1-6 推しとの接触
早いもので、前世を思い出してから半年が経った。
リーナベルは毎日焦り続けていたが、幸いまだ事故は起きていない。
結論から言うと、新たな魔術陣の構築は、なんとか間に合った。
この世では二次元――すなわち、平面の魔術陣しか使用されていないが、それを三次元化――すなわち、立体化することに成功したのだ。これは前世を思い出す前から着想があったことであり、既に研究を始めていたため、実現が早かった。なんと開始から一ヶ月ほどで完成したのだ。三次元で立体的に展開した魔術陣を使えば、魔術の出力威力を飛躍的に高めることができた。
これを使用すれば、暴風を起こしてゴリ押しができる。
ただし、魔術陣は使用する際、自らの魔力で描く必要があるものだ。作っただけで終わりではない。
使用するために、身体強化した目で記憶に魔術陣を焼き付けるのだが、その後は正確に描けるようにひたすら反復練習するしかない。これには大変苦戦した。
令嬢教育の時間を短縮してもらい、寝る間を惜しんで魔術陣を描き続ける日々を三ヶ月以上続けた。そうしてやっと安定して、実際に強力な暴風の盾を生み出すことができるようになった。計算上、火の上級魔法を相殺できる威力であることは確認済みである。
一つ懸念事項はあった。魔力を注ぎすぎて体内魔力が空っぽになると、魔力枯渇という状態になり、死の危険があるのだ。ただしそれも、リーナベルの異常な魔力量なら問題なくできそうだった。
さらに、風魔法の付与効果による身体強化で、瞬間移動する練習も何度も行った。事故が起こったら速やかに、新作の三次元魔術陣を構築してから、ジルベルトの前に瞬間移動する。とにかく、彼の盾にならなければいけないのだ。
騎士団の早朝訓練に通うことも勿論続けた。ジルベルトを見られるので、無理を続けるリーナベルにとっては最強の癒しの時間――いわばご褒美でもあった。
雨の日、または雨の降りそうな日は、兄と馬車に乗って王宮へ向かい、傘をさしてジルベルトを見守る。雨の日の早朝にばかり来る変な令嬢と思われているようで、騎士団の人にもよく声をかけられるようになった。皆とても親切な人ばかりである。騎士道精神ってやっぱり素敵だわ、とリーナベルは思った。前世から騎士キャラを好きになりやすかったリーナベルである。
そして、これは気のせいかもしれないが……なんだか、ジルベルトと目が合うことが増えた気がする。
あの琥珀色の美しい瞳と目が合うと、心臓が壊れそうに高鳴って、耐えきれずに目をぱっと逸らしてしまう。
――あああ、ストーカーだと思われていたらどうしよう。私はただ貴方を助けたいだけなんです。許してください。
リーナベルはそうやって、毎晩ジルベルトのいる方角に向かって拝んでいた。
♦︎♢♦︎
ある日のことである。
その日は曇天のため、雨が降るかもしれないと思って訓練の見学に来たが、結局雨は降らず、空振りだった。もうすぐ早朝訓練が終わる時間なので、騎士たちが片付けを始めている。
リーナベルの横には、兄ランスロットがいた。ランスロットは時々、こうして妹を冷やかしにやってくるのだ。真面目に仕事しろよと思う。ジルベルトの爪の垢を煎じて飲んだら良いのではなかろうか。
そんなことを考えていると、ランスロットが楽しげに話しかけてきた。
「リーナ、お前があんまりじれったいからな。俺がサービスしてやろう」
「……は?」
眼鏡の奥でキラリと兄の目が光ったので、リーナベルはとてつもなく嫌な予感がした。
そしてその次の瞬間、兄が突然の暴挙に出た。
「おーいジルベルト!訓練終わりだろ?ちょっとこっち来てくれ!!」
なんとあろうことか、ジルベルト本人を直接呼び出したのである。
――あばばばば。ちょっと何してんの!?!?
混乱するリーナベルの前に、風のようにジルベルトが出現した。騎士レベルの身体強化はさすがに速い。――いや、そんなこと考えている場合じゃない。近い近い。ちょっとまって顔面が良い心の準備が追いつかない。
「ランスロット、何か用がありましたか?」
ジルベルトだ。ジルベルトが目の前にいる。
耳に響く心地よいテノールの声。言葉は兄にかけているが、その宝石めいた琥珀の双眸はリーナベルをひたと見つめていた。鍛錬で玉の汗が浮いており、漆黒の髪が額に貼り付いている。暑いのかボタンを二つ開けており、綺麗な鎖骨が見えた。その姿はあまりにも壮絶な色気を放っており、リーナベルはもはや失神寸前であった。とてもいけないものを見ている気分になるのに、釘付けになって目が離せない。
「用があるのは俺じゃなくてこいつなんだ。あ、こいつ、俺の妹なんだけど、知ってる?」
「勿論。リーナベル嬢、ですよね?」
えっっっ。私、推しに認知されていた!?!?
リーナベルは仰天した。今すぐにでも地面にごろごろ転がりたい気持ちを必死に堪える。根性で令嬢の仮面を被り、完璧な微笑みを貼り付けながら答えた。
「覚えていて頂けて光栄ですわ。以前王宮の茶会で倒れた際は、ご迷惑をおかけ致しました」
リーナベルは優雅に淑女の礼をとった。
内心は台風のように大荒れであるが、今こそ日頃の令嬢教育の真価を発揮する時である。
しかし、無慈悲でデリカシーのない兄は更に畳み掛けた。
「なあジルベルト。こいつが誰のために鍛錬場に通っているのか、知っているか?ジルベルト、お前のためなんだよ。こいつは、お前に惚れてい」
「わーーーーーーー!!!!!」
がばりと顔を上げて叫んだリーナベルは、それはもう熟れた林檎のように真っ赤になっていた。
目を見開いて驚くジルベルトに耐えきれず、令嬢にあるまじき脱兎の勢いでその場から逃げ出す。令嬢教育の完敗の瞬間である。
もう死にたいと思った。
どうしよう。
どうしよう。
兄様の馬鹿!!
ジルベルト様に知られてしまった。
ずっと見ていることを知られてしまった。
気持ち悪がられたらどうしよう。
嫌われたら死にたい。
謝らなくちゃ。
というか今まさに――無言のまま走って逃げ出すなんて、令嬢失格の失礼な態度を取ってしまった。
そういえば、初対面のときもにやけ顔をさらして、すき……とか言ってしまった気がするわ。
今になって思い出してきた。
あああ。
どうしようどうしよう……!!
しかも、惚れてるなんて――そんな、誤解を招くようなことを言うなんて酷すぎる…!!!
しかしリーナベルは、そこではたと気づいてしまう。
それは、全くの誤解ではないことに。
確かに最初は、推しを遠くから応援するファンの気持ちだった。画面越しのジルベルトを見ているのと同じ感覚だった。
だけれど、騎士団の鍛錬場に通い、厳しい訓練を重ねて努力する彼の姿を見て、とても眩しいと思った。
彼はここに生きていて、ゲームのキャラじゃないと実感した。
この世界に生きる彼は格好良くて、強くて、努力家で、ほんとうに素敵な人で……彼を見守るうちに、どうしようもなく惹かれている自分がいることは、最早否定できない。
リーナベルはとうとう気づいてしまった。ようやく、自分の気持ちを自覚したのである。
♦︎♢♦︎
そのまま家に帰り、ベッドの上で塞ぎ込んでいると、遠慮がちなノックの音がした。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
メイドのメアリーが心配してやってきたのだ。リーナベルは自分の心の変化に戸惑い心細かったので、部屋に入ってもらった。
「メアリー、どうしよう……私、好きな人にひどい態度をとったの。しかも、好きだって兄様にばらされたのよ。嫌われたかもしれない。どうしよう……」
メアリーは目を見開いて驚き、リーナベルを励ますように背中をさすった。
「まあ……お嬢様、大変だったのですね。そのお好きな殿方とは、ちゃんとお話したのですか?ひどい態度を取ったのなら謝って、お慕いしていますって改めてちゃんとお伝えしませんと」
「ハ、ハードルが高いわ……!そもそもどうやって話しかけたらいいのかわからないもの……」
「差し入れを口実にしたらいいのでは?お嬢様なら必殺アイテムが作れるではないですか」
「必殺あいてむ……?」
「手作りクッキーです!」
「!」
メアリーはさすがだ。リーナベルよりちょっと歳上で、美人で恋愛経験豊富なだけある。的確なアドバイスをしてくれた。
リーナベルは前世の影響で菓子作りが得意だった。令嬢は普通調理場に立たないが、両親が許可してくれてよく作っている。手作りのクッキーは使用人たちにも好評の一品だ。菓子作りは前世の母の趣味で、たくさん教えてもらったのだ。
「わかった!ありがとうメアリー!私やってみるわ!」
リーナベルはメアリーに抱き付いた。お姉さん代わりのような優しいメアリーのことを、リーナベルは大好きなのだ。
リーナベルは早速調理場に向かった。クッキーならちょうど良い。ジルベルトは甘党で、ゲーム内でも、ヒロインが作ったクッキーを喜んで食べている描写があったのだ。
ヒロインじゃなくて悪役令嬢が作ったものでも、多分、ほんの少しは喜ばれるはずだと思う。
調理場で手早くクッキーを作り終え、粗熱を取る。綺麗に焼けたものを選別して、ラッピングした。リボンはジルベルトの色をと思って、黒と金色にした。
余ったものは家族と使用人に配る。兄は勿論除外した。しばらく口も聞いてやらない。
そうして日中の令嬢教育が終わり、夜になった。
夕食時に兄が謝ってこようとしたが、無視した。兄は間違いなくやりすぎだった。心を鬼にしてお灸を据えないといけないと思っている。
夜中、ベッドの中でリーナベルは思い悩んだ。
――明日、何て言おうか…。
多分、いつもより早く鍛錬場に行けば、一人で鍛錬するジルベルトに会えるはずだ。
うまくいくかわからないけど、クッキーを渡して謝るだけでもやろう。
もやもや考えているうちに、リーナベルは疲れてしまって、眠りに落ちていた。