2.「それでは、さようなら」
呆れと失望から何度もため息をつくも、フランツは無言のまま。
私のリアクションを待つばかりで、なんのフォローも入れてこない。
私の気持ちなどどうでもいい、あくまで私がはいそうですかと言ってさっさと大人しく立ち去る事のみを望んでいる……私にはそう見えた。
今まで積み上げてきた二人の信頼関係……それがこんな一緒で無かった事にされるなんてと、さらにため息が止まらない。
「はぁ……」
「……」
そんな中、ふと思った。
(ところで……そのお相手って、一体どういう方なのかしら?)
強い呆れの感情から段々と頭がクリアになってきて、私の中に平常心が少しずつ戻ってきているようだった。
まだ戸惑う気持ちや、なんとなく腑に落ちない感じは残ってはいるが……そうやって冷静に考えられるほどには落ち着いてきていた。
婚約者との突然の別れに悲しみで泣き崩れるかと思いきや、感情は不気味なくらい平坦なまま……なんだか他人の事のようですらあった。
いや、それはただ単に事の展開が急すぎて心が追いつけていないだけかもしれないが。
そして私は、思ったままを何気なく彼に尋ねてみる。
「して、そのお相手は……?どういう方なのです?」
「それは、さっき言っ……」
「いえ。そうではなくて、その人となりを知りたいのです」
「……っ?!」
息を呑む音がはっきりと聞こえた。
そんな驚きようからして……まさか深掘りしてくるとは思っていなかったようだ。
私を納得させるための言い訳や、いかに浮気相手が素晴らしいかの説明はたくさん考えてきたんだろうが……まさか単純に興味本位でその女性の事を聞かれるとは考えてもいなかったのだろう。
彼としてはあまりその辺りは触れられたくなかったようだ。
まぁ当たり前の反応と言えばそうだが……バツの悪そうな顔をしたままなかなかうんともすんとも言わないので、痺れを切らした私は遠回しに急かす。
「まぁ、あなた様がそこまで気に入るほどですから……きっととても素敵な方なのでしょうね。果たしてどんな方なのかしら……」
それでも彼の口は重く。
しばらく長々と間を置いて、ようやく一言だけポツリと返ってきた。
「……ノーラ」
「ノーラ……!」
まさかの名前に、思わず声が裏返る。
「……知り合いかい?」
「いえ、面白いお名前だなと思って……少し驚いただけです」
「そうか」
咄嗟についた真っ赤な嘘。
ノーラ。彼女の事、本当はよく知っている。
小さい頃からの……それこそ産まれてすぐの時からの……長い長い付き合いだから。
別に珍しくもなんともない名前だというのに、面白い名前だと思ったなんて見え見えの嘘を、彼は何も追求してこなかった。
なんとも分かりやすい反応だ。
おそらく今、彼の頭の中は新しい恋人に夢中で、それどころではないのだろう。
「そうそう。それで、だ……プロポーズした時に渡した指輪の事なんだが……」
これ以上深掘りされたくないのか、話題を無理矢理変えるフランツ。
「指輪?これの事ですか?」
婚約してからずっと薬指にはめている、ダイヤモンドのついた婚約指輪。
今時珍しい、派手な装飾の類が一切ないとてもシンプルなデザインのものだ。
可愛らしさは控えめだが、素朴で上品な雰囲気のそれを私は結構気に入っていた。
「そう、それだ。君にあげておいて、こう言うのもなんだが……それを私に返してもらえないだろうか?」
「えっ?」
「それは亡き母の形見でもあって……私の妻となる人間に持っていてもらいたいんだ」
初めて聞いた指輪のエピソード。
(そんなに大事な物だったのね、これは……)
逆に言えば……そんな大切な物を渡すほど、愛されていたという訳で……
(……)
といっても、それはもう過去の話になりつつあるが。
「……なるほど、分かりました。ですが……」
「うん?」
「返すのは……今日の晩まで待っていただけないでしょうか?」
一つ、やりたい事があった。
この関係が終わるなら終わるで別にいい……でも、このまま、ただ彼に言われるがまま従うのも悔しいから……少しだけ仕返しして、それから終わりにしたいのだ。
「……?別に構わないが……」
「その……いきなりだったもので、まだ気持ちの整理がつかなくて……もう少しだけ身につけていたいのです」
「そうか……分かった。では、落ち着いたら私の屋敷まで持ってきてくれ。従者達には伝えておく。玄関で名乗れば、すぐに誰かが対応してくれるだろう」
婚約者ではなくなった以上、私はこの屋敷から追い出される。
それはすでに分かっていたから、他人行儀な彼の言い方にはさほど驚かなかった。
しかし、指輪を受け取るのはあくまで従者であるという言葉のニュアンスに目頭がカアっと熱くなっていく。
(彼はもう、私に会わないつもりなのね……)
まだ彼を見ていたいと思う気持ちに鞭打ち、無理矢理視線を外す。
このままだと想いが溢れて、泣き崩れてしまいそうだから。
そして二、三度強く瞬きをして、潤む視界を強引に誤魔化し……震える喉に無理矢理力を込めて、平常通りの自分を演じる。
「……分かりました」
「……」
「ところで、今夜は出かけられるのですか?」
「まぁ、少しだけな。それがどうしたんだ?」
「いえ、なんとなく気になって。そうですか……」
新しい恋人はできても、夜遊びは続けるつもりのようで。
「突然の話ですまない。今まで色々と世話になったな……本当にありがとう、エレノア」
「ええ、こちらこそ……」
「それでは、さようなら」
普段の彼らしく言葉は丁寧だったが、挨拶もそこそこに彼はさっさとどこかへ姿を消してしまった。
まさに心は行動に現れる、という感じの……気もそぞろな、とても雑で適当な別れだった。
前々から考えていたのだろうか。
今の彼には未練やそういった類の感情は、もう一切無いようだった。
(ふん。婚約破棄だなんて馬鹿げた事言い出すような男なんて、こちらから願い下げだわ……)
かえって彼の態度のおかげで……婚約破棄という名の大失恋だというのに、私もなんだか晴れてスッキリとした気持ちだった。