5-8 推しとの初めての喧嘩
「リーナ」
ドアの向こうから聞こえたそれは、聞き慣れた声だった。
大好きな声だけれど。
今は、一番聞きたくない声だった。
「……ジル……。どうしてそこにいるの……」
「ランスロットに頭を下げて、玄関を通してもらった。転移は卑怯だと思ったから」
――兄様……!裏切ったのね!?
リーナベルは頭に一気に血が上るのを感じた。
あの事件から何時間も経っている。ランスロットならば状況を把握しているだろうに。妹が傷ついているのが、わからないのだろうか?
「ランスロットを責めないでやって欲しい。大事な妹を泣かせるなと、一発殴られた」
「そ、そうなの……」
リーナベルは結局、すぐにジルベルトが心配になってしまった。
――殴られた、って……。
あの綺麗な頬に、殴られた跡がついているのだろうか?
胸が痛む。
やっぱりリーナベルは、どうしたって彼が好きだった。
今は心底怒っているというのに、それでも彼を心配するのは止められないのだ。
「リーナ。扉を開けていい?」
「嫌……!駄目よ!!!」
「そんなに、俺のことが嫌いになった……?」
「大嫌い。大嫌いよ……!!うゔっ……!!」
リーナベルは強く拒絶した。大嫌いなんて、全く思ってもないことを言ってしまう。心が散り散りに砕けて、混乱しているのだ。それに、見られたくない。嫉妬に狂った、こんな醜い姿を。涙でぐちゃぐちゃになった顔も。何もかもだ。
「リーナ。クロエ嬢とは何もない。リーナが思っているようなことは、何も」
「うっ、ひっく、嘘……!き、キス……して、た、もん……!!」
しゃくりあげながら返事をする。
キスという単語を言うのすら、嫌悪感が強かった。
「していない。俺の、騎士としての矜持に誓って」
「…………もし、それが本当だったとして。じゃあ……じゃあなんで、あそこまで顔を近づける必要があったって言うの…………!?ジルの馬鹿……!!」
キスしているようにしか見えなかったけれど、角度的にはっきり見たわけではないのは本当だ。遠目だったのも事実である。
だけど、あそこまで不用意に、顔を異性に近づけると言うのがおかしいではないか。そう思った。それすら、リーナベルには許せなかったし、納得できなかった。
「クロエ嬢の瞳に、魔術痕があったから。確認しようとしたんだ」
「…………何ですって?」
リーナベルはしゃくり上げるのが少し止まり、自分がちょっとだけ冷静になるのを感じた。
「それは、洗脳の……?」
「おそらく。彼女がイベントを狙って俺からキスされるのを待っていた時、勿論すぐに拒絶しようと思った。嫌悪感しかなかったのは本当だよ。でも、魔術痕に気づいた。こんな隙はこの先ないと思って、不用意に顔を近づけてしまった」
「ふ、不用意すぎるわよ……!!」
「それは本当に、ごめん。でも、口付けはしていない」
「うう…………それ、ほ、本当なの?洗脳の魔術のターゲットは、相手の目だということ?」
「おそらくそうだ。あれを分析すれば、解呪の手掛かりが得られるはずだ」
ドア越しに、思わず真面目に議論してしまった。それが本当なら、大きな手かがりとなる。目をターゲットに絞って、強力な魔術感知の陣を構築すれば良いのだ。
しかし、リーナベルは今、自分が心底怒っていることを再び思い出した。
「じゃあ、じゃあなんで誰にも念話を飛ばさなかったの?状況を教えてくれれば良かったのに!!やっぱり信用できない……!!」
「それもごめん。今回リーナを悪役に仕立てようとした犯人を、探っていた。現場を監視していた可能性を考えて、盗聴と魔術感知に集中していた。そのうちクロエ嬢が俺とのイベントを起こそうとし始めたので、彼女の魔術痕を分析しようと隙を伺っていた。それでも……リーナに一言入れるべきだったね。優先順位を間違えた俺が悪い」
「うっ…………」
ジルベルトの説明があまりにも理路整然としているため、リーナベルは言葉に詰まった。彼はまた、念話を飛ばす余裕もないほどマルチタスクをこなしていたようだ。
無意識に彼を責める言葉を探すが、だんだん馬鹿らしくなってきた。
自分が傷ついたから、八つ当たりしようとしているだけではないか。ジルベルトと喧嘩したことがほとんどないから、必要以上に問い詰めてしまったかもしれない。
リーナベルにはそれ以上、彼を責めることはできなかった。
彼女はしぶしぶドアを開けて、開いた小さな隙間から覗き込んだ。
「ジル……」
「リーナ。辛い思いをさせて、悪かった」
「ジルっ!?ひどい顔だわ!!どうしたの!?」
覗き込んだリーナベルは仰天して、ドアを開け放ってジルベルトに掴みかかった。
彼の両頬は真っ赤になっていたのだ。
「クラウスとフェルナンからは説教。それとミレーヌのビンタ。最後にランスロットに殴られた。……ミレーヌのビンタが、一番効いたな」
「ええ……!?ひどい怪我よ!どうして回復をかけなかったの!?」
リーナベルは腫れた両頬に触れ、急いで風魔術の回復促進をかけた。あまりにも痛々しい。頬の腫れが少し引いていく。
「これは俺のけじめだから。リーナを傷つけたと、泣かせたと、皆怒っていた。俺が完全に悪い。それを受け止めた以上、自分で回復をかけるのは違うと思った」
「ジル……!もう……もう……!!」
「リーナこそ、目が真っ赤だ……可哀想に……」
「ゔっ……」
リーナベルは顔を腕で覆った。ジルベルトにだけは見られたくなかったのに。
「見ないで。私、醜いのよ…」
「リーナはいつだって綺麗で可愛いよ。目が腫れていても、泣いていても。醜くなんてない」
ジルベルトはゆっくりとリーナベルの手を取って、腕を離させた。指が絡められて、繋がれる。
目と目が、ゆっくりと合った。琥珀色の瞳が、とても苦しそうに細められている。
「わ、私…………嫉妬、したの……」
「……うん」
「すごく、醜いのよ。ジルを誰にも取られたくないって思ったの」
「こんなこと、言って悪いけど……リーナがそんな風に嫉妬してくれて、俺は嬉しい」
ジルベルトが意外なことを言ってきたので、リーナベルは目を見開いた。その拍子に大きな涙の粒が、ぼろりとまた数粒こぼれた。
「う、うれしい……?」
「そうだよ。気持ちを通じ合わせてもリーナは……まだどこか一歩、引いていて、いつも不安そうだった。俺に対して、激しい嫉妬や独占欲を見せてくれることはなかった。嫉妬するのはいつも俺ばかりだって、寂しく思ってた」
「そうなの……?」
「そうだよ?」
ジルベルトは優しくリーナベルの頬を包み込んだ。
「欲しがっていいんだ、リーナ。リーナの本当の気持ちを聞かせて欲しい」
「私の、ほんとうの、きもち…………」
「うん」
「わたし……わたし……」
リーナベルの青い瞳がゆらゆら揺れる。次から次へと透明な涙がこぼれ落ちた。
「私……ジルを、誰にも取られたくない。ジルの"今"も、『未来』も、全部。誰にも渡したくないわ……!」
「うん」
「他の子を、好きに、ならないで……!誰にも、触らないで……!私だけを好きでいて……!!」
「うん」
とても自分勝手で醜い気持ち。それを次から次へと吐露しているにも関わらず、ジルベルトは心底嬉しそうに、美しく笑っていた。だからリーナベルの勢いは、止まらなくなった。
「ジルの、全部が欲しいの……!もう、ジルを諦めるなんて、できない。ジルとの『未来』が、全部が……欲しい……!!」
「うん、あげるよ」
ジルベルトはさらに破顔してから、リーナベルを抱きしめた。それは一番大好きな表情だった。
「……いいの?幻滅、しない?」
「するわけない。俺も同じ気持ちだから」
「そうなの……?」
「当たり前だろう?俺は、リーナの全部が欲しいって、何度も伝えてきたはずだけど?」
確かにそうだ。リーナベルは、拍子抜けしてしまった。
「私……欲張っても、いいの?」
「俺は欲張って欲しいよ。俺との『未来』を諦めないで、強く求めて欲しい。嫉妬も独占欲も、全部見せて欲しい」
ジルベルトの背中に、恐る恐る手を回す。あたたかい、大好きな場所。この場所を失うなんて、やっぱり考えられないのだ。絶望してこの部屋で泣いている時、とても辛かった。
もう耐えられないのだと、悟った。彼なしで生きていくなんて、自分はもう耐えられないのだ。
「俺の全部を、リーナにあげる。だからリーナの全部を、俺にちょうだい?リーナが見せたくないと思っている顔も全部、ちゃんと見せて欲しい」
「うん……うん。あげる。全部あげるわ。私の"未来"も全部。だって……ジルと、一緒にいたい。年をとって、死ぬまで、一緒にいたいの」
ジルベルトは少し顔を離して、心底愛おしそうにリーナベルを見つめた。今までに見たことがないくらい、満足げで幸せそうな顔をしている。
リーナベルは、自分がずっと一歩引いていたことで、この人を不安にさせていたのかもしれないと――――初めて気が付いた。
綺麗な琥珀の瞳が熱を帯びて、彼女を捉える。
「今日あんなことがあって、俺は反省すべきだ。だから、嫌だったら拒絶していい。けど……リーナ。約束を、覚えている?俺との『未来』を信じられるようになったら……って、言っていたこと」
「覚えてるわ。も、もちろん……」
リーナベルは、自分の頬が熱を持つのを感じた。きっと首まで赤くなっている。いっぱい泣いたから、目も腫れぼったくなっているだろう。それでも構わないと思った。
いま、この人が、欲しい。
「私の全部を……今、あげる。最後まで、奪って……。だから、その代わり。ジルの全部を……ちょうだい」
ジルベルトはその日一番の美しい笑みを浮かべ、リーナベルをそっと抱き上げたのだった。
♦︎♢♦︎
ジルベルトはリーナベルの『全部』を奪った。今は二人、シーツの上で密やかに話している。今日は満月だ。月の光が、柔らかく二人の輪郭を照らしていた。
「今日みたいに不安にさせることもあるかもしれないけど、俺には……リーナだけだから。それは絶対に変わらないから、どうか信じて欲しい」
「うん。大丈夫……。ジルのことをもう、誰にも渡さないって決めたの」
「うん、渡さないで?返品できないよ」
「ジルこそ」
「いや、俺は頼まれても返品しない」
顔を限界まで近づけて、二人で笑い合う。穏やかな、良く晴れた夜だった。
もう何かに迷っても、信じられなくなりそうになっても、きっと大丈夫だろうと思えた。
二人が出会ってから四年が経つ。
しかし、二人はこの日になって、ようやく――――本当の意味で、未来を誓い合ったのだった。




