ディアナの突然の恋
子ども世代の話です。
ディアナ・フォン・オーベルニュは、とても変わった王女だった。
と言っても、そもそも母親の王妃ミレーヌが変わっていたので――――ディアナが生まれた時には、もう王宮の敷地の一部は薬草畑になっていた。ディアナは双子の王子ニコラと一緒に、小さい頃から土いじりをしたり、木登りをしたり、釣りをしたりしながら自由奔放に育った。父クラウスと同じサラサラの金髪には、いつも葉っぱやら土やらが付いていたし、紫の瞳は生き生きとして、生命力に満ち溢れていた。
小さい頃は、双子のニコラと常に一緒に居た。しかし成長するにつれて、二人は興味のある分野が分かれた。ニコラは農業研究に勤しむようになり、一方のディアナは、母と同じ薬学の道を志した。母の作った創薬研究所に入り浸り、最新の研究を学んだのである。それにディアナは珍しい光魔術が使えたので、治癒魔術と薬学の相乗効果の研究に力を入れていた。
十七歳になっても、ディアナは恋とは全く無縁なまま育った。だって年頃の貴族男性は皆、ディアナが畑の話をしたりすると顔を顰めたり、つまらなさそうにしたりするのだ。それにディアナは、何でもはきはきと喋りすぎるところがあって、王女らしくないと指摘されることも少なくなかった。そんな男性たちと一緒に居ても、何も面白くない。父クラウスにそう言うと、「ディアナはそのままで良いよ」と言ってくれたので問題ないだろうと考えていた。
だが、出会いは突然やって来た。
「ノースベル王国から来ました。第三王子のフェリクス・ノースベルと申します」
「フェリクス王子は、お体が弱くて……特に喘息の症状が酷いの。良い治療を受けるために、我が国へいらしたのよ」
母ミレーヌに紹介されたその人は、真っ白な髪に、冬の空のような静かな青い瞳をしている人だった。背はそんなに大きくないけれど、不思議な存在感と落ち着きのある人だった。
「宜しくお願いします!私は第一王女の、ディアナ・フォン・オーベルニュと申します。喘息の治療なら、私は研究していたことがあるから、お力になれるかもしれません!」
ディアナがはきはきと喋ると、フェリクスはとても優しく笑った。それを見ただけで、彼がどんなに穏やかで優しいのか、その人柄が伝わってくるようだった。
「是非、教えを乞いたいです。実は僕も自分なりに、薬学の研究をしてきたんです。ですが、故郷ではあまり医療が発達していなかったので……フランツ王国に来られて、嬉しいです」
「そうなんですね!私が作った薬もあるので、明日すぐ持って来ます!」
「ふふ。ありがとうございます。ディアナ王女は、素敵な人なんですね」
フェリクスに柔らかい声でそう言われると、ディアナは心臓の脈が一気に速くなるのを感じた。自分に不整脈や高血圧の既往はなかったはずなのに、おかしいなと不思議に思ったのだった。
♦︎♢♦︎
フェリクスという人は、ディアナが最初に感じた通り、根っから優しくて穏やかな人だった。ディアナが張り切って行くと、いつも物静かに本を読んでいる。彼は大変勉強熱心だった。
それに、彼はとても聞き上手だった。ディアナがどんな話をしても、嫌な顔一つせず、にこにこして聞いてくれた。そして必要なところで、絶妙な質問を挟んでくる。そんな男性は初めてだった。
だからディアナは、毎日彼の元に通うようになった。そして畑のこと、薬学のこと、学園のこと、家族のこと…………思ったことを、何でもかんでも彼に話すようになった。
「それでね、ニコラったら私に『ちょっとは大人しくしないと、お嫁に行けなくなるぞ』なんて言うの。自分も、好き放題してるくせに!」
「ふふ、また喧嘩したんだね?」
「そうよ。でも私、研究が楽しいんだもん。畑の世話もしなきゃいけないし。王女らしく、大人しくなんてしてられないわ」
「ディアナは、立派な王女だよ」
フェリクスは垂れた青い目を細めて、そう言った。ディアナを励まそうと嘘を言っているのではないと、すぐに分かった。そこには本物の、深い尊敬が込められていた。
「君は志を高く持って、人々の役に立つことをしている。自分にできることを、努力して継続している。立派だよ」
「……ありがと」
ディアナはそれ以上、何も言えなくなってしまった。フェリクスに褒められると、何だか体じゅうが熱くなって、いつもこうなのだ。フェリクスはそんなディアナを見て微笑んでから、話題を変えた。
「今日、化学の勉強をしていたらね、わからない所があったんだ。良かったら、教えてくれないかな?」
「教えるわ!化学はとても得意だもの!」
「前は呼吸が苦しくて、勉強どころじゃない日もあったけど……。ここに来てから本当に楽になって、今はとても楽しいよ」
「フェリクスの症状が良くなってきて、本当に良かったわ!あ、また喘息治療について、良い論文が出たのよ。写しを持ってきたから、後で渡すわね」
フェリクスの症状は、ここでの治療を受けて、みるみる間に良くなっていた。彼が元気になると、ディアナも本当に嬉しい。まるで自分のことのように。彼にもっともっと良い治療をしてあげたいと思い、最近のディアナは喘息治療の研究に夢中なのだった。
♦︎♢♦︎
夜、夕食を囲んで家族が語らい合う貴重な時間に、母のミレーヌが言った。
「フェリクス様、随分症状が良くなって来たわね。ディアナの頑張りも、すごく成果を出してるわ」
「うん!嬉しい!」
しかし、次に母が言った言葉に、ディアナは呆然としてしまった。
「この調子なら、来月には母国に帰れそうだって。フェリクス様自身が薬を調合できるし。良かったわね!」
――――母国に、帰る…………?
ディアナは、言葉を失った。フェリクスがここに来ているのは、そもそも病気の治療をするためだ。症状が良くなったら、帰るに決まっている。それは予め分かっていたはずなのに、来月と具体的に言われて、唐突に実感したのだ。
――――帰ったら……そしたら、フェリクスは居なくなる。フェリクスと、話せなくなるんだ。もう、会えなくなるんだ……。
ノースベル王国は、ここから随分と北方の、遠い遠い場所にある小国だ。年中雪に包まれているような国らしい。フランツ王国とは、到底簡単に行き来できるような距離ではない。フェリクスが帰ったらそのまま、二度と会えない可能性が高いのだ。
――――嫌だ。そんなの、嫌だ……!!
ディアナの目にはみるみる間に涙が溜まり、ぼろりと零れた。母ミレーヌがそれを見てぎょっとしている。ディアナはそのまま、子供のように泣きじゃくったのだった。
♦︎♢♦︎
翌日、ディアナは真っ赤に腫れた目で、フェリクスに会いに行った。いつも落ち着いているフェリクスは、珍しく動揺した様子を見せた。
「ディアナ、どうしたの?……もしかして、泣いた?」
「私、私……フェリクスに、謝らなきゃいけないことがあるの!」
「僕に……?一体、何を?」
ディアナはがばりと頭を下げて、大声を出した。
「ごめんなさい!私、フェリクスの病気が良くならなきゃいいのにって、思っちゃったの……!」
「……ディアナ」
ディアナは顔を上げた。彼女の紫の瞳には、またみるみる間に涙が溜まっていった。
「病気が良くなったら、フェリクスが帰っちゃうって思ったの……!そしたら、会えなくなっちゃう。そう思ったら……耐えられなかったの!でも、だからって、こんな酷いことを考えて、ごめんなさい……!」
「……」
「フェリクスに会えなくなるなんて、嫌なの。私、前みたいに戻れない。どうしたら良いか、分からないの……!」
フェリクスは、ぼろぼろと零れ落ちる彼女の涙に手を伸ばし、そっと拭った。それは熱い指だった。触られたところがびりびりして、まるで熱が伝染するように感じた。彼は怒らず、いつも通りの穏やかな声で言った。
「謝らなくていいよ。僕も、同じ気持ちだから」
「え…………」
「ディアナと会えなくなるなら、病気が良くならなければいいのにって、何度も思った。ずっと、望んでいたことのはずなのに……嬉しいことのはずなのに、喜べなかった。君を、ノースベルに連れて帰れたら良いのにと…………何度も思った…………」
「フェリクス…………」
フェリクスはその、冬の空のような瞳を切なそうに細め、じっとディアナを見つめて言った。
「僕は、君を愛しているから」
「……!」
「一生懸命で、いつも明るくて、賢いディアナのことが、大好きだから。尊敬しているから」
「…………そっか」
そう言われて、ディアナは唐突に自分の気持ちを自覚した。
「…………そっか。好きなんだ。私、フェリクスのことを、愛してるんだわ」
「……ディアナ」
「だから、こんなに苦しいんだ。だから、フェリクスといると心臓がドキドキするんだ。私、今まで全然分からなかった。けど、今分かったわ……」
ディアナは涙を零しながら、泣き笑って言った。
「私、フェリクスのことが、大好き。大好きなの……!」
フェリクスは黙ったまま、そっとディアナに手を伸ばし、優しく抱き寄せた。ディアナはとめどない涙を流しながら、彼の背中に手を回した。熱い、熱い体だった。
♦︎♢♦︎
「まさか、ディアナがこんな急に嫁入りするなんて、夢にも思わなかったわ」
ミレーヌは、とても寂しそうな声を出した。ディアナはフェリクスと一緒に、ノースベルに行くことになったのだ。そのまま嫁入りするということまで、トントン拍子に決まった。二人の寝室で、クラウスは呆れたような声を出した。
「僕は、フェリクス様と一緒に居るディアナを初めて見た時から、もう覚悟してたよ。ミレーヌは、全然気が付かなかったの?」
ディアナがフェリクスに急速に惹かれていることなど、側から見て明らかだったと言うのに。
「全っ然、気づかなかった…………」
「相変わらずだね、ミレーヌ。僕は、あの子に最良の伴侶が見つかって、本当に良かったと思うよ」
「うん……フェリクス様が、とても立派な方なのは分かるわ。でも、ノースベル王国に嫁入りなんて……もう、あと何度会えるか分からないじゃない……寂しいのよ……」
「うん、僕も、すごく寂しいよ。子が育つのは、あっという間だね」
その夜二人は、ディアナとの思い出について語り合った。彼女が嫁入りするなど、ずっとずっと先になると思っていたのに――――人生とは、分からないものである。
♦︎♢♦︎
「お父様、お母様、行ってまいります!」
ディアナは旅立ちの日も、溌剌としていた。婚約してから変わったことは、四六時中フェリクスと手を繋いで、仲良くしているということだ。フェリクスはそんなディアナを、心底愛おしいという目で、いつでも優しく見つめているのだった。
「娘さんを遠い雪国へ連れ帰ることになってしまい、申し訳ありません。ですが、必ず、幸せにします。それに、二年に一度は一緒に、こちらへ帰ります」
「ありがとう。娘を任せるのに、君以上の人は居ないと思っているよ」
「ディアナ、どうか元気でね」
兄のエインス、双子のニコラも寂しそうな声で言った。
「ディアナが居なくなると、一気に静かになるね。元気で過ごすんだよ」
「行儀よくしろよ。フェリクス様に、愛想尽かされないようにな」
「分かってるわ!私、フェリクスに相応しい人になるって決めたんだもの。だから、精一杯頑張るわ!」
にっこりと笑うディアナは、それはそれは美しかった。彼女は恋をして、見事に花開いたのだ。
その後、ディアナは大公となったフェリクスの妻になり、ノースベル王国における創薬学の祖となった。文字通り、歴史に名を残す女となるのだが……それは、まだまだ先の話である。




