プロローグ:『観光客』、あるいは、退屈の終わり
意識が、ゆっくりと戻ってくる。
まず感じたのは、柔らかい布団の感触。そして、甘すぎるバラの香り。目を開けると、見たこともない天蓋付きのベッド。光は、色とりどりのステンドグラスを通して、きらめく塵のように降り注いでいた。
(…ここ、どこ?)
昨日の記憶は、自宅のデスク。やり込んでいた乙女ゲー『薔薇と誓いの銀冠』の最終ルートをクリアした直後、ほんの一瞬、眩暈がしただけだった。
「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
優雅な、しかしどこかよそよそしい女性の声。ベッドサイドに、整ったメイド服を着た年配の女性が立っていた。私の顔を覗き込むように。
「…え?」
声が出ない。頭がガンガンする。ゲームの…回想? こんな没入感のあるVR、存在したっけ?
「クローディア様、お顔色が優れませんわ。本日は学園初登校の日ですが、お休みになさいますか?」
その呼び名に、私の思考が、一気に氷り付いた。
クローディア・ヴァンデルート。
それは、『薔薇と誓いの銀冠』で、プレイヤーが最も倒したくなる、傲慢で残忍で、最後には破滅する――悪役令嬢の名前だった。
「鏡…」 私の声は、ひび割れていた。「鏡を、ください」
メイドは怪訝そうな顔をしたが、銀の盆に載せた手鏡を差し出した。
そこに映ったのは、私の顔ではなかった。
煌びやかなプラチナブロンドの髪。冷ややかですらある青い瞳。完璧すぎるほどの美貌。間違いない。これは、ゲーム中のクローディアそのもの。いや、もっとリアルで、血の通っている。
(転生…? まさか、あのありがちな…)
胃の底が冷たくなる。このゲーム、私は百時間以上プレイした。クローディアの破滅フラグの数、全て知っている。学園でのいじめ、王子たちへの嫌がらせ、そして平民出身の主人公、ルナへの執拗な迫害。全てが、三年後には自分自身に跳ね返ってくる。
絶望が、じわりと胸を浸していく。その時、
―キラリ。
窓の外から、一筋の光が差し込んだ。それは、ステンドグラスの色を変え、部屋の壁に、信じられないほど鮮やかな虹の帯を描き出した。
(…ああ)
ふと、思った。
この世界、ゲーム画面で見るより、何十倍も美しい。
「お嬢様?」
メイドの心配そうな声をよそに、私はベッドからゆっくりと起き上がり、窓辺へ歩いた。大理石の床はひんやりと気持ちいい。
窓の外には、中世ヨーロッパと幻想が混ざり合ったような街並みが広がっていた。尖塔が立ち並び、馬車が石畳を軽やかに走る。空には、ゲームでは単なる背景だった、ふわふわとした綿菓子のような雲が浮かんでいる。
息を呑んだ。
画面の中の「データ」ではない。風の匂いがする。遠くから聞こえる町の賑わいがする。ここは、完全に、紛れもなく「世界」なんだ。
メイドがそっと咳払いをした。
「お支度をなさいますか? 初登校に遅れますと、殿下やご子息たちに失礼ですわ。特に、レオンハルト第一皇子とは―」
「ああ、そうだね」
私は、窓から離れて、彼女の方を向いた。
胸の中で、何かがひっくり返った。重たいものが、ぽろっと外れた。まるで、ずっと背負っていた見えないシナリオの束を、そっと床に下ろしたみたいに。
この美しい世界で、わざわざ地獄のレールに沿って走る必要、ある?
答えは、もう出ていた。
「でもね」 私は、この世界で初めて、心から軽い笑みを浮かべた。「私は今日から、観光客なの」
「…はい?」
メイドの目が、見開かれた。困惑している。当然だ。クローディア・ヴァンデルートは、そんな笑顔はしないし、「観光客」なんて言葉も使わない。
「学園も、王子様たちも、もちろん『重要文化財』よ。しっかり…観察させてもらうわ」
そう言って、私はベッドサイドのドレスに手を伸ばした。重たそうで、煩わしそうな、典型的な悪役令嬢の衣装。
でも、大丈夫。観光客だもの。不便なのは、旅のうち。
今日から、この世界を、心ゆくまで楽しもう。
クローディアの役割? いいえ、結構。
私はただの、通りすがりの観光客。たまたま、悪役令嬢の身体を借りているだけの。
さあ、最初の観光地はどこにしようか。
この予定調和の世界で、私だけの、自由な旅程が、今、る。




