3-8 消毒
ジルベルトの部屋は、無機質でシンとしていた。
リーナベルがそこに入るのは、実は初めてだった。それでもそこら中から彼の気配がして、彼女はようやく、ほっと一息ついた。
寝台のふちにリーナベルを座らせて、前にしゃがみこんだジルベルトは彼女の頬を撫でながら、苦しそうに眉根を寄せた。
その声には、大きな悔恨の色が滲んでいた。
「リーナ、リーナ……、ごめん……ごめん……っ」
リーナベルは今になって、恐怖心が押し寄せるのを感じた。安心したらタガが外れたのだ。
目から大粒の涙がこぼれ落ちる。頑張って堪えようとしても、しゃくり上げるのを止められない。
「怖かったね……。遅くなってごめん。本当にごめん……。あんな奴に触れさせて、ごめん。しかも、俺がリーナを余計追い詰めた……。怒りで滅茶苦茶になって、リーナのことを一番に考えられなかった……」
彼の言葉は優しいのに、その瞳は深い怒りと悲しみで揺らめいている。
リーナベルは、助けに来てくれた彼が自分を責めているのが悲しかった。綺麗に着飾っていたはずのジルベルトの姿はボロボロで、魔力もほとんど使い果たしているのがわかった。どれだけ彼が死に物狂いで駆けつけたのか、言わずとも伝わってきた。
彼を、励ましたかった。
大丈夫だよと。
自分は平気だったから、間に合ったから大丈夫だよと、伝えたかった。
「……っゔぅ……っゔうー……っ!!!」
けれど、その願いと裏腹に嗚咽が止まらない。
優しい言葉をかけられない。
だって、全然大丈夫じゃなかった。
ジルベルト以外の男に触られるのは、身の毛がよだつほど気持ちが悪かった。心底恐ろしかった。
リーナベルの尋常でない様子に動揺したジルベルトが、顔を背けて、静かに魔術陣を描いた。
「――ごめん。いまランスロットに念話を飛ばした。やっぱりすぐにリーナの家に帰すよ……。送る」
「やだっ!!!」
「リーナ?」
「――……は、離れたく、ない……!ひっく、ジル以外に触られて、気持ち、悪かった!!!」
リーナベルはボロボロと涙をこぼし、しゃくり上げながら叫んだ。
離れたくない。離れたくなかった。好かれていなくても、今はジルベルトのそばにいたかった。
「すごくっ、ひっぐ、怖かったのっ……死んだ方がましだと思ったっ……!!うゔっ……!!」
ダメだと思うのに、止まれと思うのに、心が悲鳴を上げるように、言葉が止まらない。
「……ジルにっ……ジルに、まだ、すきで、いてもらえるならっ!ジルに、さわってほしい……!うっ、うわがき、してほしい……っ!私に、まだっ、すこしでも…情けが、あるならっ……」
零れ落ちてしまった。
無防備になった心から、今まで押しとどめていた本心まで、零れ落ちてしまった。
その言葉に驚愕し、しばらく目を見開いていたジルベルトだったが、やがて訳がわからないと言った風に首を横に振りながら答えた。
「……何を、言って、るんだ……?リーナ……俺が君を、好きじゃないはず、ないだろう?」
「で、でもっ!ひっぐ……最近、私のことを避けてた。触って、くれなくなった!ゔっ、ひっく……私のこと、前ほど、好きじゃ、なくなったんでしょう!?」
「そんな……!違う、違う!リーナ」
ジルベルトは大きくショックを受けた顔で首を激しく振った後、リーナベルを掻き抱くようにした。
「違う、リーナ!君に触れられなかったのは、君があんまり綺麗になっていくから……!君に触れたくて、触れたくて、自分を止められなくなるのが、怖かったから……!リーナのことが好きじゃなくなったからなんかじゃない!絶対に違う!」
今度はリーナベルが呆然とする番だった。
「ひっく。……わ、私のこと……ふっ、きらいに、なったんじゃ、なかったの……?」
「そんなの、ありえない……!俺は、リーナのことだけが大好きだよ。俺は、君をそんなに追い詰めていたのか……?ごめん……。本当に、ごめん……」
リーナベルは、おずおずとジルベルトの背に腕を回した。久しぶりにこんな風に、強く抱きしめられた。
汗や土埃のにおいに混ざって、大好きな彼の香りがする。帰るべき場所に帰ってきたという実感が湧いて、急激な安心感と多幸感に包まれた。
リーナベルは思い切って、震える声でもう一度、心からの願いを伝えた。
「……それ、なら……そばにいて……。怖かったの、わすれるくらい……ジルで、いっぱいにしてほしい……」
「……わかった。リーナが望むなら、いくらでも。俺が、消毒するから、」
僅かな明かりの灯った部屋の中で、琥珀の双眸がギラリと光った。
「どこを、触られたのか……教えて?」
♦︎♢♦︎
「ふっ…………ッ」
本当に隅々まで消毒するみたいに、ジルベルトは丁寧に口付けてきた。分厚い舌を入れ、本当に消毒するように丁寧に撫でていく。
「口に指を入れられた」とリーナベルが言った後、ゆっくりと彼女を寝台に横たえてから始まった口付けは、それまでの分を取り戻すかのように深く、長かった。
それでも怖がらせないようにとの配慮なのか、彼の手はずっと優しくリーナベルの頭を撫で続けている。
さらに、キスしながらも、魔術で傷跡に回復をかけ続けていた。
「ん、ジルッ……」
「ん……。あとは、どこ、触られた……?」
「……うん、あのね……首……」
今度は首を余すところなく、手で撫でる。優しく撫でた後は、仕上げに優しい口付けを落とす。ジルベルトの琥珀色の双眸が、まっすぐに自分を射抜いていた。ぞくぞくとするのに、あの男に触られた時とは、根本から違った。
リーナベルは、自分が確かに喜びに包まれているのを感じた。
「ん…………。あと、肩も……」
「……わかった。少し、はだけるよ?」
リーナベルが頷いたのを確認してから、ジルベルトは破れてしまったドレスを、肩の部分だけ開いた。外気に晒されてすうっとする。
すぐにジルベルトは、ゆっくりと手で肩から腕をなぞった。そうして、順番に口付ける。
「ジル…………!」
「リーナ……あとは、どうして欲しい?」
「あのね、ぎゅってして…………」
ジルベルトはすぐに、リーナベルの身体をぎゅっと抱き竦めた。温かくて、一番安心する場所。リーナベルは彼の背に手を這わせ、さめざめと泣いた。
「ジル…………ジル。ふっ、怖かった…………」
「うん、怖かったね」
「ひっく。助けに来てくれて、ありがとう……」
「もっと、早く行ければよかったけど」
「ううん。ひっく。それにね、ジル……」
リーナベルは一度顔を離し、ジルベルトの顔を覗き込んで言った。
「ずっと、こうやって、くっつきたかったよ……」
「……俺もだ、リーナ……。ごめん……」
ジルベルトはリーナベルの隣にごろんと横たわって、腕枕をした。そのまましっかりと彼女を抱え込み、トントンと背中を叩く。
「もう、大丈夫だよ。安心して……」
「うん…………」
「リーナ、大好きだよ……」
「……うん、わたしも………………」
リーナベルは、緊張と恐怖でよっぽど疲労していたのだろう。間も無く、とろんとした抗い難い眠気に襲われてきた。
だって、ここなら安心だから。ジルベルトの、腕の中なら、一番安心だから。
ジルベルトは、その様子を見て、幸せそうに微笑んでいるようだ。
「おやすみ。……俺の、大切なリーナ」
意識が落ちる間際に、大好きな優しい声と体温に包まれるのを感じた。
リーナベルは、そのまま穏やかな眠りの世界へと落ちていったのだった。




