4-15 ヒロインの心の行方
『あの人』は初めのうち、とても良い人だった。
クロエの家を経済的に援助してくれたし、父が酒から立ち直れるように医師を手配し、職も用意してくれた。
それに、クロエに読み書きやマナーの先生をつけてくれた。
そしてクロエがずっと学んでみたかった、魔術も。彼女の教科書のお下がりを渡してくれた。
しかし、次第に小さな不信感が重なっていった。
魔力があることは、シナリオの時期が来るまで隠せと言う。
教科書は渡されたが、魔術を使うことは禁じられた。
シナリオに反することは、絶対にするなと命じられた。
そうしてクロエに、シナリオの詳細を繰り返し繰り返し、何度も話すように求めてきた。
それでもクロエは『あの人』に従っていた。他に頼れる人なんていなかったし、それだけ受けた恩が大きくなってしまって、身動きが取れなくなっていたのだ。
十四歳になると、シナリオ通りベルナール男爵家に養子に取られるよう、『あの人』が手配をした。クロエは命じられるまま、従った。
貴族の仲間入りをすると、お茶会などで色々な話が耳に入ってくるようになった。
ドラゴンの襲撃事件。十五歳になってからは、リーナベル・ノワイエ侯爵令嬢の拉致事件。
例え緘口令が敷かれていても、口さがない貴族達のおしゃべりでは、様々な情報が漏れ聞こえてくるものだ。
そこでクロエは初めて、自分の知識が悪用されていたのではないかと気付いた。
シナリオの知識を使って――――様々な事件が、引き起こされていたのではないかと。
クロエはその可能性を思って、すっかり憔悴した。
自分のせいで誰かが害されてしまったなんて、とても耐えられないことだ。
『あの人』に何故こんなことをしたのかと迫ったが、もはや『わるもの』であることを隠さなくなった彼女は激昂し、クロエに暴力を振るって脅してきた。
もしも前世の記憶があることを他人に話せばクロエを殺すと、きつく言い付けられたのである。
やがて、学園に入学する時が迫って来た。
クロエは怯え、反抗することもできず、日々を過ごしていた。自分にもできることが何かしたくて、ただ必死に魔術を学んだ。ボロボロの教科書を使い込んで、ひたすら。恐ろしい現実から、逃げるように。
学園に入学したら、シナリオ通りに攻略対象を籠絡しろと『命令』されたが、従いたくなかった。
彼女はもう、生きる気力をなくしていた。誰かをこれ以上害してしまうなら、殺されても良いのかもしれないとすら思っていたのだ。
しかし学園では、出会いがあった。
フェルナン・ルフェーブル。
群青の癖っ毛に、金色の猫みたいな目。可愛らしい、完璧に整った顔立ち。
クロエが前世で一番好きだった、ツンデレで生意気な『キャラクター』である。
でも、実際に生きている彼は、『キャラクター』なんかではなかった。
彼は、ゲームと随分違っていたのである。ゲームのようにクロエの光属性を羨むこともなければ、ツンケンすることもなかった。
彼は不器用ではあったけれど、はじめから親切で優しかった。
クロエが頑張ってきたことを認めて、真っ直ぐに褒めてくれた。そうして、「僕も、クロエみたいにがむしゃらに頑張ってみたい」と、眩しそうな顔で言った。それから本当に、凄まじい努力を始めたのである。
クロエは、涙が出るほど嬉しかった。
今世で誰かに褒められたことなんて、母が亡くなって以来なかった。
――自分なんかでも……生きていて、良いのかも。
そう、クロエは思った。
『わるもの』に利用されてしまった、自分なんかでも……生きてきた意味があったのかもしれないと、初めて思えたのだ。
彼がその金の目を細めて頭を撫でてくれると、全てが報われた気がした。
この世界に、やっと自分が受け入れられたように思えたのだ。
クロエはあっという間に、生まれて初めての恋に落ちていった。
学園が始まってから『あの人』は来なくなったので、クロエは『命令』に従わなかった。
男爵を通して何度も脅されたが、それでも従わなかった。食事を抜かれることもあったが、学園で発覚しないようにか、暴力を振るわれることはなかった。
クロエはとにかく、むやみに攻略対象に近づかないようにした。
フェルナンには、どうしようもなく惹かれてしまったが。
何故かランスロットだけは自分から近づいて来て、イベントが勝手に起こった。何かを変える勇気はなかったので、シナリオに逆らうことはしなかった。麗しいランスロットに触れられたりすると、男性に免疫のないクロエは赤面してしまうこともあったけれど。
クロエの心の真ん中にいたのは、いつだってフェルナン一人だけだった。
一方でとても、気になることがあった。
何だか、この世界はゲームと異なる部分が多すぎたのだ。
そして学園に通うようになって、クロエははっきりと確信した。
この世界の異変の中心にいるのは、二人の『悪役令嬢』であると。
リーナベル・ノワイエ侯爵令嬢と、ミレーヌ・シャルタン伯爵令嬢。
彼女らは、ゲームとはまるで違っていた。
まず、お互いの婚約者が違った。そしてゲームとは違い、婚約者の彼らにとても愛されているようだった。
さらに、性格が違った。彼女らは優しく、さっぱりとしていて、自分の才能を遺憾なく発揮していた。彼女らは常に、学園の憧れの的だった。
とにかく、ゲームでの『悪役令嬢』とはまるで違ったのだ。
全然、『わるもの』なんかではなかった。
きっと彼女らには、『前世』の記憶がある――――。
クロエは、半ば確信していた。
彼女らは自分の運命を変えようと努力し、才能を発揮したに違いない。
――なんて、格好良いんだろう。
自分も、あんな風になりたい。
クロエはそう思い、彼女らに憧れるようになった。
自分の運命に、逆らいたい。
『あの人』から逃れて、もう悪事に加担したくない。
努力して才能を高め、周囲から認められたい。
そう思って、フェルナンに助けられながら頑張るうちに、あのサバイバル戦があった。
リーナベルとミレーヌは、クロエにとても優しく好意的だった。
特にリーナベルは、大好きだった前世の母にどこか似ていた。クロエはすっかり、彼女らが大好きになってしまった。
それに、リーナベルはこんな自分のことを信じてくれた。
フェルナンを治癒する時、彼女が勇気づけてくれなかったら、今ごろ彼を失っていたかもしれない。
「貴女には特別な力がある」という言葉自体は『あの人』と同じだったけれど、その意味はまるで違った。
リーナベルはクロエ本人のことをまっすぐ見て、その力を信じてくれたのだ。
クロエは馬車で過去を振り返りながら、ポロポロと涙を流し続けていた。
やはり、ちゃんと話さなければと思う。
明日、フェルナンが退院したら。
彼にも同席してもらって、リーナベルたちに今度こそ全てを話そう。
彼が付いていてくれるなら、自分は頑張れるはずだ。
『あの人』はクロエのところに来ないが、もしかしたら今回のサバイバル戦の混乱にも、加担しているのかもしれない。
今後も、恐ろしいことが起こり続けるかもしれない。
『あの人』が『わるもの』だと、脅されていると、皆に知らせなければ。
これ以上、大切な人が傷つくのは嫌だ。
――――もう、自分のことは諦めよう。
嫌われても良い。軽蔑されたって、仕方がない。
臆病なクロエのラズベリー色の瞳は、ようやく強い決意の色を宿したのだった。
♦︎♢♦︎
男爵家に着いて、『あの人』の馬車が停まっていないのを確認し、今日もホッとした。
護衛が付いているのが、効いているのかもしれない。
クロエは男爵家の人々に挨拶をしてから、自室へと戻った。
明日話をするために、これまでのことや記憶のことを整理しておかなければ。
クロエがそう思って、ペンを取った、その時である。
――――ねっとりとした、女の声がした。
「ねえ貴女。一体何をしているの?」
クロエの身体は、一瞬で凍りついた。
それは『あの人』の声だったから。
「オーレリア、様……!!」
オーレリア・ルーヴロア。
この国の筆頭公爵家の一人娘。
雲上人であり、クロエにとっての『わるもの』であった。
「あはははは!何故ここに?って、顔してるわね。私が護衛を掻い潜ってここに来たのが、そんなに不満なのかしら?」
「……!!」
「ねぇ……明日、フェルナンが退院するそうじゃない?良かったわねぇ……?もう、彼は完全に落としたんだし、さっさと他の攻略対象達の籠絡に取り掛かってくれないかしら?こちらとしても、随分やきもきとさせてもらったわ。そういう意味で、『一体、何をしているの?』って言ったの、ちゃんと分かっていて?それとも……卑しい平民には、それくらいのことも理解できないのかしら?」
「わ……わかっています」
「……何よ、その目は。貴女、まさかとは思うけれど、私に歯向かう気なんじゃないでしょうね……?折角私が自ら、足を運んでやったのよ。いい加減命令に従いなさい」
「……きません」
「は?」
オーレリアの昏い深緑の目が、威嚇するように見開かれる。クロエは勇気を振り絞って、真っ直ぐに見返した。
「できません。私は、フェルナン様を心から愛しています。それに、リーナベル様やミレーヌ様のことを尊敬しています。これ以上、彼らを害することには絶対に加担しません」
「……何ですって……?貴女、自分の立場がわかっているの!?」
「私はもう、どうなっても良いのです。全てを明らかにして、償う覚悟もできています。言いなりになるくらいなら、死ぬ方がましです。殺したければ、今殺してください」
クロエはまっすぐに睨み返した。オーレリアは途端に激昂する。
「そういうわけにいかないのよ!!!」
オーレリアが手を振り翳し、ガシャンと花瓶が床に落ちて割れた。クロエにびしゃりと水がかかった。それでもクロエは目を逸らさない。
「全く……なんのために……!!」
オーレリアは俯いてぶるぶると震えている。怒りが頂点に達しているようだった。
「あんたなんか!!シナリオに必要だから、優しくしてやって、生かしてやっているだけだというのに!!!この薄汚い平民が!!!思い通りに動きなさいよ!!私に操られなさいよ!!!」
「いくらオーレリア様といえど、私の心まで操ることはできません」
「……なんですって?」
オーレリアは狂気に満ちた顔で、クロエの顎を鷲掴んだ。
言い争う声が聞こえているだろうに、家の者は来る気配がない。恐らく全員『わるもの』側なのだ。
オーレリアはそこで突然、心底おかしいと言いたげに笑い始めた。
「ふふふ……ふふ、あ、あははははっ!!!あははははは!!!本当に滑稽だわ!!!」
「……?」
「心まで操ることはできない、ねえ……。あんたがそれを言う……?うふふ!いいこと教えてあげるわ!あんたはねぇ……愛しい男の心を、操って手に入れたのよ!?」
「は……!?」
クロエは呆然とする。かけられた言葉の意味を、完全に理解できなかった。
オーレリアは、クロエに構わずベラベラと話し続ける。
「あんたはねぇ、東の端の島国の、巫女の末裔なの。あんたが意図しなくとも、吐息に魔力が含まれて、近くで話した相手を魅了しちゃうのよ?ああ、もちろん私には効かないけれどね!あんたは知らず知らずのうちに、心を操っていたってわけ。……愛しい愛しい、フェルナンの心をねぇ!!!」
クロエはあまりの衝撃で、足元がガラガラと崩れ落ちる音を聞いた。
フェルナンの、心を、操った?
自分、が……?
じゃあ、彼が優しくしてくれたのは。
クロエを好きだと、言ってくれたのは。
絶対に味方だと、約束してくれたのは。
全部全部…………。
ずっと壊れる寸前で押し留めていたクロエの心は、この瞬間に――――はっきりと、破壊された。
もう、何も見たくない。
考えたくない。
苦しい……。
「いいわ!いいわねその顔!!じゃあ、今度は私の番。あんたを私の思い通りに、操ってやる!!」
「……!?」
オーレリアは指先から、少量の血を垂らしていた。そして禍々しい魔力を込めてクロエの目を見つめ、古い古い古い呪文を唱えた。
――――その瞬間以降、クロエは自分の身体の主導権を失った。
それは悪夢の、始まりだった。
クロエの心が、どんなに嫌だと叫んでも。
止めてと、どんなに、どんなに叫んでも。
それは、決して元には戻らなかったのである。
クロエは、フェルナンのあの金の目を思い出しても――――もう涙を流すことすら、できなくなってしまった。




