蝸牛の湾曲した畦道
凄まじい小説には幻覚作用がある。ソイツが文章を読みながら場面の画をイメージするタイプかタイプじゃないか、そんなことに関係なく、脳に取り込まれた文章の遥か上空には、ぼやけてはっきりとはしないが何か強烈な価値のある幻覚が、そこに意識を向けさえすれば自然と展開されるのを眺めることができる。僕のみる幻覚でよくあるケースとしては、雪のように白くて粗い粒が視界の右斜め上から対角線とだいたい平行に移動してノイズを編み出し、それが奥の景色を隠そうとする隙間から、あるいは粉が流動する全体の影によって、コンクリートで建てられた古い大病院の輪郭が示される。どのジャンルの小説を読んでいても僕との相性が合えば、なぜかいつもこの幻覚が必ずみえるのである。自分でもよく分からないし、そもそも僕は病院へなど行ったことがなかった。またときには大病院でなく、広大な灰まみれの畑の上を満月が昇ることもあった。前者は退廃的かつ行き過ぎた清潔感を帯び、後者は退廃的であるとともに飢えた、乾いた印象を僕に与えるのだった。
このまま本の感想で留めてしまうことに躊躇いがあるが、しかしそうするしかない日というのは確かに存在する。とにかく現状に打ちのめされて、妥協案にさえ到底届きそうもないまま降参の道を選ばされる日というのは少なからず存在する。おそらく年齢を重ねるごとにその頻度は増していくのだろうが、同時に受け流し方を身に着けてもいる大人にとっては段々と、ないものとして捉えられるようになる。いわゆる良い歳の取り方とはこんなものだろう。実現できている人間がどれくらいいるのかは別として、いつだって僕たちは理想に振り回されて来たし、それは自転としても公転としても発生しうる。求めるだけの自分の姿に目が向かず、求められた自分の姿が大きすぎて目を向けられない。そして今夜僕は僕に求めることも、求められることもなく降参して、ただその様を記録することにしか時間を費やせない。当然こんな文章では幻覚は見えてこない。負けたのだ。昨日今日と負けるとしばらく負け癖がつくいつものパターン。いずれ悪くない日もあるとかいう助言が、一番白けてしまうくらいには僕の性格は歪曲している。大切なことは今日負けたということだ。いつかの時期、僕はグラフ理論における木を学んで部屋に籠っていた。その間は飲み物や食べ物を買うためにしか外出しなかったのだが、たしかその時期は冬だった。道の途中には低い枯れ木が1本立っていて、葉がなく露出した枝分かれの過程をまざまざと見せつけられ、僕はしばらく奇妙な感覚に陥っていた。教科書やweb情報、自力でノートに書いたりしたしょせん構造でしかなかったものが、それもかなり複雑に分岐した木が植物として逞しく生きているのである。単なる枯れ木がこんなにも綺麗にみえたのは初めての経験だった。
凄まじい小説が呼び起こす幻覚と、学問が入り口となる自然美の発見にはどの程度の差があるだろうか。前者は拡大の成分を含み、後者は秘奥の成分を含むと考えると、言語はそもそも自由な思考を可能にするための道具であるし、自然はあらゆる物理的制限やむしろ、言語によって思考されうる全ての可能性から採択された現実に位置するだめ、これら二者とも初めから自分自身によって約束された力を発揮し、それを受け取った人間の感覚に作用しているらしい。話は逸れるが、大麻や幻覚剤を摂取した際、器官によってそれらの成分が認識されることで効果を引き起こすと考えるならば、視覚や聴覚によって認識された成分がそのような効果を引き起こしたとしてもとくに疑問は残らない。ただ意識によるコントロールや実際に起こる症状の強度などに違いはあるため、トブために必要なだけの適度な方法を見極める必要がある。だが同時に、自分のことを大切に考え過ぎても上手くトベないことは確かである。かといって自傷行為に走ればいいのかといえばそうではなく、トブとは飛ぶのか跳ぶのか、あるいは沈むのか、ビジョンを維持したまま己の感覚を弄ぶのだ。