5-10 兄と妹の決意
「ただいま……あっ!兄様!!」
帰宅したリーナベルは驚きの声を上げた。珍しくランスロットが家にいたのだ。ここ最近は顔を見ていなかった。メイドのメアリーに上着を預けて、兄にパタパタと駆け寄る。
「おー、ただいま。あれ、ジルベルトは?あー、今日は騎士団の仕事か」
話し口調はいつもと変わらないが、ランスロットはかつて見たことがないほど疲弊していた。ただでさえ色白の顔が、もはや青白い。そして、ぐったりと力なくソファーにもたれ掛かっている。胸元に、紙束のようなものを大切そうに抱えているが、重要な書類か何かだろうか。
「ちょっと兄様、大丈夫なの!?顔色が酷い。やっぱり、無理しすぎよ……!!」
駆け寄るリーナベルを制して、ランスロットは言葉を発した。
「……やっと裏が取れた。あのクソ女の、クソ魔術。クソめ……」
「えっ!!」
リーナベルは驚愕した。
防音の結界がないのでぼかしているが、クソ女とは間違いなくオーレリアのことであろう。そして、ランスロットは「クソ魔術」と言いながら自分の目を指差した。つまり洗脳魔術のことである。
「証拠が、あったの……!?」
「クソ女が習得していることは確実になった。とりあえず……アレと結婚しなくて済みそうだ」
ランスロットは、額に両の掌を当てて俯き、フーッと大きく息を吐いた。
オーレリアとの婚約は、彼を極限まで追い詰めていたらしい。リーナベルは兄の背をさすった。
「頑張ったのね……兄様。お疲れ様」
「リーナ。俺は、やっとわかった……」
「うん?」
「今回クソ女やクソ貴族と嫌になるほど関わって、よーくわかった。やっぱり俺に、貴族は向いてないってな」
「そ、それは……。前から分かっていたんじゃないかしら」
視察と称して、どっぷり下町に入り浸るほどの兄である。侯爵家の嫡男であるにも関わらず、彼の貴族嫌いは昔から結構深刻なのだ。
「待て。わかったことには、まだ続きがあるんだよ」
「そうなのね。話して?」
「クソ野郎どもの中に混ざっていたら、やっとわかったんだ。痛感したんだ……俺にとって、一番大切な存在が……誰なのか」
「……」
言わずとも、セレスティナのことだと、妹のリーナベルにはわかった。
兄の顔は蒼白なままだ。あの楽天家が珍しく眉根を寄せ、深い苦悩の色が見える。
「俺は、逃げてただけだ。本当はずっと、あいつは特別だってわかってたのに。……情けねえ……」
ランスロットは胸に抱えていた紙束を、そっと机に置いた。宝物を扱うような、繊細な手つきだった。
その紙束は、手紙だった。
差出人のところには可愛らしく綺麗な文字で、セレスティナの名前が書かれている。
「これ……全部、手紙……?」
「そう。熱烈なラブレターにうまく混ぜて、何度も俺の探してる情報を送ってくれていた」
「……!そうだったの……!?」
「あいつは……俺が思っていたより、ずっと大人だった」
自分以外の女性と婚約した想い人に向けて、書き続けられたラブレター。
彼女は泣き暮らすのではなく、彼の真意を読み取って、支えようとしていたのだ。
なんて、強い子なのだろう。
なんて、健気な子なのだろう。
リーナベルは目頭が熱くなった。
「俺にとっての『特別』は一人だけだ。身分や年齢、どんな沢山の障害があろうが……何年経とうが……これからもずっとだ。やっとわかったから……俺は貴族であり続ける。例え貴族が向いてなくても、それは必要なことだから」
ランスロットの青い瞳が、強い光を宿していた。
リーナベルより深い、青の色。兄の中で、何かが大きく変わったのだとわかった。
兄はフラフラしてヘラヘラして、器用に色々なことをかわし続けて……いつも結局、それから逃げていたのだろう。
「兄様……覚悟を決めたのね」
「ああ。もう手段は選ばないさ。絶対に彼女を俺のものにする」
悪い顔で不敵に微笑んだ兄は、やっと少しだけいつもの余裕を取り戻したように見えた。リーナベルも思い切り笑顔になる。
「大賛成よ!!私、応援する!!」
「ありがとな。お前にこんな話して、悪いな……。まだ、彼女に直接言えないから。誰かに聞いて欲しかった」
「ううん、聞けて良かった。本当はずっと心配してたのよ?」
「お前はほんと、人のことをよく見てるよなあ」
「ねえ、手紙を書いたら?クラウスに渡して貰えばいいじゃない。いくら、芯の強い子でも……きっと、泣いている日もあるのよ」
「……そうだな。そうする」
兄と妹は、しばし穏やかに話し合った。二人で話すのは久しぶりで、楽しかった。
「私もね、ジルとずっと一緒にいる覚悟をしたのよ」
「いや、何言ってんだ。お前らはもともと婚約してるだろ?」
「違うの。私、今まで覚悟ができていなかったの」
「……そっか。確かにお前はずっと、少し後ろ向きなところあったけどさぁ、最近変わったよな」
兄にはお見通しだったようだ。お互い様である。
「ジルのお陰よ」
「あれだけ愛されれば、自信もつくだろうよ」
「うん」
「はあ、いいなぁ……。俺はさぁ、もし万が一、ことがうまくいっても……すぐには、思い切り愛せない。まだ幼いあの子に、選択肢を残してやりたいからなぁ……」
「ええ……?兄様って本当に、面倒な性格してるわよね……」
「まあな。お前の兄ちゃんだしな」
「どういう意味よ」
リーナベルは笑いながら突っ込んで、それからふと、気になっていたことを尋ねた。
「ねえ。私の『前世』のことを聞いてどう思った?気持ち悪くなかったの?」
「はあ?まさか。むしろ納得したよ。つーか、父さんと母さんも、お前に事情があることは薄々勘づいてると思うぞ」
「えっ!?そうなの?」
「お前はすごく変わった子供だったからな。最初から異常に勉強ができたし、訳わかんない新しい魔術陣は作るし。父さんはお前を隠すのに、今まで随分苦労したんだからな?」
「そ、そうなんだ……」
優しい両親と兄で本当に良かった。家族に恵まれたことは、今世での一番の僥倖かもしれない。
「ねえ兄さん。絶対、頑張りましょうね」
「ああ、勿論。お前のことも守るからな」
妹と兄は、こうして決意を誓い合った。
♦︎♢♦︎
そこは豪奢な王宮の一室。
奥まった場所にあり、密会に向いている部屋だ。隠し扉を通らないと入れない。
革張りのソファの上で、真紅の髪の女が、金髪の大柄な男にしなだれかかっていた。
「お前、ランスロットとはもう寝たのか?」
「嫌だ。そんなわけないでしょう?冗談でもやめて下さいな。あんな庶民かぶれの男、本当は近づきたくもないわ。そのくせこちらに情報を絶対に渡さない。忌々しいったら……」
「でも、もとはお前が熱烈に求婚していただろう?」
男がクックッと笑った。皮肉げで、意地の悪い笑い声。
「それは!ちょうど良い隠れ蓑だっただけです。向こうは絶対に婚約打診を受けないと思っていたし、私は結婚なんてしたくなかったのですから」
「それが急に婚約を受ける、だからな」
「寝耳に水でしたわ。私には……貴方だけ。貴方しかいないのです。例え結婚しても……貴方だけ愛していますわ」
男は満足げに笑った。その瞳に、愛しさや優しさは見えない。女に口付けて睦み合いながら、男はまるで毒のように囁いた。
「可愛いオーレリア。お前にまた、頼みたいことがあるんだよ。引き受けてくれるかい?」
「貴方様の言葉ならば、喜んで」
金髪の男は、蠱惑的な笑みを静かに浮かべた。
その、紫の瞳は――暗い部屋で、怪しく光っていた。




