4.「また、君とやり直したいんだ」
「では……さようなら、お元気で」
スタスタと歩き出す私の背中に、じっとりとした視線が刺さる。
言葉が出ない代わりに私の体を強く引っ張ってくるそれを、気づかないフリをして歩く。
後ろは振り返らない。
彼の姿を目にしてしまったら、きっと進めなくなってしまうから。
一歩、また一歩と進むたびに、キュッと締め付けられる胸。
(……)
あれほどの仕打ちを受けていながらも、私の心は未練がましくまだ彼を愛しているようだった。
さようならと言って、その瞬間にスパッと嫌いになれたなら。
さっさと気持ちを切り替えて、前向きになれたら……どんなに楽だったろう。
気分を変えようと何気なく辺りを見渡すと、もうほとんどどこの店にも明かりは消えて、皆揃って扉には『close』の看板が掛けられていた。
今や街を照らすものは、所々にポツンと立った街灯と月明かりのみ。
その重い薄暗さは、まるで深く沈んでいく自分の心を表しているかのようで……なんだか余計に虚しくなってくる。
(あら?嫌だわ、なんだか急に視界がぼやけて……)
雨が降っているわけでもないのに、目の前の景色はどんどん潤んでいく。
屋敷の優雅な生活から一変、いきなり身一つでほっぽり出された私。
とはいえ、実家に帰ろうにも家は隣町。馬車がないととても帰れない距離で……
今日は仕方ないので、屋敷を出る時にもらった僅かな資金で適当な宿に泊まるつもりだった。
だから、宿のある場所までまだもう少し歩く必要があるというのに、壊れた涙腺がひっきりなしに邪魔をしてくるのだった。
辺りはほとんど何も見えないような真っ暗闇。
しかし今はかえってそれがありがたかった。
目から溢れるそれを指で掬っては進み、また掬っては進む。
トロトロと遅い足取り。
こんな調子じゃ、着く頃には朝になってしまうかもしれない。
しかし急ぎたくとも、また自然と水が溢れてきて……
「……!……ア……!」
(何かしら?何かの鳴き声?野良猫……?)
「……ノア!……レ……ア……!」
(いや、違う。これは、まさか……人の声?)
「エ……エレノア……っ!」
不意に後ろから大声がして、思わずビクッと震える。
「ハァ、ハァッ……ま、待って……くれ……ハァ……」
ドタドタと騒々しい足音に、荒い息遣い。
きっと走って追いかけて来たんだろう。
「……」
「……」
ふとここで足音が止んだ。
走るのを止めて息を整えながら、じっと立っているようだ。
私の僅かな反応から声が届いたのが分かり、反応を待っている。
だが、応えるつもりはない。
振り向かずそのまま何事もなかったかのように、私はまた歩き出した。
「エレノア!待ってくれ……!」
涼しい顔を維持しつつも、胸の中はざわついていた。
本当は、まさか追いかけてくるなんて思っていなかったから。
(でも、ここで振り向いては駄目……)
それでも、心を鬼にして前を向く。
「エレノア!」
「……」
「頼む!待って……待ってくれ!」
「……」
「どうか、お願いだ……!止まってくれエレノア!」
あまりにしつこく騒ぐので渋々振り返ると……今にも号泣寸前で皺々の、なんとも不細工で情けない顔の男がこちらを見つめていた。
「エレノア……すまない、私が悪かった……」
「……」
「君には本当に……申し訳ない事をしてしまった……」
「今更、何をおっしゃるのです?もう今頃、諸々の手続きは終わっているはずですよ」
「いや、まだ間に合うはずだ……今すぐ帰って従者に止めさせれば……」
「ノーラの事が諦めきれないのですか?」
「……っ!」
ふと彼の瞬きのリズムが崩れた。
ほんの一瞬の分かりづらい変化だったが、その微妙な表情の違いを私は見逃さなかった。
(ああ、やはり……)
目当てはノーラか。
甘ったるい声で媚びへつらう、あの下品な女がそんなに忘れられないのか。
「残念ですが……彼女はもう二度と現れないでしょう。なにせ今日、あなたに正体を知られてしまった訳ですから」
「いや……それは別に構わない」
「なぜ?」
「話しかけたのは、ノーラの事ではなくて……君に言いたい事があるんだ」
「私?」
「そう。君だ……」
「私にまだ何か御用ですか……?」
「また、君とやり直したいんだ」
(え……?復縁したいですって?)
何を今更。随分と虫の良い話だこと。
想い人が幻だと知って、今度は元の婚約者に縋りつくなんて。
(この男、どこまで私を馬鹿にするつもりなのかしら……)
「君が今、心の中で思っている事は多分間違っている……だが、仕方ない。私がそう思われるような事をしたのだから」
何も言わずに私はくるりと背中を向けた。
彼のやり直そうという提案に対する、無言の意思表示。
「……そうか」
「……」
「ならば、せめて……最後に一つ、話を聞いてくれないか?」
「話?」
「ああ、馬鹿な男の話だ」
「……少しだけなら」
「分かった、手短に話そう……」
私の背中に向かって、フランツは語り始めた。
「ある夜、行きつけの店に行く途中……ふと後ろから誰かついて来ている事に気づいたんだ」
私からはなんのリアクションもない中、彼は淡々と話を続ける。
「振り返るとそこには、君にそっくりの人がいて……私の視線に気づくなり、妖しく微笑みながら向こうから寄ってきたんだ」
「君と同じようで違う……なんとも不思議な感覚だった。君の姿そのままに、意味ありげな目つきと蠱惑的な格好で誘惑してくる……堪らず私は一瞬で魅了されてしまった」
「耐えられなかったんだ。君とよく似て美しく、それでいてとても妖艶でどこか挑発的で……新鮮で強烈な刺激にひどく興奮している自分がいた」
「そして、麻薬のような強い快楽にとうとう呑まれてしまって……もはや自分の感情を制御できなくなっていた」
「やがてその女性を独り占めしたいと思うようになり、それなら結婚するしかない……と、強迫観念に駆られるようになった。そして、とうとう私は婚約破棄という行動に出てしまった……」
「さっき君が立ち去った後、あの場で一人きりになって……ようやく正気に返ったんだ。私は一体何をしていたんだろう、と……」
愛する人によく似た女に誘惑され、婚約を破棄してしまうほどに夢中になってしまった……
彼が言いたいのは、つまりそういう事らしい。
「でも、それはあくまでノーラという幻。私ではないわ。あなたが惚れ込んでいるのは、私が作った架空の女性よ?」
「ごもっとも」
「でしょう?」
「でも……もし、ノーラが君の変装ではなくて本当にただの別人だったら……きっと私は、婚約の破棄だなんて馬鹿な事を言い出さなかっただろう」
「……そうかしら?」
ノーラという、分かりやすい娼婦の記号。
性をやたらと強調した下品な格好に、鼻にかかった甘い声が特徴というだけの……特に珍しくもない、どこにでもいそうなとてもありふれた存在だ。
「そんな女性なんて、他にいくらでもいるでしょう?何も私じゃなくたって……」
私の問いかけるような眼差しに答えるように、フランツは力なくははっと笑った。
「上品で控えめな君と違って、積極的で……それでいて君そっくりの……そんな彼女が好きだった」
「……」
「いつも彼女の方から擦り寄ってきて、何度も何度も好きと言ってくれて。言われすぎて少し恥ずかしくなってくるくらいだったが、私を好いてくれているのがはっきりと感じられて……本当に嬉しくて、幸せな時間だった」
(何度も何度も好きと言ってくれる……)
ふと思い返せば、フランツに好きと言った事なんてほとんどなかった。
ましてや、何度も好きとしつこく口にして彼が恥ずかしくなる……なんて事は一度もない。
彼に迷惑をかけてはいけないと、ずっと心に秘めていたから。
確かに彼を好きという想いは強かった。
しかし、滅多に言わなかった。嫌われるのが怖くて言えなかった。
(あんなに好きよ好きよとしつこいほど言われて……でも、それが嬉しかった……?)
女なら自分を抑え、ひたすらお淑やかに男を支える……それが当たり前だと思っていた。
子供じゃあるまいし好き好き言うだなんてはしたない、そう信じていた。
だが、『ノーラ』の時は……彼の気を引くために、わざと遠慮を知らないような馬鹿な女のふりをしていた。
(他の女が近づいてくるのを避けるため)何かにつけて大好きだと言い、(これもまた女避けのために)彼のタイミングなどお構いなしに突然抱きついたり、(彼の無駄遣いを制限すべく財布の中身を減らすために)誕生日プレゼントに高価なバッグをせがんだり……
思慮などまるでない、好き勝手な振る舞いをしていた。
しかし、まさか……それが、それこそが……彼の望んだ私の姿だったなんて。
(そんな、そんな……!)
私の中の常識が音を立てて崩れ落ちていく。