1-2 悪役令嬢の決意
王宮の、しかも王太子殿下の御前で倒れ、侯爵邸に運び込まれたリーナベル。
彼女は高熱を出し、それから一週間寝込むことになった。
宮廷医を始めとする様々な医師たちが次々来て彼女を診療したが、「記憶の混濁が見られること」「知恵熱のようなもので、そのうち回復すること」との診断しか下されなかった。
彼女を溺愛する両親と兄は代わる代わる見舞いに来て、時には涙しながら心配したが、彼女はそれどころじゃなかった。
リーナベルの頭に、いわゆる"前世の記憶"が大量に流れ込んできたからである。
王宮では推しを前にした衝撃で、推しのことで頭がいっぱいだったが、家に帰ったら次々思い出してきたのだ。前世で大学4年生まで生きた、一生分の記憶が。
リーナベルとして11年生きてきた自我が悲鳴を上げていた。
魘されては目覚め、目覚めては流れ込む記憶に混乱し、また気を失っては魘された。
熱がやっとおさまってきた4日目の夜、彼女は唐突に理解した。
ーーーあ、やばい。私、悪役令嬢に転生してるわ。
推しの情報はあんなに早く出てきたのに、自身の情報を理解するまでにはかなりの時間を要したリーナベルである。
彼女は前世重度のオタクであった。小説や漫画も勿論大量に嗜んでおり、この展開は既視感が強かった。
これ前世で100回くらい読んだやつだわ、乙女ゲームの世界に悪役令嬢転生だわ、と理解したのだった。
とは言え、前世の記憶と現世の記憶が完全に融合して体調が落ち着くまでには、さらに3日を要したのだが。
幸いどちらの記憶も欠けることがなかったのは、救いと言えるだろう。
7日目の夜中、ようやくまともに動けるようになったリーナベルは、もう大丈夫だからと人払いをして、一人にしてもらった。
メイドのメアリーがとても心配していて申し訳なかったが、自分がこれから奇行に走るであろうことは重々承知していたのだ。
まずは恐る恐る姿見を見て、叫ぶ。
「やばい!!悪役令嬢リーナベル、ものすごい美少女だわ!!!」
いや、勿論リーナベルとして生きた11年間で見慣れた姿ではあったのだが、それでも改めて驚愕してしまうほどの、眩い美貌だったのだ。
サラサラの白銀髪は磨かれたプラチナのように輝いて。今まで寝込んでいたのにも関わらず、癖一つつかず腰までまっすぐ流れている。前髪の下にはけぶるような白銀の睫毛。その中に嵌め込まれた、湖面のように揺らめく大きな青い瞳。穢れを一切知らない真っ白な肌。形の良い、つんとした小さな鼻。瑞々しい桃のように濡れたくちびる。化粧をしていないのに美しく色づいた、桜色の頰。
完璧、完璧だわ…11歳でこの美貌。なんて末恐ろしいの。
その言葉が自画自賛であることも忘れ、リーナベルは姿見に釘付けになってしまう。
11歳なので身体つきはまだ幼い少女のそれだが、少し膨らみかけた胸とほっそりした手足、折れそうな細い腰には危うい色気があり、完璧なプロポーションである。
「まさかバラ恋の世界に転生するなんて…ラッキーなのか不幸なのかわからないわ…」
リーナベルは自分を落ち着かせようと、よたよたと書き物机につき、思い出せる限りのこの世界の情報を書き留めることにした。
転生した時の基本である。オタクだから知っているのだ。
この世界は前世で一番ハマっていた乙女ゲーム、『薔薇色の初恋〜魔術学園で大好きなあなたと〜』の世界に違いなかった。
通称"バラ恋"と呼ばれていたゲームである。
基本的な筋書きは、悪く言えばありがち、良く言えば王道。特別な魔力に目覚めた平民出身の主人公が魔術学園に入学し、やんごとなき方々と恋に落ちるというストーリーだ。
ただしこのゲームは社運をかけて開発された物だったようで、美麗すぎるスチルと豪華すぎる声優陣、よく練られたシナリオとクオリティが突出しており、一世を風靡した。
公式ファンブックやファンディスクも出され、2.5次元の舞台化も果たしていた。
前世、オタク仲間で親友のみーちゃんと一緒に寝ずにプレイし、舞台まで一緒に追いかけたものだ。
初恋がテーマのバラ恋では攻略対象が五人おり、隠し攻略対象はいなかった。ファンディスクではさらに一人、攻略対象が増えていた。
侯爵令嬢リーナベル・ノワイエは、二人の悪役令嬢のうちの一人である。
一番人気である王太子クラウスルートと、リーナベルの兄である宰相候補ランスロットルートでヒロインに立ちはだかる。
その儚げで美しい見た目と裏腹に中身は傲慢で我儘。さらに腹黒く残忍で、普段はうまく猫を被っている。人の目につかないところでのヒロインへの陰湿なイジメや暴力行為、果ては殺人未遂まで行う、えげつないキャラだった。
彼女には勿論、断罪されての破滅ルートしかなく、良くて終身刑、娼館送りや国外追放からの死亡、最悪の場合は攻略対象によってその場で殺される。
まあ普通は真っ先に、断罪回避のために行動すべきところである。
誰だって若くして死にたくはない。
しかし、リーナベルはそれどころではなかった。
それより真っ先にすべきことがあったのである。
書き物をしながらその目をカッと見開き、リーナベルは叫んだ。
「推しを助けなきゃ!!!」と。
大声を出しすぎたので慌てて口をつぐんだが、誰にも気づかれずに済んだ。人払いをしておいて良かった。
この世界では魔術が発展している。魔道具であるベルを鳴らすと、遠くの部屋で待機しているメイドのもとにも合図が届き、すぐかけつけるという仕組みなのである。ちなみに不審者を感知すると警報が鳴り護衛が現れる。
文明レベルの高い世界で良かったわ。
中世ヨーロッパ風だけど、乙女ゲームだから便利仕様だったのよね。
危うく「お嬢様の気が狂った」と騒がれるところだったわ。
それはともかく話を戻す。
リーナベルの前世の推しは、王道の王太子でもなく兄のインテリ宰相候補でもなく、はたまたツンデレ年下枠でもチャラ男でもなかった。
ジルベルト・オルレアン。
代々王族の側近となる騎士を輩出する、オルレアン公爵家の嫡男。王太子の横に控えていた護衛であり、側近候補でもある。
原作では騎士キャラだが、正確には今はまだ騎士見習いであるはず。記憶している誕生日からして、現在彼は12歳になったばかりだ。
容姿端麗だが無表情の堅物クールキャラで、国王の側近である騎士団長の息子。そして敬語キャラでもあった。攻略すると、ヒロインにだけ笑ってくれるようになる姿に最高に悶えた。
前世では彼のことが好きすぎて、10周以上やったのだ。ファンブックには開き癖がついていた。彼の情報は何でも覚えている。
さて、重要なのはここからだ。
ーーージルベルト様に、危機が迫っている!!!
ゲームに登場するジルベルトには顔の四分の一ほどを覆う火傷跡があって、さらに左目を失明しており、眼帯を付けていたのだ。
この後遺症が、彼の人生に大きな影を落としていたのである。
彼が12歳のとき、騎士団の早朝訓練で火魔術の暴走事故が起こり、同僚をかばって大火傷を負ったという設定だった。事故の起こった日は朝から小雨が降っていたと、ジルベルトがゲーム内で語っていた。
王宮で見たジルベルトには、火傷跡も眼帯もまだなかった。
いま、ジルベルトは既に12歳なので、これから少なくとも1年以内に事故が起こると推測される。
リーナベルは決意した。
紙に大きく力強く文字を書き、丸で囲う。
「ジルベルト様を絶対に助ける!!!」
もはや自分の断罪回避どころではない。そんなこと二の次だ。リーナベルは自分のことを華麗に棚上げした。
一つのことに熱中すると他が見えなくなるのは、前世からの彼女の悪癖であった。
脳裏に、素敵すぎた生身の彼の姿が蘇る。
彼が苦しむことなく健やかに生きていれば、それだけで良いと心から思える。
彼を助けるという使命のために、自分はこの世界に転生したのかもしれないとすら思った。
推しを助けることーーーーそれだけが、彼女の生きる目的になったのである。