願いの列車
小さく体が揺れるのを感じて、ゆっくりと目を開ける。
いつの間に眠っていたのだろう。頭は微睡んだまま、ここはどこだろうと首を上げた。
左右へと流れる情景はさながら流星のよう。そこで、自分が家ではないどこかで眠ったことを思い出す。それと同時に一気に意識が覚醒し、目のまえのものがしっかりと捉えられるようになる。
一定ごとに体が揺れるこれは、乗り物特有の揺れ。自分は今、電車に乗っていた。
ふと、横に意識を向けると、そこにはハンドルのようなものを握る顔が見えない長身の誰かがいた。服を見るに、この電車の運転士のようだ。
一体どういうわけだか不明だが、自分は運転室で眠り耽っていたようだ。
「目が覚めましたか」
それは若い男性のような、年齢を重ねたような、老人のような、そんないくつもの印象が同時に感じられる声であった。
「随分と長いこと眠っていたようですね。ええ、それはもう随分と」
「あの、ここは……」
「見ての通り運転室です。今回はあなたが選ばれたようですよ」
今回は?選ばれた?
彼?が何を言っているかは分からないが、どうやら自分はここに連れてこられたらしいことは分かった。未だに眠る前の記憶を思い起こすことができないが、電車に乗ったまま眠ってしまったのだろうか。
「これってどこ行きなんですか?」
「これは……行きです」
「え?」
目的地の名前だけが、ぽっかりと空いたように聞こえる。もう一度尋ねても、やはり目的地の名前は聞こえない。聞き取れていないというよりは、そもそも音が出ていないようにぽっかりと音が途切れてしまう。
「なるほど、だからあなたが選ばれたのですね」
「どういうことですか?その、帰りたいので次の駅で降ろしてほしいんですけど」
彼は納得がいったように深く頷くが、自分には何のことだかさっぱりだ。自分だけを置いていくように話が進み要領を得ないが、ひとまず帰りたいということを伝える。
しかし、彼は首を横に振ると、少しだけ悲しそうな声色で話し始めた。
「申し訳ありませんが、この列車は終点まで停まらないのです。どこを経由するかは、決められるんですけどね」
よくわからないことを言う彼。
最低でもここがどこなのか分かれば、最悪終点から電車を乗り継いだりして帰れるはずだと、もう一度視線を前に向ける。
流星のように左右に流れる光の粒は美しいが、それ以外は暗くてどこを走っているのか定かではない。この光景は、かの有名なSF映画のテレポートシーンのようだと思いつつ、ガラスからの視野を広げる。
この電車はライトを点けずに走っているようで、目のまえにあるはずのレールすらも目視で捉えることはできない。
見上げてみても光の粒しか見えず、月は見えないが、この暗さならば夜もだいぶ遅い時間なのだろう。
「終点までどれくらいかかるんですか?」
「そうですね……今からだと、あと三時間ほどでしょうか。まだご乗車できていないお客様がいるので、彼らが乗り込むのを待たないといけないのです」
「あれ、でもこの電車は停まらないんじゃ……」
「はい。この電車は終点まで停まりません」
説明は以上とばかりに、それ以上のことは教えてくれない運転士。時々こちらを見てくるが、やはり顔は見えず、まるで深淵のように真っ暗で表情は分からない。彼がこの何も見えない外をちゃんと見えているのか謎だ。
「ああ、いい忘れてました。あなたは今回先導役になりましたので、どこを通るかを決めることができます」
「先導役?」
「案内役と言ってもいいかもしれません。あなたが言った場所を経由し、この列車は終点に向かいます」
まったく説明になっていない説明をされ、どうやら自分は何か役職のようなものを担わされたことを理解する。
未だに彼が何を言っているのか理解できていないものの、自分ができるのは経由地を決めることだけだという。
トロッコ問題の、分岐レバーを動かす役のようなものだろうか、と思い至ったとき、突如頭に鈍い痛みが走る。まるで、何かに殴られたかのような痛みはすぐに消え去り、悶える時間すらも与えない。
「じゃあ、家がいいです。家に、帰りたいです」
「了解しました。あくまで、通過するだけですからね」
運転士の彼がそう言うと、体が小さく横に揺れる。どうやら列車がカーブをしたらしい。
そうしてしばらくカーブをしたあと、ずっと光の粒だった景色が、まるでトンネルを抜けたかのように開けた。
それは、自分がよく知る家の近くの、河川敷の上だった。レールなどないのに土手の上を走る列車は奇妙だが、不思議と恐怖心は抱かなかった。
時間は夕暮れ、土手を歩いている人はおらず、遠くに車が走っているのが少し見える程度。
そうしてしばらく走っていると、視界の端に自分の家が見えた。もうお父さんは帰っているようで、車庫には小さい車が止まっている。きっとお母さんは夜ご飯を作り始めている頃だろう。
ごめんなさい、変な電車に乗ったせいで、まだ帰れそうにありません。
「帰りたいよ……」
「停車はできない取り決めになっています。ご了承ください」
ぽたりと床に雫が落ちた。
目の前に家があるのに、そのまま列車は横を通過していく。そうしてしばらく土手の上を走っていた列車だが、突然またもやトンネルに入ったかのように視界が暗くなり、先ほどの光の粒で視界を覆われる。
「次はどこへ向かいましょう」
運転士の彼はそう言ったが、先ほど会話していたときよりも声は小さく、暗く感じられた。
本当は飛び出してでも家に帰りたかったけれど、流石に走っている列車から飛び降りて無事に済む自信はなく、そのまま居場所は後ろへと流れてしまった。
「じゃあ、おばあちゃんの家。栃木の北側の……」
「了解しました」
場所の詳細を言い終わる前に、列車は大きくカーブをする。先ほどよりも長い曲道を進むと、景色は一気に開ける。
自分がよく知るおばあちゃんの家の近くの森の中を、列車は走っていた。
田舎すぎず、都会すぎず、夏の一週間程度を過ごすにはちょうどいい場所。スイカやアイスを出してくれたおばあちゃんは、既に二年前に亡くなってしまっていた。
おばあちゃん以外に住んでいる人もいなかったあの家は、取り壊されることもなく、放置されているのだとお母さんから聞いている。こんな場所では買い手もつかず、家が放置されてしまうのはよくあることなのだと悲しそうに言っていた。
「あれだ……」
壁には蔓が広がり、庭には雑草が長く伸びているものの、それ以外はそのままな家。
小学生の夏休みを過ごしたあの家は、当時に面影を残したままに朽ちていた。
列車はそのまま町の中に入り、見慣れた道を行く。道が狭く、自分たちの小さな車でもギリギリだった細い道を、列車は速度を落とすことなく突き抜けていく。
そうしてまた森に入ろうとしたとき、景色は光の粒へと置き換えられた。先ほどよりも、光の粒が増えているように思えた。
「予定よりも早く着きそうです。あと二か所ほどしか巡れなさそうです」
「分かりました。なら……」
段々と勝手を知り、楽しくなってきたと運転士を見ると同時に、頬が冷たくなる。触れば、そこには一筋の跡。
どうやら、自分は無自覚のままにまた泣いていたらしい。でも、家を見たときよりも悲しみは少なく、今はまだ楽しいという気分のほうが強い。
「島の海水浴場。えっと、なんていう島だったかな……」
「了解しました」
今度は、島の名前も言えないままに列車がカーブをした。そして抜けると、確かにそこは自分が思い出していた、家族とともに過ごした海水浴場。
記憶にある限りだと三回ほどしか行けなかったが、お父さんが忙しい時間を縫って、家族と過ごす時間を作ってくれた、楽しかった思い出の場所。
どうやら太陽は既に沈んでしまったようで、空は少しだけ明るい程度で、月が見えるようになっていた。一番星なら、この明るさでも見つけることができるだろう。
列車は長い砂浜を走っていた。誰もいない砂浜を、見えないレールに揺らされながら列車は走る。
お父さんの仕事は忙しく、休日でも家にいないことは普通だった。それでも、家族の仲は良好だったし、一緒に出掛ける時間をよく作ってくれた。
あまり運動は得意ではなかったのに、自分と一緒にずっと海で遊んでくれて、砂浜ではお母さんと砂遊びもした。最後に来たのはきっともう四年くらい前だけど、あの頃の記憶はしっかりと覚えている。
そうして砂浜が途切れると同時に、列車もまたトンネルに入る。暗くなる外とは対照的に、光の粒はどんどんと増えてトンネルの中は明るくなっていく。
「次で最後です。どこに行きますか……と言いたいところですが、最後の通過地点は決まっていますので、そちらに向かいます」
まだ思い出の場所はあったけれど、運転しているのは彼なので従うほかない。
そうして初めて二度カーブをしたあと、列車は知らない森の中を走っていた。
空は完全に暗くなり、星明りと月明かりだけが列車を照らしている。今走っているのは、自動車用の道路らしいが、走っている車は一台も見当たらない。
しばらく走っていると、前方に少し明るくなっている場所を見つけた。家の明かりというよりも、工事現場のような明かりが見える。
その横を通過すると同時に、明かりの中を見てみる。そこには、完全に横に倒れてしまったバスと、山の方から流れてきたであろう土砂が道路を塞いでいるのが見えた。
あのバスは学校用のもので……高校の名前が書かれている……部活用のバスで……
その部活は……自分も……私が所属している……遠征から帰る……途中の……
「私は……」
「思い出しましたでしょうか。いえ、正確に言えばあなたは知らないことではあるのですが。知らなかったからこそ、あなたは知らなければいけなかった。そのために、あなたは先導役に選ばれたのです」
そうだ、私は、部活の大会終わりのバスで寝たんだった。そして、そのまま……
「それでは、これより終点の冥界へと向かいます」
今度はきちんと聞き取ることができたその終点は、いくら電車を乗り継いでも家には帰れなさそうな場所で。
薄れゆく意識の中、眠りそうになる視界が最後に見たのは、真っ白になったトンネルの明るい光。それらはすべて、この列車に乗っている人たちのもので、きっと終点で帰ることのできないような人たち。
「降り口はありません。開くドアに、ご注意ください」
そう微かに聞こえると同時に、私は静かに眠りについた。