フライパンの音
栗原亮太は、美食ライターだった。本人はその自覚はないが、世間ではそう言われていた。
元々は売れない作家だったが、エッセイで料亭やレストランの料理をテーマに書いていたら、それが評判となった。今は料亭やレストランを巡り、文章を書くのが本業となりつつある。
今日も仕事でレストランへ行く。塩だけで味付けしたシンプルな肉を食す。
この塩が貴重なもので、食べていくうちに味が変化していく。
「美味い」
ただ、今は仕事。どう文にするか、さっそく悩みはじめていた。美味しい、確かに美味しいが、同時にストレスもあり、最近はレストランの食事も楽しめない。編集者に依頼された店に行くのも辛い。本当はカタコトのインド人がやってる汚いカレー屋とかも好きだが、そういう店は選ばれない。それに今日は編集長と一緒というのも、楽しくはない。書籍の部数や人気の本の話題ばかりで、緊張してくる。
そんな亮太の一番の好物は、寿司でも肉でも、天ぷらでもピザでもなかった。
「ただいま」
「あなた、今日は豆苗と竹輪の炒め物よ」
「よっしゃ!」
家に帰り、亮太はガッツポーズをとる。古い団地の一室が我が家だ。売れない時からずっとここで住んでいる。一人息子もう大学生で、学校の寮に暮らしていていて、今は夫婦二人暮らしだった。
「待っててね、すぐ作るから」
食卓に行き、キッチンに立つ妻の後ろ姿を見つめる。コンロに火をつけ、妻はフライパンで炒めものをはじめた。
ジュ、ジュッ、ザザっと音が響く。妻の持つフライパンはまるで楽器のようだ。妻も鼻歌まじりに楽器を奏でている。
そんな音に耳を傾けながら、腹がなる。亮太の一番の好物は、この豆苗と竹輪の炒め物だった。
いかにも家庭料理。豆苗と竹輪という安価な食材を使っているので、節約飯でもある。売れない時から妻が作ってくれたご飯。お金がない時に食べたこの家庭料理は、何よりもご馳走だった事を思い出す。このフライパンの音を聞くたびにワクワクし、多少の苦労もどうでも良くなるものだ。
「あなた、出来たわよ!」
豆苗と竹輪の炒め物が乗った大皿を、妻が目の前に置く。ソースが焦げる臭いやほかほかの湯気がたまらない。この料理は、どこのレストランや料亭に行っても食べられない。このフライパンの音も、うちでしか聞こえない。
「いただきます」
夫婦で手を合わせ、笑顔で食べはじめた。