閑話 ジルベルトの多忙な一日
ジルベルトの朝は早い。
まだ夜も明けぬうちに自然と目を覚ます。
それまで抱きしめていたリーナベルを起こさないようにそっとベッドを抜け出して、念入りにシーツをかけ直す。
朝の自主練は欠かさない。
走り込み、筋トレ、剣の素振り、魔術陣の描写訓練。ルーチンを淡々とこなす。リーナベルと知り合う前から、変わらず続けていることだ。彼の一番の長所は、淡々とした努力を継続できるところなのである。
全てこなす頃には朝日が出てくるので、シャワーを浴びる。丁寧に拭くのが面倒なので、タオルで拭きながら魔術を併用し、髪も乾かしてしまう。
彼が髪を伸ばしているのは、単に度々切って整えるのが面倒だからだった。伸ばしっぱなしは結ぶだけで済むので、楽だった。
けれどリーナベルが、この髪を大層愛してくれるので、今は掌を返してきちんと手入れしている。まあ、手入れしなくても彼の濡羽色の髪は十分美しかったのだが、本人に特に自覚はない。
シャワーを浴びたらもう一度真新しい寝衣を着て、リーナベルの横に潜り込む。彼女の寝顔を見つめながら目覚めるのを待つのは、貴重で大切な時間だ。
眠っている彼女はいつもよりあどけない。無防備に開けられたさくらんぼ色の唇。けぶるような白銀のまつ毛が閉じられている。「寝顔なんて、あんまり見ないで……」と一度苦情を入れられたが、それは無理な話だ。
見惚れているうちに、ジルベルトの大好きな青い瞳がぱちぱちと現れた。
「ん……ジル。おはよう……」
「リーナ、おはよう。まだ眠っててもいいよ?」
「んん……どうしようかな……。ジル……朝の鍛錬、お疲れさま」
まだ寝ぼけているリーナベルがふにゃりと蕩ける微笑みを見せたので、ジルベルトは思わず抱きしめてキスをした。
「んっ……」
「リーナ……はぁ、行きたくない」
「今日は、お仕事でしょう……?」
「うん、学園は休みだけどね」
普段、学園の時間があるため仕事の時間が十分に取れない。休日出勤はままあることであった。
「それじゃ、行ってくるね……」
のろのろ起き上がろうとするジルベルトをほっそりした手が止め、首に抱き付いてキスをした。
「いってらっしゃい。帰って来たら……たくさん、くっつこうね?だから頑張って……」
控えめにかけられた励ましの言葉は、ジルベルトには効果絶大であった。
寝室から出て執事を呼ぶ。騎士服は非常時のために一人でも着られるが、かっちりと着こなさなければならないため、普段は少し手を借りる。
着替えながら今日の予定を確認する。今日は午前中、側近として軽く執務をしてから、早めに騎士団へ移動して自分の部隊の訓練を見る。その後王都の巡回だ。
たくさんのボタンを閉め終わり、腕のボタンを留めながら隙がないか鏡でチェックする。
髪もきっちりと結って、整髪料で軽く整えてもらう。
最後にベルガモットのコロンを一振り。
香水は男性貴族の嗜みだと言うので嫌々やっていたが、リーナベルがこの香りを大好きだというのは嬉しい誤算だった。もう一生、このコロンを変えることはない。万が一生産終了するなら、買い占める。
準備ができた後、軽く朝食を摂る。結局まだ眠っているリーナベルの額にキスをして、「行ってきます」と言った。まだかなりの早朝である。
馬車を使わず、ジルベルトは転移で移動する。王宮内には警備の都合上、外からは直接転移できないので、馬車停めまでだ。いったん王宮に入ってしまえば、王宮内での転移は可能なのだが、少し面倒だ。
王太子の執務室まで歩いていく間に、ちらほらと王宮で働く者や騎士団の面々とすれ違う。挨拶され、「おはようございます」と無表情で返す。振り撒く愛想など持ち合わせていないが、女性陣などはポッと顔を赤らめて俯いた。
ジルベルトは全く気にもかけない。彼の肩書きや見た目に惑わされる者は、昔から後を絶たないのである。
執務室に行くと、涼しい顔をしたクラウスと、くっきり隈を作ったランスロットが仕事をしていた。
「すまない、遅かったか?」
「いいや、時間通りだよ?実は昨日の案件がややこしい事になってね。ランスロットと徹夜したんだ」
ならば何故、こんなに二人の顔色に差があるのか。理解できない。理解できないが、この王太子は色々と出来すぎるので、三徹くらいまでは平気でこなすのだ。
「俺に回せる分を回せ」
「助かるよ」
「ああー、帰って寝たいぃ………………」
ランスロットの悲痛な叫びがこだました。
王太子の側近候補となった当初は、ジルベルトの役割は主に護衛とされていた。執務は少し手伝う、くらいの程度の予定であったのだ。彼の本分は騎士である。
しかしジルベルトの処理能力が高かったため、結局かなりの量の執務をこなしているのが現状だ。ランスロットと比べれば少ない方であるが、常人にしてみれば膨大な量である。
最初の約束とは大分異なるが、成人してから正式に側近となったし、給金も十分もらっている。だから特に不満はない。
「執務ができる側近の人数を増やしたらどうだ?」
「まだ、十分に信頼できる者がいない」
「……クラウス、友達少ないもんなー」
ジルベルトもランスロットもため息をついた。この王太子の人間不信は、かなり根が深いのである。
「今、慎重に選定を進めているんだ。諦めて、もう少し付き合ってね」
クラウスが苦笑して言った。
王となる前には、信頼できる者をもう少し増やして欲しいものだ。
執務をしながら、十一時頃に昼食を摂り、そのまま騎士団に向かった。
ジルベルトは、ドラゴンを討った実績などによって急速に昇進している。肩書きは中隊長代理であり、異例の出世スピードだ。
代理なのには理由がある。学園に通っている彼には、中隊長の実務をこなせない。そのため中隊長の仕事を手伝いながら、長としての仕事を勉強しているのだった。
その代わりジルベルトは、自分の直轄部隊を持っている。十人の小隊ではあるが、精鋭揃いだ。彼らは、ジルベルトが独断で動かせる貴重な存在であった。
いや、正確には。精鋭にしたのはジルベルトなのだが。
「隊長。お疲れ様です」
「ギュンター、変わりないか」
「はっ。特に異常はありません」
話しかけてきたのは、ジルベルトの直轄部隊で彼の補佐を務めるギュンターだ。
薄い金の髪はきついカールを伴ってきらめき、長めの前髪が目に落ちかかっている。後ろは短く刈られていた。空色の瞳は表情を映さないまま、静かに細められている。彼は伯爵家の次男で、とても華奢で美しかった。そしていつも無表情なところが、ジルベルトによく似ていた。
「今日は隊長に剣を見てもらうのを、皆楽しみにしていました」
「ああ、すぐに始めよう。皆揃っているな」
「はっ!」
十人の部隊員は美しく整列している。
全員が全員、どちらかというと線が細く、それぞれに美しかった。
これには、実は理由がある。頭角を表しすぎていたジルベルトを良く思わない者たちが、嫌がらせで隊員を選定したのだ。見目の美しい者、力の弱い者、家格だけが高いと馬鹿にされる者など、騎士としては扱いに困る者たち。初めは「顔だけ部隊」と、よく揶揄された。
しかしそこでジルベルトは、父親譲りのリーダーシップを遺憾なく発揮した。地獄と呼ばれた鬼のしごきで隊員を鍛え上げ、その強さとカリスマで部隊をまとめ上げたのだ。
彼らはもともと騎士団で虐げられ、辛い思いをしてきた者たちばかりだった。見返してやりたいと、鬼のしごきに喰らい付いてきた、見所のある者たちなのである。
今やジルベルトの部隊は、「鬼の部隊」としてその力を恐れられるようになっていた。
特に斥候能力と、接敵し敵を撹乱・拘束する能力が高いと評価されている。隣国との小競り合いや対魔獣戦において、先遣隊としての実績を残し始めていた。
多忙なジルベルトが直接立ち会えない時にも、鬼の部隊は頑張っていたのだ。
――――戦闘ゴリラとか、魔王とかラスボスに加え、鬼という異名まで持っていたジルベルトなのであった。
今日は、剣技に絞った稽古だ。
身体強化と剣の強化だけに魔術を限定し、純粋に剣で打ち合う。騎士としては、剣技こそ根幹となる大切な力である。
「次」
「はっ!」
ジルベルトの後ろに着々と屍が積み上がっていく。使っているのは木剣であるが。
「覚悟!」
「遅い」
不意を突いて後ろから斬り掛かってきた部下の剣を受け、いなす。いなされてバランスを崩した彼の腹を強く打った。
「不意をつくのは良いが、隙が多い」
「くっ!……てやぁっ!!」
身体を捻って切り掛かってきた剣を受け、激しく斬り結ぶ。純粋な打ち合いだけでも、部下は力で押されていた。
「はぁっ!!」
「ふっ」
力の入った一撃をひらりと避け、素早く足払いする。倒れた彼の喉元に木剣を突きつけた。
「二度死んでいるぞ」
「……っ!ありがとうございました!」
部下は腹に回復をかけながら、後ろの屍に混ざった。はじめに馬鹿力で打たれて、よほど痛かったようだ。
「まともな相手になるのは、お前くらいだな」
「光栄です」
無表情同士、ギュンターと打ち合い始める。ギュンターはその繊細な見た目とは裏腹に、恐ろしく剣技の才があった。見た目が弱そうだから、魔力が少ないからと冷遇されてきただけなのだ。
天才型のギュンターと、秀才型のジルベルトの剣技はほぼ互角で、打ち合いを開始するとなかなか終わらない。
ジルベルトは秀才型だ。しかし、そのストイックさと何度も修羅場をくぐり抜けた経験、そしてリーナベルを守るという目的意識により、剣技自体も天才の域に達しつつあった。
「隊長、ありがとうございました!」
「皆、それぞれに告げた課題克服に取り組むように。努力すれば必ず実現する」
「はっ!」
稽古が終わると彼らは痛む身体を叱咤し、王都の巡回に出る準備を始めた。余計な休憩時間などない。無駄口も一切叩かない。
彼らには、「鬼の部隊」の他に、もう一つ呼び名があった。
「今日も必ず定時で帰るぞ!!」
「はっ!!!必ずや!!!」
「では各自、散れ!」
通称――――「定時の部隊」である。
ジルベルトは一刻も早くリーナベルのところに帰りたいので、誰よりも早く任務をこなし定時で帰宅していた。前々から、「定時の鬼」という異名も戴いていたのである。そのジルベルト自らが指導する部隊が、定時にこだわらないはずもなく。
ギュンターなど、あの無表情でありながら、年下の婚約者に骨抜きなのである。定時帰宅を大層喜び、積極的に推進していた。
――――こうして今日も鬼の部隊は、定時で帰宅した。
「ただいま、リーナ」
「ジル!!おかえりなさい!!」
帰宅するとリーナベルが輝く笑顔で迎え、抱きついてきた。ほっそりして柔らかい肢体を抱き締める。花のような香りがしてホッとした。この瞬間のために生きていると思う。
まあ、帰宅すると言っても、今日はリーナベルの家に来たのだが。
どちらの家で落ち合うかは事前に話し合うが、時間のある時は共に夕食を摂るようにしているのだ。
「あのね、今日のビーフシチューは、私も手伝ったのよ」
「リーナが?それは絶対に、最高に美味しい」
日中は全く動いていなかった表情筋が突然仕事をし始め、ジルベルトは甘く微笑んだ。リーナベルの前では、当然のように自然に笑えるのだ。ジルベルト自身にも、そのからくりがわからない。
「ジルベルト君、いらっしゃい。今日は休みなのに大変だったね」
「ビーフシチューはね、リーナが仕込みからとても張り切っていたのよ?貴方に喜んでもらうってね。仲良しで良いことだわ!食べたらそのまま、ゆっくり泊まっていってね」
「ありがとうございます」
リーナベルの父母も温かく迎えてくれる。この家の人々は、とても愛情深い。ジルベルトは息子同然に愛してもらっているのを感じており、いつもありがたかった。
ジルベルトがリーナベルを毎晩のように攫って一緒に眠っていることも、黙認してくれている。今日のように、ゆっくり泊まっていけと促される日もある。頭が上がらない。
ビーフシチューは本当に奇跡みたいに美味しかったので、ジルベルトは二回もお代わりをした。
その後家族でお茶をしたりしながら過ごし、ゆっくりした。
そうして寝支度を整えた二人は、当たり前に同じベッドに入り、抱き締め合う。
「ジル……今日も、お疲れさま」
「リーナも、ありがとう。シチュー、本当に美味しかった」
リーナベルがふふっと小さく笑ったのが可愛くて、額に口付ける。
今日は、リーナベルの家に泊まりだ。布団いっぱいに、彼女の花のような甘い香りがする。
「リーナ、キスしても良い?」
「いいよ?」
リーナベルにキスをする。ふわりと柔らかい唇の感触を感じて、ジルベルトは幸せに笑った。
こうして愛しい婚約者と、密やかに笑い合いながら。
ジルベルトの多忙な一日は、今日も幕を閉じたのであった。




