冷たくて甘い旦那さま〜アイスクリームと新婚夫婦の日常〜
カレーライスを作る時は、とろみが肝心だ。これを失敗してしまうと、水っぽくなったりしてしまう。台所のカレーなべからは、良い匂いが漂い始めているが、今回の味はどうだろう。味見をして見るが、野菜や肉の旨みが溶け出し、悪くないはず。
女学生時代、西洋料理の勉強も頑張っていたが、結婚する事になって中退した。女学校では結婚の為に中退する生徒は珍しくはない。授業参観もお見合いのような目的もあったりする。
それは去年のことだった。
実咲は、台所のカレー鍋の火加減を見ながら、去年からの事を思い出す。
当時、実咲は親戚の家に引き取られていた。実咲の父は成り上がりで、さまざまな事業に手を出していたが、失敗。借金が膨らみ、自殺。母もとっくの昔に亡くなっていたので、親戚の家で暮らしていた。どうにか女学校には通えるだけの遺産はあったが、毎日のように親戚の奥様や娘に嫌味を言われ、疲弊していた。親戚の家も食品会社の事業を起こし、そこそこの金持ちだったが、実咲にような孤児は疎ましかったようだ。それでも悔しいので、女中に混ざって家事を頑張り、泣き言一つ溢した事はなかった。
また、実咲はそこそこ見目もよく、奥様や娘に嫉妬されている面もあった。本当は縁談なども
舞い込んでいたのが、なかった事にされていた。
そんなある日、実咲の父が借金をしていた高利貸しの主人・狭山祐太郎がやってきた。てっきり、未だ返していない借金の取り立てだと思ったが、なんと縁談の申し込み。借金をチャラにする代わりの結婚だった。
奥様や娘は、「あーんな高利貸しの嫌味そうな人なんて」とクスクス笑っていたが、実咲にとっては申し分のない話だった。年齢は離れていると言っても、二十八歳。十歳程度なら、そこまで年の差もない。それに、この親戚の家をでられるなら、どこでも良かった。
時は大正初期。この時代の結婚は、個人の自由はない。演劇などでは自由恋愛が叫ばれていたが、実咲にはピンとくる話でもなく、後々親の尻拭いという形の結婚をさせられるだろうと思っていた。
一方、祐太郎の方も見え張りの親から、華族令嬢の縁談を無理矢理させられ、ウンザリしているところだった。一度華族令嬢と婚約を結んだ事もあったらしいが、ワガママな注文ばかりつけられ、破談。
祐太郎の方もごく普通に家事を運営してくれる女を探していたが、親戚の家で女中のように働く実咲を見かけ、これは利害が一致するにではとひらめき、結婚の話まで進んだという事だった。
世間一般的に仲の良い夫婦であるかは不明だが、結婚して一年、大きな問題もなく、本郷の一軒家で平和に暮らしていた。まだ子供のできる兆候はないが、実際の祐太郎は嫌味っぽくなく、ごくごく普通に夫として優しく、お金の心配もなかった。確かに自由恋愛のような甘いムードには縁はなかったが、別にこれと言って不満もない。この時代は女性の地位も低く、身体を売らないと生活できない女性も少なからずいる。
「祐太郎さん、おかえりなさい」
「おお、ただいま」
祐太郎が仕事から帰ってきた。
居間のちゃぶ台を囲み、夕食をとる事になった。食卓の上は、カレーライスと漬物、それにさくらんぼが並ぶ。さくらんぼは、ちょっと高いが、せっかく旬だし、たまには悪くないはずだ。
「カレー、どうですか?」
「ああ、悪くはないな」
この時代には珍しく、祐太郎は洋装だった。上着は脱ぎ、シャツにズボン姿だった。
実は数ヶ月前、祐太郎は高利貸しの仕事はやめ、出版社を興し、作家とともに書籍を作る仕事をしていた。学生からの中間とともに起こした事業でもあり、彼の長年の夢でもあった。
収入の面では不安もあったが、元々祐太郎は土地や家も所有していたので、その収入で問題はなかった。そもそも実咲もあまり派手にお金を使うのは、苦手で節約の方が好きだ。金遣いが荒かった父の姿をずっと見ているからかもしれない。
「美味しいよ、カレー」
「それはよかったわ。とろみをつけるのが、難しいのよね」
そう言うと、祐太郎は目を細めて笑う。高利貸しをやっていた時より、だいぶ表情が柔らかくなってきた。高利貸しといっても詐欺のような面もあり、「アイスクリーム」という蔑称もあるぐらいの仕事。
なぜか高利貸しがアイスクリームと呼ばれているのか、二つの説がある。一つは高利貸しと氷菓子をかけた説。いわゆる言葉遊びだ。
もう一つの説は、口には甘いが、実際はとても冷たいという共通点から。確かに敷居は低く金を借りられるには甘い話だが、その後は……。
江戸末期、幕府の使節団がアメリカで食べたものがアイスクリームと日本人の初めての出会いだ。
その後、明治二年、横浜馬車道常盤町で売られていたものが日本初のアイスクリームと言われている。牛乳、卵、砂糖で作られ、あいすくりんとも呼ばれていた。高級品でもあり、一般には普及しなかった。一日の給料分ぐらいの値段もし、外国人や金持ちの食べ物だった。鹿鳴館でも外国人に振舞われていたそう。
明治十年頃から東京でも売られるようになった。大正時代に入ると喫茶店やレストランでも提供されるようになり、ようやく庶民にも広く親しまれている。こうして高利貸しは、アイスクリームと呼ばれるようになった。
「そうか。実咲が作ったカレーライスは世界一美味い」
ふいに甘い事を言われててしまった。カレーの辛さのせいではなく、別の理由で実咲の顔は真っ赤になりそうだった。
戸惑っている実咲に、さらに祐太郎は甘い事を言う。
「今度の土曜日、カフェにも行かないか?」
「良いの?」
「たまには、な」
見た目は、目が細く、冷たく嫌味っぽく見える祐太郎だが、中身はそうでも無い事は、妻である実咲が一番よく知っていた。高利貸しをやっていた時は、アイスクリームと揶揄された事も度々あったそうだが。
「ねえ、だったら喫茶店でアイスでも食べに行きません?」
「アイスか、はは、悪くはない。明治時代は、アイスは本当に高級品だったんだよな。時代は変わる」
「ええ。ちょっと前は庶民には夢のような食べ物でしたのにね」
気づくと、ちゃぶ台の上のカレーライスの皿は、すっかり空になっていた。
そして土曜日。いつもより丁寧に化粧をし、髪の毛を結い、身支度を整えて、祐太郎と出かける準備をした。
「あら」
今朝の朝刊がちゃぶ台の上に、無造作に置きっぱなしになっていた。すぐ片付けよいうとしたが、何となく気になり、ぺらりと捲る。
「え?」
三面記事だったが、実咲にとって驚くべき記事賀書いてあった。あの親戚の家の食品会社の工場で、従業員の虐待や賃金未払いなどが問題になり、記事になっていた。
「どう言う事?」
新聞から顔を上げると、祐太郎がそばにいた。そしていつもより少し冷たい視線で、新聞記事を見下ろしていた。
「実は知り合いに探偵もいるんだよな。あの旦那の弱味は他にもいろいろ、な」
そんな事も言っている。
まさか、復讐してくれたりした?
これは詳しく知らなくても良い事なのかもしれない。今はもう幸せだし。たまに親戚の事を思い出すと、悲しい気持ちはあったけれど、実咲はもう思い出さない事にした。
もう彼は、高利貸しは辞めてしまったが、冷たい甘い旦那さまらしい。
その後、夫婦二人で食べに行ったアイスクリームは、とても冷たく、夢のように美味しかった。