4 母の想い
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
私は娘を学校に送り出すと、自転車にまたがって、仕事場の旅館へと向かう。
途中、旅館の社長の息子の中田君とすれ違い、「おはよう」と声をかけた。
彼も「おはようございます」と言って軽く会釈した。
ちょっと寝ぼけ顔の彼は私の娘と同じ高校へ通っていてクラスメイトでもある。
仕事場である旅館へ着くと制服である作務衣に着替える。
荷物運びや館内と避難口の案内、朝食や夕食の配膳や下膳、布団の上げ下げなど旅館の仕事はなかなかに大変だった。
それでも今住んでいる家から近いのと、土地に不慣れな私に他の従業員の人たちは親切に接してくれるありがたい職場だ。
この辺りはよい漁場らしく、魚がたくさん取れておすそ分けをもらうことが多くて、家計を助けてくれる。私も少しずつ魚のさばき方を教えてもらっている。夫がこちらへ来たら私が魚を捌いてお刺身を出してあげたい。きっと惚れ直すわ。
以前はさばいてある魚をスーパーで買って食べるのが当たり前だったのだから、こんなことを考える自分に我ながら驚きだ。
それにしても、新鮮な魚はおいしい。
ここは温泉地だけれども、釣り目的に訪れる人も多い。たくさん釣れた時は旅館に差し入れてくれるお客さんもいる。
最初はおっかなびっくりだったが、最近はだいぶ魚をさばくのに慣れて来た。娘も魚がふんだんにでる食卓になったことを喜んでいる。
(沙菜は魚が好きだったんだ!)
この温泉地へ来て娘の知らなかった一面も知ることが出来た。
娘の肌の状態も少しずつ良くなっている。最近は笑顔も見られるようになって来た。
相変わらず人見知りみたいだけど、中田君とは仲良くしているらしい。
よく彼の話を聞かされる。
こんなにおしゃべりな子だったとは。
小さい頃から肌のトラブルで悩んでいた娘はあまり話をせず、うつむいていることが多かった。
良い病院や良い温泉の話を聞きつけては連れて行った。
だけれども、どこも一時的にはよくなったように見えてもすぐに悪化してしまうという事の繰り返しだった。
そうなると沙菜の表情は暗くなる。
私たち夫婦も十年以上続けている沙菜の皮膚の事で精神的に限界が近かったと思う。
家族全員が闇の中でもがいているような状態だった。
私も良く泣いた。
何もしてやれず、暗い表情の娘を見て辛かった。
「大丈夫だよ」
と娘は私によく言った。どう見たって大丈夫ではないのに。
沙菜が高校1年の時、この温泉地の話を聞いた。
かなり古くからある温泉で、皮膚病にも効くらしい。
試しに数日逗留してみようという事で、家族で今の職場となっている温泉宿に滞在した。
正直、期待はしていなかった。
初めは『ちょっと楽かも』と言うのが沙菜の感想だった。
しかし、娘の表情が全く変わった、暗い表情をしてうつむいていた娘の表情が初日から明るくなり、帰る日には鼻歌を歌うほどだった。
私たち夫婦は驚いて顔を見合わせた。初めての事だったからだ。
戻ってからも数日調子が良い様子だった。
もう、ここしかない。
私たち夫婦は話し合って覚悟を決めた。
そうして、私と娘はこの温泉地に移住することにした、主人は仕事があるので一人残った。
娘が地元を離れることを嫌がるのではないかと思ったが、肌が良くなるならと意外に前向きだった。
その娘が今私の前で魚の煮つけを食べている。
今日の学校での出来事の話をしてくれる。学校生活は充実している様だ。
そして中田君の事。教室でよく話をしているらしい。
娘は自覚があるのだろうか、彼の事を話すことが多いことを。
それにしても、あの沙菜がこんなにおしゃべりになって、クラスメイトの男の子の話までする様になって、娘の変化に私は思わず目頭が熱くなる。
実は、娘の皮膚は今のところ見た目はそれほど変化はない。
ただ、不快なことが減って来ているらしい。
特にかゆみがかなり改善されたみたいだ。
長年の疾患のため、見た目まで良くなるには長くかかるのだろう。
あまり欲張らず辛抱強く待つしかない。
何と言っても娘の笑顔を見られるようになったのだから。
中田君は良く旅館の手伝いをしている。
特に風呂洗いをしてくれるのは助かる。
旅館の社長つまり彼のお父さんは最近腰を悪くして、調子が悪い時には従業員に風呂洗いを頼んでいるからだ。
学校が休みの時は率先して風呂洗いをやってくれるので、頼りになる存在だ。
お礼を言うと照れ臭そうに小遣いもらえますからと謙遜する。うん、なかなか好印象。
(沙菜は彼とならいいかな)とか思ってしまう。私はバカ親だ。
そんなことを考えることが出来るようになったのは、この温泉地のおかげ。
ほんの数か月前までは、こんな事を考えられる状況ではなかったから。
教えてくれた知人にも大感謝しなければ。
もうずいぶん暑くなって来た。
夏が近づくと沙菜の皮膚の事が気になって不安になってしまう。
今年はまだ変化はない様だけれど、沙菜の皮膚の状態が悪くなる季節だから油断しないようにしないといけない。
わざわざ親子で湯治のために移住までして迎える今年の夏は一つの正念場になるだろう。
ああ、どうか沙菜の笑顔が陰ってしまいませんように。