」


「それ、いいかも!」


私の目が輝いた。


「ルナは?」


「はい! 私は…織物の工房に興味があります。魔法糸を使った織物の技術について、記録で読んだことが…」


「では、候補として検討しよう」


シオンがメモを取った。


「…一つ、条件がある」


レオハルトが言った。


「朕が警備計画を承認するまで、実行には移さぬ。絶対に」


「了解です、監視官様」


私は敬礼のまねをした。


レオンハルトは一瞬目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。


***


議論が一段落し、それぞれが資料を整理し始めた時、シオンがそっと私に近づいた。


「…クローディア様、少しよろしいですか?」


「うん? どうしたの?」


「実は…個人的な質問があるんです」


彼の声は、いつもより低く、真剣だった。


私たちは、窓際の書架の陰へ移動した。


「なに?」


「…あなたは、本当に変わったんですか?」


その問いに、私は息を詰まらせた。


(…バレてる?)


「…どういう意味?」


「以前のあなたと、今のあなた。まるで別人のようです。図書室でルナさんと話すあなた、市場で子供を助けるあなた、ツアーで皆を笑顔にするあなた…」


シオンの銀の瞳が、私の目をまっすぐに見つめる。


「かつてのクローディア・ヴァンデルートは、そんな人物ではありませんでした」


「…人は、変わるよ」


「ええ。変わります。でも、ここまで根本的に、短期間に?」


彼の指が、そっと自分の胸のあたりをさすった。


「私も…変わりたいと、思うことがあります。観察者としての距離を保ち続けるこの生き方に、時折、息苦しさを感じますから」


「シオン君…」


「でも、変われない。役割が、鎖のように私を縛っている」


彼の目に、苦しみの色が浮かんだ。


「それなのに、あなたは自由です。なぜですか?」


その問いかけは、あまりに鋭かった。


(…答えられない)


(転生なんて、言えない)


「…わからない」


私は、うつむいた。


「ただ…ある日、気づいたんだ。このままじゃダメだって。誰かの期待に合わせて演じ続ける人生は、もう嫌だって」


それは、真実の半分だった。


シオンは、じっと私を見つめていた。


「…そうですか」


彼の口元に、ほんのり笑みが浮かんだ。


「それでいいんです。その答えで」


「え?」


「あなたが、本当の理由を話せなくても。ただ、変わろうとしているその意志が、本物であれば」


彼は一歩下がり、優雅にお辞儀をした。


「…私は、あなたを観察し続けます。この変化が、どこへ向かうのか。そして…」


声が、かすかに震えた。


「…私自身も、いつかその鎖を壊せる日が来るのか、を」


彼は振り返り、図書室を出ていった。


私は、窓際に立ち尽くした。


(…彼も、苦しんでたんだ)


(この世界のみんな、何かの役割に縛られて…)


「…おい」


振り向くと、レオンハルトが立っていた。彼は、シオンが出て行った扉を見つめている。


「シオンと、何を話していた?」


「…人の変わろうとする意志について」


「ふん」


彼は、一歩近づいた。


「…朕も、聞きたい」


「え?」


「お前が、本当は何者なのかを」


私の心臓が、高鳴った。


「…私は、クローディア・ヴァンデルートです」


「それだけか?」


「それだけです」


沈黙が流れた。


レオンハルトの碧眼が、私の瞳の奥を探る。


「…わかった」


彼は、意外にもそれ以上追求しなかった。


「朕は、今のお前を監視している。過去が何であろうと、関係ない」


「…殿下」


「だが、一つだけ言っておく」


彼の声は、低く、重かった。


「お前の『観光』は、波紋を広げている。シオンも、あの平民の少女も、そして…朕でさえも、影響を受けている」


「…それは、悪いことですか?」


「わからん」


彼は窓の外を見た。夕焼けが、学園を茜色に染めていた。


「ただ、その波紋が、やがて大きなうねりになるかもしれぬ。その時、お前は責任が取れるのか?」


「…責任?」


「変える者は、変わらされる者への責任を負う。お前がこの学園の秩序を変えようとするなら、その結果にも向き合わねばならん」


それは、厳しいが、真実だった。


「…わかってます」


私は、胸を張った。


「私は逃げません。だって、この世界が好きだから。ここにいる人たちが、もっと自由に笑える場所になってほしいから」


レオンハルトは、私の言葉を咀嚼するように、しばらく黙っていた。


「…愚かな女だ」


「ええ、愚かかもしれません」


「…しかし」


彼は、かすかにため息をついた。


「…その愚かさが、なぜか…朕を惹きつける」


瞬間、時間が止まった。


「…え?」


「何でもない」


レオンハルトは、慌てたように背を向けた。


「…次のツアーの計画書を、早く提出しろ。朕が検討する」


そう言い残すと、彼は図書室を出ていった。


私は、一人残され、ぼんやりとしていた。


(…今の、なんだった?)


胸の奥が、熱くなった。


窓の外、夕日が沈みかけている。


図書室は静かで、埃がきらきらと舞っていた。


ルナが、そっと近づいてきた。


「…クローディア様、大丈夫ですか? お顔が赤いですが…」


「え? あ、うん…少し、熱いだけ」


「そうですか…では、今日はここまでにしましょうか? 私も、織物の資料を調べに図書室に残ります」


「う、うん…そうするね」


私は、そそくさと荷物をまとめた。


扉を出る時、振り返った。


ルナは、もう資料の山に埋もれていた。彼女の横顔は、真剣で、どこか幸せそうだった。


(…よし)


心の中で、小さく拳を握った。


責任?


怖くない。


だって、私は一人じゃないから。


監視官も、観察者も、かつてのライバルも、今は…一緒に歩いてくれる。


さあ、次の観光地へ。


職人街か…どんな発見が待っているかな。


楽しみだ。


でも、その前に…


(…彼の言葉の意味、もうちょっと考えてみよう)


ほんのり赤くなった頬を手で押さえながら、私は廊下を歩いた。


夕闇が、ゆっくりと学園を包み込んでいく。

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