閑話 二人の初デート(新規エピソード)
新規書き下ろしエピソードです。
これはジルベルトとリーナベルの、婚約が整って間もなくの話である。
リーナベルの体調は既に、すっかりと元通りになっていた。ジルベルトと二人、向かい合ってお茶をすることにも、やっと慣れて来た頃であった。お茶をコクリと飲んでから、ジルベルトがとある提案をしてきた。
「リーナ。俺たちはまだ、お互いのことをあまり知らない。だから俺と二人で、街へ出かけてみないか?」
正真正銘の、初デートのお誘いであった。リーナベルは頬を薔薇色に染め、壊れた機械のようにコクコクと頷いてそれを了承したのである。
「大変よメアリー!!」
家に帰った途端、リーナベルはメイドのメアリーに泣きついた。
恋愛の師として頼れるのは、メアリーしかいないのだ。
それはもう必死の形相である。乙女の一大事なのである。
「ジルベルト様……じゃ、なくて。ええと、ジルと!デート!!デートをすることになってしまったの……!!」
「まあ、お嬢様、大変素敵なことじゃありませんか!おめでとうございます!」
「そ、そりゃ嬉しいわ。嬉しいけど……どどど、どうしよう!?何を着て行けばいいの!?何を話せばいいの!?」
「あらまあお嬢様、落ち着いてくださいな」
すっかり顔を青くしておろおろするリーナベルに、メアリーは至極落ち着いたままスッとレモン水を差し出した。リーナベルはそれを一息に飲み干す。そして大きなため息を吐き、肩を落とした。
「殿方とデートなんかしたことがないのに。いきなり相手がジルだなんて、身に余るわ。ううう、緊張するわ……」
「大丈夫です。お嬢様はそのままで完璧なお嬢様なんですから。そのままで何の問題もありません。メアリーが保障いたしますわ。でも……」
メアリーは悪戯っぽく人差し指を唇に当てて、リーナベルに微笑みかけた。大変頼りになる、恋愛軍師の笑みである。
「これは、さらにジルベルト様を夢中にさせるチャンスです。ドレスアップとリハーサルは、このメアリーにお任せくださいな」
♦︎♢♦︎
さて、デート当日。
ジルベルトはカッターシャツにスラックスというラフな格好で、ノワイエ侯爵邸へとリーナベルを迎えに来た。宵闇の長髪はいつもより緩めに、サイドで黒のリボンで結び、前に流してある。シンプルな服装はかえってジルベルト自身の容姿の秀麗さを際立たせ、歩く人々の注目を集めることこの上なかった。しかし彼自身は、こんな視線には慣れたもので、さして気にも留めていなかった。
今日はリーナベルと二人で観劇をした後、街歩きをする予定なのである。観劇をした後は、裕福な平民にも人気のカフェに寄る予定だ。だからジルベルトも、比較的気楽な格好で来た。
彼は、年頃の女性をデートに誘った経験など勿論皆無であるので、デートプランはリーナベルの兄・ランスロットに一任した。リーナベルは侯爵令嬢であるものの、あまり気取らなくて良い場所の方が好きだとのことだった。そういう気位の高くないところも、ジルベルトは好ましく思った。
しかし、恥を忍んでランスロットに協力を頼んだ時の、彼のニヤニヤとした含み笑いと言ったら。今思い出しても、耐え難いものがあった。それでもやはり、リーナベルの好きなものや好きな場所を一番把握しているのは身内であろうと思ったので、ジルベルトは腹を括ってランスロットに頭を下げたのだ。彼女に少しでも好感を持ってもらえるなら、何でも良かった。手段など選んでいられない。
観劇のホールがある王都の中心街は治安が良いし、常に騎士たちが巡回している。もし万が一、何か危険があっても、ジルベルト自身が強い騎士なので護衛は問題ないだろう。リーナベルには傷ひとつ付けさせない。
ジルベルトがいつもの癖で、今日の警備について思いを馳せていると、リーナベルが応接間にやってきた。
「お待たせしました」
鈴を転がしたような可愛らしい声に、ジルベルトはパッと視線を上げて――――すっかり、固まった。
今日のリーナベルは、いつもと一味違ったのだ。
白銀の髪は編み込みにしてアップにされ、少し大人びた印象だった。そして、どれだけ彼女の首がほっそりしているのかがはっきりと分かった。身に纏っているのは、色白の彼女によく馴染む、ターコイズブルーのAラインワンピース。いつものドレス姿と違って、膝丈のスカートからは白い足がすらりと覗いており、ものすごく眩しい。更に、ノースリーブのワンピースから伸びた嫋やかな腕に目がいく。その両手はつばの広い白帽子を、心細そうに掴んでいた。
――端的に言えば、今日のリーナベルはいつにも増して、ものすごく可愛らしかったのだ!
ジルベルトは気の利いた言葉の一つも出て来ず、衝撃でしばらく微動だにできなかった。
「あ、あの。ジル、変じゃない?その、一応……おしゃれをした街娘に見えるようにしてみたんだけれど……」
「変じゃない」
慌てて否定する。本音を言えば、街娘にしては、リーナベルは美しすぎた。どう見てもやんごとなき深窓のご令嬢の、お忍び姿である。
――彼女を守る権利が、俺だけにある。
ジルベルトはその事実だけで、喜びで身体中が痺れるように感じた。
「その…………可愛い。すごく」
「良かった…………」
――何で、もっと気の利いた言葉が出ないんだ。
ジルベルトは自分の語彙力の無さを呪ったが、リーナベルがいつもの蕩けるような微笑みを……安心したような微笑みを向けてくれたので、もう何でも良いかと思い直した。何とかして言葉を続けてみる。
「すごく可愛い。すごく。綺麗だ。可愛い」
「う。そ、そんな、無理に褒めなくてもいいのよ」
「俺は本当のことしか言えない。口が上手くないから」
「も、もう。ジル…………」
リーナベルはぽぽぽ、とその丸い頬を桃色に染めていった。可憐である。赤みを帯びやすい白い肌は、鎖骨の辺りまで薄桃色に染まっていた。その上、今日はその綺麗なうなじも丸見えなのである。
――あまりにも、目に毒すぎる。
「い、行こう……」
ジルベルトは堪らずに、目を斜めに逸らしながら、スッと手を差し出した。この調子では、自分でも先行きが不安である。しかし、リーナベルはおずおずと小さな手を重ねた後、心底幸せそうに言った。
「嬉しい……」
ああ、何て可愛いんだろう。誰かを好きな気持ちというものには、底が無いのだろうか。
ふわふわと浮いているような心地になりながら、ジルベルトはリーナベルの手を引いていった。
♦︎♢♦︎
二人でゆっくり歩きながら行く道のりは、楽しかった。
ジルベルトは口数が多い方では無いけれど、リーナベルの話に熱心に耳を傾けて、相槌を打ってくれた。
兄のこと、魔術のこと、ジルベルトの普段の生活のこと。道端に咲いている花、空の雲のかたち、美味しそうな屋台の匂い。そんな取り止めもない話をしながら手を繋いで進むうち、リーナベルは随分とリラックスしていった。
そうしているうちに、観劇のためのホールに到着する。
今上演されているのは、王都で一番人気の歌姫が主演を務める舞台である。二人は貴族用の特別席の真ん中に座り、ゆっくりと劇を観ることができた。
ストーリーの概要はこうだ。主人公である一人の街娘が、貴族の騎士と身分違いの恋をしてしまう物語。やがて騎士には身分の釣り合った婚約者ができ、主人公は何とか自分の恋心を諦めようとする。そうしているうちに戦が起こり、騎士は旅立ってしまう。旅立ちの時、涙ながらに本当の想いを伝え合う二人。しかし戦が、二人の運命を引き裂くのだった。
リーナベルは自分が初デート中であることもすっかり忘れ、途中から舞台に魅入ってしまった。伊達に前世から乙女ゲームのオタクをしていない。恋物語には滅法弱いのだ。
騎士の旅立ちのシーンでは、手持ちのレースのハンカチをくしゃくしゃにして、とうとう号泣してしまった。
隣にいるジルベルトからスッと新しいハンカチを差し出され、ハッとする。
――いけない、私ったら、何て酷い顔してるの!
慌てて涙をゴシゴシと拭き取ろうとする。だが、ジルベルトにスッと阻まれた。
「腫れてしまうから、あまり擦らないで?」
耳元で凛としたテノールに囁かれ、リーナベルはキャパオーバーしてしまう。距離の近さを急に実感したのだ。
「ご、ごめんなさい……こんなぐしゃぐしゃな、酷い顔……!」
「酷い顔?」
ジルベルトは、心底訳がわからない、と言った声を出した。
暗く照明の落とされた観客席で、彼の琥珀色の双眸がきらめき、リーナベルだけをじっと見つめていた。舞台の眩い照明だけが、彼の美しい輪郭を象っている。
「綺麗だとしか思わない」
「……え?」
ジルベルトの真剣な声に、リーナベルは思わず聞き返した。彼は首を少しだけ斜めに傾げながら、至極真面目な様子で続けた。
「リーナの涙は、とても綺麗だ。俺はそればかり、夢中で見ていた」
「……!」
「舞台が、目に入らないくらい……綺麗だ」
リーナベルには分かってしまった。彼は何も、リーナベルをときめかせるために、口説くような気障な台詞を並べ立てているのではないのだ。ただ、思ったことを実直に語っているだけだ。
それがありありと分かるからこそ――尚更、恥ずかしかった。
「み、見ないで!」
ジルベルトの差し出した新しいハンカチで、咄嗟に顔を隠そうとする。だが彼はひょいとそれを避け、熱心な様子で語った。
「それはできない」
「……!」
「ずっと……見ていたい」
まるで世界に二人きりになったみたいに、視線と視線が交錯する。
それ以降は結局、舞台の内容なんか、まるで頭に入って来なかった。
リーナベルは自分がぼろぼろに泣いていることも忘れて、ジルベルトとただ、見つめ合っていたのだった。
♦︎♢♦︎
「俺は……舞台を見る邪魔をしてしまったね。ごめん」
「い、いいの。私もあんなに感情移入しちゃって……ごめんなさい!」
「いや、俺の方が」
「いいえ、私が……」
観劇が終わった後、カフェで飲み物を注文してから、お互いに何度も謝り合った。しばらくそうしてから、リーナベルはクスリと笑ってしまった。
「……舞台を観にきたのに、私たち、何やってるんだろうね?」
「本当だね」
ジルベルトも小さく笑っている。最近、リーナベルには随分やわらかい表情をするようになった気がするが、気のせいだろうか。
「リーナは感受性が豊かなんだね?」
「そうかな。悲恋の物語を見るとすぐに泣いてしまうの。今日の舞台は、途中から……ちょっと、頭に入ってこなかったけど……」
「俺は最後まで、一応耳を澄ましていた。だけど、あの騎士にどうしても感情移入できなくて辛かった」
「え、最後までちゃんと聞いていたの?」
「ああ。全く……あの騎士ときたら、娘を好きだと言いながら始終どっちつかずだし、帰ると言った戦からなかなか帰って来ないし。その上、結局身分の釣り合った婚約者と結婚した癖に、最後まで主人公に未練たらたらだった……」
「そう要約してしまうと、かなり酷い男性ね……」
ジルベルトの要約には、情緒のかけらもなかった。なんかもっとこう、色々な……繊細なニュアンスが含まれていたはずなのだが。
「俺は絶対にあんなことしない。リーナが街娘だったとしても、絶対にリーナと結婚する」
「えっ」
突然の熱烈な告白に、リーナベルは目を丸くする。
それは、さすがに難しいと思うのだが。
「他の婚約者なんて要らないし、他の女性になんて見向きもしたくない。それに、リーナを独りぼっちにしたまま、戦から帰らないなんて、絶対にしない」
「で、でもジルは騎士だし……戦に出なきゃいけないことも、あるかもしれないとは、覚悟しているのよ?」
「それでも。戦に出るなら、先にきちんと結婚してから行く。戦いも、なるべく速やかに終わらせて帰る。……必ず、いつでも。どんな時も、リーナの元に帰る」
ジルベルトは懐から小箱の包みを出して、リーナベルに手渡した。何かのプレゼントだろうか。その下から包み込むように、もう片方の手を添える。
そうしてリーナベルの手を、両手で握ったまま、ジルベルトは嘘の欠片もない真っ直ぐな瞳をして、誓った。
「約束、するよ」
♦︎♢♦︎
「ねえ、お母さま。あそこに飾ってあるブローチは、なあに?」
とある日、ある昼下がりの部屋で。
真っ直ぐな白銀髪に琥珀色の目をした、大層可愛らしい女の子が言った。
歳の頃は、五つくらいと言ったところだろうか。
「ああ、これ?これはねえ……お父様とお母様が、初めてデートした時にプレゼントしてもらった、思い出のものなのよ」
母親は壁の高いところに飾ってあったブローチを手に取り、女の子に手渡してあげた。女の子はそれをしげしげと眺めて、裏返してからいった。
「あれ?ピンのところが、こわれてる」
「そうなのよね。お気に入りで、デートのたびに、何度も何度もつけていたから。何度か修理もしたんだけど、どうしても傷んでしまってね。こうして飾っておくことにしたのよ」
「きれい……これ、すみれの花?」
ブローチには紫色のガラス石が嵌め込まれており、中にすみれの花の彫刻が施されていた。女の子の母親が普段使っているアクセサリーに比べると、随分と安物のようで、縁の金メッキが少し剥がれているのがわかった。
それでも、ずっと大切にされてきたであろうことが見て取れる。
「初めて観に行った舞台のね、ヒロインが、ヒーローの騎士にプレゼントされるブローチとお揃いの物だったの。すみれの花のブローチを君に贈るよ、って言ってね」
「わあ、すてき!」
「観劇の記念品ね。ヒーローはこれを手渡す時、『すみれの花言葉は誠実。僕はずっと君に誠実であると誓うよ』って言うのよ」
「騎士の誓いね!」
キャッキャと喜ぶ女の子に、母親はふふっと笑った。
「そのヒーローは、今考えると全然誠実じゃなかったけれどね?戦に行ってヒロインを置いていった上、他の女の人と結婚してしまうのよ」
「ええ〜、なぁんだ……」
途端にしょんぼりした女の子の頭を、ポンポンと優しく撫でた後、母親はにっこりして言った。
「でも、このブローチをお母様にくださったお父様は、いつでも、どんな時でもお母様に誠実だったから。だからこれはお母様の、宝物なのよ」
「そっかぁ……!」
「お父様は、騎士の誓いを守ってくださったわ。お母様をいつでも守ってくれたし、危機には駆けつけてくれた。他の女の人になんて、見向きもしなかった。結婚してから戦があっても、本当にすぐに終わらせて、必ずお母様の元に帰ってきてくれた」
「うん……!やっぱりお父さまは、かっこいいね!」
「そうなのよ」
母親は女の子の小さな手が握りしめるブローチを、愛おしそうに撫でて、それから言った。
強い実感を込めた、それはそれは幸せそうな声で。
「お父様……ジルは、本物の騎士なのよ」




