5-9 大切な子が泣いている
「クロエ。動かないで……」
その日、フェルナンはクロエを抱き締めた。それは拘束だった。優しい、優しい拘束だった。
その日は、クロエが彼の手を跳ね除けることはなかった。
魔術で拘束なんかしたくなかったから、フェルナンは心底ホッとした。
「クロエ。僕の目を見て」
――クロエ。
クロエ。
君はどこにいる?
今何を思っている?
フェルナンは呼びかける。
『彼女』に呼びかける。
この世で一等大切な子に、呼びかける。
二人を覆い隠すように、彼の三次元魔術陣が輝いていた。
彼の瞳の色と同じ、明るい金色の魔術陣は、夜空に光る星々のようだった。
「……洗脳、確定だ。魔術陣も、もう覚えたよ」
クロエの瞳に魔術陣が浮き上がっていた。ラズベリー色の光を曇らせる、赤黒い不気味な魔術陣。
「クロエ。ずっと、辛かったね。苦しかったね……」
「フェルナン様?何をおっしゃっているの……?」
クロエの瞳は、こちらを映しているようで、映していない。彼女の瞳には、もう何も映っていないのだ。まるで人形みたいに。
――クロエ。
君は、今どこにいる?
今、何を思っている?
会いたいよ。
君に会いたい。
恋しいよ。
フェルナンは、クロエをじっと見つめた。
クロエは、泣いていた。
涙は決してこぼれない。
けれどフェルナンには、大切な子が泣いているのが、確かにはっきりとわかった。
だから代わりに、フェルナンが涙をこぼした。
「クロエ。絶対に助けるから。待っていて」
約束と共に、ぎゅうっと抱き締めた。
大切なあの子に、僅かでも届きますように。
♦︎♢♦︎
クロエが洗脳されていることが、ようやく確定した。
彼女の異変から、既に三ヶ月以上が経っていた。状況は刻一刻と悪化している。学園だけでなく貴族社会全体でも、リーナベルとミレーヌを悪し様に言う者が出てきていた。クラウスとジルベルトが尽力して、何とか抑え込んでいる状況だ。
「ここまで長かったな……」
「フェルナン、お疲れさま。解呪まで必ず頑張りましょう」
「うん」
フェルナンは疲れ切っていたが、その目にはまた少し力が戻ったように見えた。リーナベルはちょっとだけ安心して笑った。
きっと、本物のクロエの存在を確信できたからだろう。彼はクロエのために頑張っているのだ。
二人の前に座っていたルシフェルが、笑顔で頷いて切り出した。
「魔術の発動から三ヶ月経っているのに、魔術陣まで特定できたのはすごい成果だよ。これがあれば解呪の魔術陣を構築できるはずさ」
「先生が海外の文献を取り寄せてくれたからですよ」
「役立ってよかったよ。解呪のための魔力の選定はどうなっているんだい?」
「ミレーヌに作ってもらったリストの中で、動物由来の魔力の中に適性の高いものがありました」
「上出来だね。超特急で取り組んで……あと、三ヶ月くらいかなぁ」
「やります。必ず」
彼の意志は固い。リーナベルだって、どこまでも助けるつもりだ。
「リーナベルの魔道具は、進捗はどうかな?」
「実はもうできました。これです」
リーナベルは小さなガラス片――――コンタクトレンズのようなものを取り出した。
洗脳のターゲットが目だとわかったので、魔術を無効化する結界を仕込んだコンタクトレンズを作ったのだ。
『洗脳ダメ絶対レンズ』と名付けたが、ジルベルトしかその名前は呼んでくれない。フェルナンには、「ダッサ」と言われたし、腹を抱えて笑われた。納得がいかない。
「ジルが今つけています」
「おお、よく見せてくれるかい。なるほどなるほど、これは闇魔術の転移を主軸にして光魔術の時戻しを保険的に組み込みかつ火魔術でこちらの作用の増幅と水魔術による洗脳魔術の抑制をバランスよく組み込んでうんぬんかんぬん」
「先生。先生、落ち着いてください。そして近いです」
ジルベルトの瞳を覗き込んだルシフェルが捲し立て始め、どんどんジルベルトの瞳に距離を詰め始めたので、ジルベルトが必死に嗜めた。
「ああ、ごめんねぇ。最近私の中でも、魔道具が熱いんだよねぇ」
ルシフェルは元の場所に戻り、のほほんと笑っている。研究バカは健在だ。
「こほん。魔術痕跡の増幅……術者特定のための魔術は進んでいるかな?これは、僕の勘なんだけれどねぇ……。それで動かぬ証拠を突きつけないと、今回の犯人を追い詰めるのは難しいだろうと思うよ」
ルシフェルには結局、あらかたの事情を話した。そして彼には、どうやら黒幕に心当たりがあるらしい。彼は珍しく遠くを見て、悲しそうな目をしていた。
「それが、難航しています。三次元魔術陣では不可能かもしれません。四次元まで引き上げることを検討しています」
「それは一気に難易度が跳ね上がるよ。リーナベル、無理をしないようにね」
「はい、先生」
リーナベルがにっこり笑って、隣にいるジルベルトがその頭を撫でる。
相変わらずの溺愛っぷりにフェルナンが横で苦笑いをしたその時、ルシフェルが思い出したようにぽつりと呟いた。
「ああ、そうそう。クロエ嬢の、吐息による魅了の件だけれど……」
「!はい、何かわかりましたか?」
フェルナンが食いついて立ち上がった。
クロエだが、やはり魔力の吐息による魅了を有している可能性が高いと思われた。
攻略対象のカインを含めた、学園全体の貴族子弟の籠絡。そのスピードがあまりにも速く、彼らの心酔っぷりが異様だからである。
「東の巫女は、その昔生まれた国を逃げ、こちらの地方に亡命したという記録があった。血縁の可能性がある」
「……っ、ほぼ、確定じゃないですか」
「さすがヒロインだわ……」
「敵は、彼女の魅了効果を増幅して……効果的に利用している可能性が高いねぇ」
「確かに。洗脳前は、あんなに異常な効果は働いていませんでしたね」
「うん。彼女の洗脳を解呪したあと、魅了効果を遮断する魔道具を作っておいてあげた方が良いだろうね。リーナベル、できそうかい?」
「それは比較的簡単にできると思います。私が着手しておきます」
議論がひと段落し、他の細かい調整事項を話しながら、その場はお開きとなった。
♦︎♢♦︎
「やることがいっぱいね……」
「リーナ、大丈夫?最近睡眠もちゃんと取れていないようだけど」
話し合いの後、ジルベルトは転移でリーナベルを部屋まで送ってくれた。彼の秀麗な顔の眉間に、深い皺が寄っている。ジルベルトは、リーナベルの目元を指でなぞった。きれいな瞳の下に、うっすら隈ができているのだ。
「ひどい顔でごめんね」
「ひどくなんてない。リーナは、隈があっても可愛いよ?だけど、心配だから」
「ありがとう……あのね、ジル」
「うん。なに?」
「今日はその、一緒に寝たいし……。その、あの……」
「ふふ、くっつきたい?」
「うっ!うん……」
リーナベルは忙しすぎて、ジルベルト成分が不足していた。推しは生きる糧である。
二人が一線を越えたことは、まだ数えるほどしかない。リーナベルは恥ずかしくて、もう林檎より真っ赤になっていた。
「さらに寝不足になるかもしれないけど、大丈夫?」
「いいの。ジルが足りないの……」
ジルベルトはふわりと微笑んで、リーナベルを抱き上げた。
「ジル!?今からじゃなくて、その!夕食とか、湯浴みとかあるから……!」
「夕食は一緒にとろうよ。湯浴みも一緒にしようね?」
「えっ!その、あの…………うん」
リーナベルは赤くなった顔を隠すように、ジルベルトの首元にぎゅっと抱き着いた。
世界で一番大好きな場所。ここを失ったら確実に、心が折れてしまう自信があった。
フェルナンは。
本物のクロエに会えなくて、どれだけ辛いだろう。
抱き締められなくて、どんなに辛いだろう。
クロエは?
泣いているのではないだろうか?
フェルナンの元に帰りたいと……ずっと泣いているのではないだろうか?
リーナベルは友人たちのことを思い、少し涙が出てしまった。
ぐずっと鼻を啜ると、ジルベルトがリーナベルの頭に頬を擦り付けてきた。
ここが一番、幸せだと思ったら――――またさらに、涙が溢れてしまったのだった。




